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第四インターに対する軍事的せん滅戦に対する自己批判

まっぺんさんの「四トロ同窓会二次会」掲示板で、また草加耕介さんのサイト「旗旗」ブログにも関連記事がアップされたことで、既にご存知の方もおられると思うが、1月20日付け革共同通信第25号で、革命的共産主義者同盟再建協議会(以下、「再建協」という)は、84年に行った第四インターに対する軍事的せん滅戦に対する自己批判を表明した。私の所には諸般の都合により、現物は昨日見たものである。全文は「再建協」サイトサイトもしくは「旗旗」ブログ当該記事を参照して欲しい。
本自己批判は、80年代の運動をどう位置づけ、どう総括するのか?(今回の場合は革命軍戦略だが、それも含めて)という、再建協がこの間行なってきた議論のなかの一つとして出てきたものである。なおその議論・作業はまだ全て終わったわけではないので、これでは不十分であるとする周辺からの様々な批判・意見に十分答えられるものではないと私は考える。
ただ、あの時代の活動家にとっては、そんなものでは済まされないことも十分承知しているが、とりあえず出された自己批判文の肝を紹介し、自分の思いも含めて述べたい。
三里塚反対同盟の3・8分裂(北原派と熱田派に分裂)において「北原派が正しい、熱田派は誤っていた。」ということを確認したうえで、熱田派を支持・支援してきた第四インターを、革命軍を使って軍事的にせん滅したことは誤りだった、としている。
>なぜならば、「3・8分裂」という日帝・国家権力の全体重をかけた三里塚闘争圧殺攻撃を、日本階級闘争が真に乗り越えていく道は、労働者階級・人民大衆自らが反対同盟農民の闘いの正義性に依拠し、「一坪再共有化」推進グループによる三里塚闘争からの逃亡とその破壊を圧倒的な弾劾の声で包囲し、二期決戦に向けて敷地内反対同盟を先頭にした広汎かつ強固な大衆闘争陣形を形成するという闘い方をするべきであったのであり、それ以外にはなかったはずだからである。(下線はあるみさん)
われわれは、この労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を、「軍事的せん滅戦」によって代行しようとした誤りを率直に認めなければならない。このようなやり方は、労働者階級自身による政治と暴力の奪還を阻害することにしかならないのである
そして、このようなことが起こったのは
当時われわれは、「先制的内戦戦略の第二段階の戦取」として「革命的武装闘争を基軸とする三里塚二期決戦を突破口に国家権力との対峙段階を戦取し、階級闘争全体の革命的転換をかちとる」(82年1・1政治局アピール)と主張していた。
 これは〈労働者階級の階級的決起を基礎にして国家権力を打倒する〉というのではなく、〈対国家権力の武装闘争に、労働者階級全体を巻き込んでいく〉という転倒した発想であった。こうした発想の中に、「革命党のたたかい」を優先させ、革命の主体としての労働者階級・人民大衆の存在とそのたたかいを軽視する傾向が色濃くにじみでていたのである。

要するに、自らの力量・・・どれだけ大衆に支持されるか、支持を得られる運動を作ることができるかということに不安があるものだから、「革命軍」の力にたよる、代行主義的なあり方をしてしまったのだ。
だが、それだけではなく
しかし、84年第四インターせん滅戦は、労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立を、相手を「反革命」とまで規定し、組織的な暴力を行使することによって、決着をつけようとするものだったのであり、そこには、われわれがいまだにスターリン主義の「粛正の論理」を真に乗りこえていないという間題が突き出されているのである。
スターリン主義的なあり方の批判、克服がまだまだできていなかったということである。
本来、革共同の反スターリン主義の核心は、スターリン主義を「一国社会主義を本質とする国際共産主義運動の疎外態」と規定し、それを打倒対象として措定しただけでなく、われわれ自身もふくめた党と共産主義運動が「専制と粛清」のスターリン主義的変質をきたす危険とたえず闘うことを明確にしてきたことにあったのである。
 われわれは、その思想的核心を後退させ、空洞化させてきたということを痛苦の念をもって確認しなければならない。

この確認・反省の作業の中から、なぜ80年代以降の運動が先細りになったのか、さらに言うと、動労千葉という「精化」がありながら、国鉄分割民営化闘争で勝利できず、総評解体→連合結成をゆるし、今の新自由主義攻撃を許してしまったのか、革共同中央のようなもの・・・70年代以降に勝ち取られたものを投げ捨て、批判するものを全て排除する・・・がなぜでてきたのかということを明らかにしなければならない。
 ここで
本来、革共同の反スターリン主義の核心は、・・・のくだりであるが、「再建協」がこの視点に立つことが、自らがスターリン主義的なやり方で「排除」される・・・まさに07年11月の革共同の分裂・・・いわゆる「関西派」の排除・・・がなければ、自分たちがやってきたことが自らにふりかかってこなければ、できなかったということである。個々の人も組織も、そういうものなのかと思わざるを得ない。
ここで、草加さんのブログから>中核派は自分たちがそういう大衆に与えてきた苦しみや辛さ、恐怖と屈辱、怒りや憎しみ、そして左派運動全体の混乱や停滞というものを、全く軽くしか考えていない、甘く見ている、なめていると思います。という辛辣な批判がでてくるのも、やむを得ないことかもしれない。ここでいわれていることは、第四インターへの攻撃そのものではなく、それと前後して80年代半ばから90年代にかけて主に学生戦線で行われた、他党派・ノンセクトで熱田派を支持したり、あるいは北原派支持であっても中核派は支持できないといった学生達への恫喝政治のことで、「左翼運動全体の混乱や停滞」とは三里塚・国鉄を含む全ての戦線・闘争課題において、学内で運動を責任もってやる部分でさえも「反革命規定」してつぶしていったということを指す。なぜならそのような>苦しみや辛さ、恐怖と屈辱、怒りや憎しみ・・・はそれを受けた当事者でないと、他方主流派でいようが、反主流派でいようが「つぶす側」に居る者はほぼ絶対に分らないだろうということだ。
 私は80年代、いわば両方の立場にいたのだが、つぶされる身に身をおく事が無く(先輩にあたる方々はそこに居た、ノンセクだが草加さんとほぼ同じ立場にいたと思う)、また「つぶす側」に立って自ら暴力をふるう前に、両者の矛盾から「逃亡」する形で運動から去っていた(そのくせ「前進」の購読は続ける)という卑怯・へタレのことをやって来た。だから草加さんの言われる「気持ち」までは理解できるかも知れないけれど、「怒り・憎しみ」の感情までは、絶対に分りあえないだろうと思う。他方、今の私の「親分」は、80年代は現実社会?に居なかったこともあって、当時の学生戦線のことはさっぱり理解しておらず「あの当時は大学でインター見つけていじめていた」程度の認識しかない。絶望的である。
だから、今回の自己批判を期に、何が行われたのか、何が悪かったのか、「つぶされる側」に居た人達からどしどし指摘、批判、非難していかないと、この自己批判は完全なもの(運動の誤りを正すのには、完璧な自己批判が完成!ということは無いのだろうけれど)とはならないだろう。日本軍がアジアで行った数々の「残虐行為」や、「従軍慰安婦」などの恥ずべき行為は、実際に被害にあった人々の声を素直に聞くことで、初めて認識され、謝罪の気持ちと「再び過ちを繰り返さない」ことにつながるのと同じことである。
またそのことが「再建協」の言う>根底的な自己変革をかちとり、スターリン主義を乗りこえ、日本階級闘争の戦闘的革命的発展と国際共産主義運動の復権にむけて闘うこと の助けになるのだと思う。

私も今のところは、これぐらいしか書けない。

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