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単なる資料ですが

革命的共産主義者同盟再建協議会の行った「第四インターに対する軍事的せん滅戦に対する自己批判」について、果たして第四インターに対する「反革命規定」そのものが誤っており、それを撤回したのか、「反革命規定」はそのままで、「革命軍」によるせん滅戦が間違いだったのかということが巷で問題になっていることの一つのようだ。
私の親分なんぞも「インターというのはそもそも日和見主義者なんや。わざわざ反革命規定する必要なぞなかった。やったこと(3・8分裂)は反革命的だったわけだから、1回ボコボコとやっつけて、『お前ら今度やったら、ゆるさんぞ』としておけばよかった。」などと言ってるし(1回のボコボコが問題であったとは言っていないわけですね)
隔離論争掲示板NK氏なんかも、
敢えて言わせてもらえれば、第4インターは極めて悪質な日和見主義であっても反革命とは規定できない。この連中は終始一貫したイデオロギーを持たず、絶えず革命的潮流と権力側との間を右往左往するもので、ただ革命派が十分に強力でない間だけ政治的生命を保つ存在と言えるでしょう。しかしそれは、困難な局面で人民の遅れた、反動的部分と結びつきその政治的代弁者となる役割を与えられる。
また、こうした部分と人民の利害とが非和解的となり、暴力的衝突として現れるときは、ひとつの戦争として扱わざるを得ないでしょう。その場合、その敵対的利害の度合いに応じて戦争の手段、強度は異なるでしょうし、また一旦戦争的局面に入れば、相手が白旗を揚げるか政治的に抹殺されるまで続けなければならないでしょう。中途半端な戦争はかえってわが方に大きな害を及ぼす。それは実際今日においても「内ゲバ主義反対」の醜悪な政治的潮流が存在し、それへの関西派の自己批判と言う悪しき政治になって現れている。

なんて言っている。
草加さんが前のエントリーのコメント欄で指摘された
実はそのへん、かなり曖昧ではないでしょうか。読む人の先入観でどちらにも読めてしまう感じです。そのあたりのニュアンスで中核(本部派)、インター(かけはし派)のどちらからも突っ込まれてしまう。
で、それはわざと曖昧にしている(せざるを得ない)ような気が。実際には関西派内部で温度差があって、「とりあえずテロったことだけ謝っておこう」というのが、現実的な落としどころだったんではないでしょうか。

というのが正直なところなんでしょうね。

ただ、うちの親分にしろ、NK氏にしろ、じゃあ実際の大学における政治や闘争について、中核派が実際インターへの反革命規定を基に、何をやってきて、その結果どうゆうことになったのか?という問題意識は、全く無い。
私ゃ、この立場から、この問題を取り組みたいし、第四インターが何だったの?ということについては、あまり重要な意義を見出していない(まあ、党派政治にとっちゃ、重要なんでしょうね)。党と大衆の関係の有り方≒党のあり方が問題なのだ!そういった意味で、80年代の総括というのは、大切なのだが・・・

「展望」第4号が出た。この中に、「革共同の再生・奪還のために 革命的共産主義者運動の全面的な総括をめざして 塩川 三十二」論文がある。39ページにも渡る長いものであるが、どちらかというと革共同本部派との党派闘争用の論文だから、創生期~70年代、および現代の問題・・・特に06年3・14決起関係が主で80年代論は、ほんのちょっぴり・・・2ページほどしか、無い・・・
ここの目次・構成は
(Ⅳ)80年代の到達地平と限界
1.新自由主義攻勢との対決(国鉄決戦)
2.革命軍戦略
3.革共同中央(=政治局)の崩壊
これだけである。
で、2.革命軍戦略 から引用
 しかしフェーズⅡは、労働者階級の決起による全人民的一斉武装蜂起によって革命を切り開くのではなく、権力・反革命との革命軍の戦争に階級全体を引き込んで勝利を切り開くという逆転した発想に立っていた。プロレタリア革命はプロレタリアート自身の事業であり、それが本格的な内乱・内戦-蜂起・権力奪取を奪い取るのであって、革命軍の闘いは労働者の決起を促進するものとして遂行されるべきである。ところが80年代の後半にいたり、革命軍戦略は、軍の代行主義的闘い(戦い)に全てを委ねるところにまで行きついたのである。
 同時に、この過程で、「一坪再共有化」という三里塚反対同盟を土地売り渡しに転落させんと先兵となったとはいえ、第4インターなどを「反革命」と規定し、これに対し赤色テロルを行ったことは、革命軍戦略の重大な誤りであった。わが再建協議会は、革共同として厳粛に反省し、改憲阻止決戦のため、権力・反革命と闘う巨大な戦闘的統一戦線を、われわれが下支えして構築することを誓う。

とある。

ま、今回は紹介だけ・・・ということで。

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コメント

私の元親分の一人に言わせれば、「革共同には政治があって思想がない、ブントには思想があって政治がない」ということであり、今回の問題はまさにその典型であろうと思います。

日和見主義潮流であろうがなんであろうが、人民の一部を党がテロったのです。日和見主義だったら人民であろうとテロってもいいということなのでしょうか?そのあたりの内省的な捉え返し、党と人民の関係の整理、人民内部の矛盾に前衛党がいかなる態度で臨むべきかという共産主義政治のあり方=スターリン主義政治の克服という視点がまったくない。ただあるのは、「中核派が勝ち抜いていく」という現実政治の視点のみ。それをレーニン主義であるかのようにはきちがえている。引用されているNK氏の投稿など、まさにその醜悪な見本以外の何物でもない。NK氏にみられるような党と人民の疎外された関係をとことんまで推し進めれば、それこそがカクマルの姿なのであり、スターリンがやったことそのものなです。

スターリン主義を「どこか自分以外の場所にある外部の打倒対象」と考えることの誤りと申せましょう。現実には共産主義運動のスターリン主義克服は、内ゲバ主義の問題と同様、まずもって自分たちの内部問題として考える以外ないのです。そのあたり、「政治があって思想がない」のはインターも全く同じです。NK氏(そして中核派)などはスターリン主義を思想問題としては全く克服していない。彼らにとってそれは、一国社会主義論などの理論的主義的な批判を行って、何かしら自分たちがスターリン主義を超えた存在であるかのように思い上がっているにすぎない。実際には毛沢東よりはるかに下、金正日よりちょっと上くらいの存在にすぎない。

彼らは革命を人民の事業、暴力を廃絶するための否定の否定の論理といった思考をもちあわせておらず、ただ「中核派が天下をとる」といった党派闘争の延長でしか革命を語れない「内ゲバ革命論」に陥っているし、暴力の「否定の否定」という共産主義的な観点を喪失し、単なるストレートな暴力の「肯定」があるだけです。NK氏は水をかぶってよく考えてみるがいい。そんな難しいことを言わなくても、誰がこんな「革命」ならぬ革共同独裁の実現のために自らの命をかけ、自己を未来の人類のために投機しようと思えるだろうか?

参考
http://bund.jp/md/text/index.php?cat_id=12

投稿: 草加耕助 | 2009年3月 4日 (水) 18時25分

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