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相原亮司氏は新誘導路の工事を見て何も思わないのか!

 昨日のエントリーで、三里塚闘争において市東さんの土地を空港用地で取り囲み、問答無用の暴力で追い出そうとする新誘導路建設を弾劾したが、ちょっと前に朝日新聞の夕刊で連載されているニッポン人脈記反逆の時代を生きて の中で、三里塚闘争に関わった全共闘世代の方の記事があった。「朝日」の三里塚闘争に対する態度はいわずもがなの「闘争は終わった」というものであるから、こうゆう記事になるのもやむをえないが、違和感、というよりも「何を考えとるんじゃ!」という怒りを感じた。当該記事はWEBでは見られないため、保存も兼ねて、テキストを起こす。

反逆の時を生きて⑬ 戦う場・根下ろす場、成田
 国がむりやり農民の土地を取り上げるのは許せない。
 相原亮司(あいはらりょうじ)(61)が成田空港反対闘争に加わったのは1971年、東大生のときだ。大学からバリケードは消え、学生たちは農民との連帯に新たな意味を見いだしていた。
 集会、デモ、機動隊との衝突。何もない日は農家の稲刈りを手伝う。そのうち、10人くらいいた相原たちの学生グループは1人去り、2人去り、とうとう中央大生の永子(ながこ)(58)と2人だけになる。
 ここで東京に戻るのは敗北だ。かといって、残ってやっていけるのか。相原は茨城の会社員の息子。農業をする自信もなく、迷っていた。
 ある日、永子がいった。
 「私は残るけど、あなたはどうするの?」
 「ぼくも残る」
 とっさにそう答えた。「彼女に、決断の背中をおされたんです」と相原はいう。
 永子は福島の農家の生まれ。
 「私も迷っていましたよ。でも、2人ならなんとかなる。そもそも、1人で残っても意味がないと思っていた」
 それはなぜ?「農民は、学生とちがって、家族をどうするかという問題を抱えている。かれらに寄り添って闘うなら、同じように家庭を持って、子どもを産んで、普通に暮らす。それが大事だと」
 若い夫婦の新居は掘っ立て小屋。相原は工事現場へ、永子は畑を借りて耕した。まもなく女の子と男の子が生まれる。
 成田空港が開港すると、滑走路のそばの相原の集落はすさまじい騒音と排ガスに襲われた。
 フェンスに囲まれ、外に出ると警察の検問。「いやがらせをして追い出そうとしたんです」
 闘いに疲れ、家族の将来を考えて土地を売る農民は仲間から「裏切り者」と非難された。一緒に闘ってきたのに、人々の心のきずながちぎれていく。 
 このまま暮らしていけるのか。どこかで決着をつけなければ。そんな思いが募ったこと、農民と国との間でシンポジウムが始まった。91年のことだ。
 相原はシンポで発言した。
「子どもを学校に連れていくときも検問で20~30分止められる。人権侵害だ」。国が過去のいきさつを謝罪し、強制収用の申請を取り下げた。98年、相原は同じ集落に残っていた2戸と立ちのいた。
 いま空港近くで行政書士と建築士を営む。里山をよみがえらせる運動にも携わる。
 「シンポでは百%の勝利を望まず、現実的な勝利を選んだ。そうした話し合い解決にかかわってみると、学生時代の運動がいかに現実の生活を大事にしていなかったか」
(以下、下山久信(しもやまひさのぶ)氏の記事になるので、略)

 三里塚闘争の「幕引き」のため、熱田派反対同盟の一部をまきこんで、成田空港問題シンポジウムが始まったのが91年11月、円卓会議が終了したのが94年10月と、3年間にわたって、話し合いという名の条件交渉を行い、「強制収用」の申請取り下げを行って過去のいきさつを「反省」し「反対同盟」と「和解」したという。(条件交渉であることは、NAAのHPを見れば明らかである、そればかりか、奴らはちっとも「反省」なんぞしていない!)そのことをもって、NAA(当時は空港公団)は空港建設のためになんでもやる免罪符を得た。
 週刊『三里塚』第726号から引用
 

シンポ・円卓会議」とは結局何だったのか? 結論を一言で言うなら、反対同盟と三里塚闘争の命がけの闘いの地平を食い物にして行った、集団的な条件交渉のための猿芝居である。88年の強制収用攻撃を文字通り粉砕した血みどろの闘いの地平を食い物にしたのだ。それ以上でも以下でもない。
 88年10月、千葉県収用委員会は反対同盟と全国の人民の怒りに包囲され崩壊した。春以来動き出していた強制収用の準備は完全にストップした。これによって翌89年12月には遂に土地収用法に基づく成田空港の事業認定は、認可から20年を経過して失効するという、歴史上初めての事態に直面することになった。
 何が起こったのか? 事業認定の失効とは、政府・運輸省(当時)にとって、成田空港建設を続けようとすれば「話し合い」で札束を積む以外の一切の手段がなくなってしまったことを意味した。
 そして、強制収用攻撃の前に完全な無方針状態に陥っていた一部の脱落派幹部は小躍りした。「闘争集結」と引き替えに条件交渉で見返りを取れる条件が降ってわいたように生まれたからだ。強制収用の手続きが予定通り進んでいれば、「話し合い」もへったくれもなかった。二期工事の用地は、最終的には一坪共有地も含めて、すべてが更地になる以外になかったのである。それが吹き飛んだ。もはや強制収用はできない。相川勝重(現芝山町長)が、当時の運輸省官房長のところに飛んだ。「公開の話し合いをやりたい」
 こうして公開シンポジウム~円卓会議の猿芝居が延々と始まった。1991年11月から1994年10月までである。億単位の税金が投入され、数千人の住民が動員された。マスコミの報道量も半端ではなかった。
 これが事の顛末である。結末を見れば疑問の余地はない。「支援者」(相原亮司ら)にも家が建った。共生委員会の事務局に収まった大塚某は「年収1000万」を超える収入を得て公団職員のひんしゅくを買った。石毛をはじめ全員が公団から金を受け取って新しい家を立ててもらった。これがシンポ・円卓会議のすべてである。
 しかし政府・運輸省の思惑は核心部ではずれた。敷地内と東峰区住民を屈服させることに完全に失敗したことだ。石毛ら脱落派幹部が、平行滑走路建設の承認を含む円卓会議最終報告に合意したのは、自分たちの集団転向が、敷地内の屈服に結びつくことを含みに入れていたからだ。人の土地が滑走路になることを勝手に承認した根拠はここにあった。彼らは運輸省の役人と一緒になって、よってたかって敷地内農家の首を絞めようとしていたのだ。
 「闘ってはいけない、闘争は止めるべきだ」と敷地内農民に迫ったところにシンポ・円卓の悪質な本質があったのだ。もちろん、彼らの期待は外れた。
 萩原進さんが語る。「現在の時点からシンポ―円卓を振り返れば歴史的評価は明らかだろう。円卓会議の隅谷最終所見で『強制的な用地取得は2度と行わない』『地域住民との合意の上で進めていく』と書いてある。それが今はどうか。2002年には暫定滑走路開港がわれわれの反対を押し切って強行された。それ以来頭上40㍍のジェット機飛行が続けられている。それだけじゃない。今度は北延伸だよ。そして現在は東峰の森の伐採だ。シンポ・円卓の合意はどこへ吹っ飛んだのか。民主主義の壮大な実験はどうなったのか。噴飯ものだ」。
 そう言えば、円卓会議でできた前記の共生委員会なるものはどうなったか。「シンポ・円卓会議での合意事項が守られているかどうかを監視する、画期的な第三者機関」「このような組織が設けられたことは歴史的にもなかった」などと持ち上げられていたが…。
 暫定滑走路強行―ジェット機の頭上飛行―北延伸計画の強行―東峰の森伐採―市東さんの農地強奪という一連の強制手段、住民無視に対しては死の沈黙である。現在も膨大な税金を消費しつつ「シンポ・円卓の合意事項の監視」どころか空港会社の手先に完全に成り下がっているのが実態だ。

 相原氏の言う「百%の勝利を望まず、現実的な勝利を選んだ。」結果が、暫定滑走路建設、東峰の廃村化攻撃、北延伸と続き、今の市東さんの土地取り囲み、追い出し攻撃に繋がっている。相原氏がシンポで訴えた「検問による人権侵害」もちっとも止んでいない。「現実的な勝利」は、完全屈服・・・NAAの土地取り上げに応じ、農業を辞めて出て行くということなのだ。「里山をよみがえらせる」運動をしているのなら、なぜ東峰の森(シンポ・円卓会議の結果、残すことになっていたハズだ!)を切り払って建設された新誘導路について反対の声を上げなかったのか、いや、今眼の前で進められている、殺人的な人権侵害について何も語らず、朝日の回顧記事にのうのうとしゃべっている神経は何なのだ!

 かつて「4トロ2次会」で3・8三里塚分裂問題について議論が交わされたことがある。私がしかけたところもあるのだが、十分考えて書き込みを~と考えているうちに、あれよあれよと板が進んでしまったこともあって(まあ、私の「問いの立て方」もまずかったと思うが)、十分な「反論」が出来なかったと反省もしている。そんな中、今更こんなことを書くのは失礼ではあるのだが、まっぺんさんが「GO@あるみさんへのお返事」の中で

中核派は、去っていく人々の背中に向かって口をきわめて罵り続けました。もちろん中には同情の余地のない人もいたでしょう。でも泣く泣く去っていった人々もたくさんいます。何年ものあいだ共に闘ってきた人たちの苦痛は量り知れません。それを罵倒するのはいかがなものでしょうか。そうした事は反対同盟内部の問題であって、支援者の我々が率先してやるのは間違っています。
●中核派に同調しないものは反革命
北原派反対同盟からは中核派にいやけがさした小川さんたちが出て「小川派反対同盟」を結成した事は憶えているでしょう。中核派はこの時も小川さんたちを「脱落派」「裏切り者」と激しくののしりました。要するに中核派は絶対正しく、それに異論を唱える者、去っていく者はすべて「裏切り者」「脱落者」「権力の手先」なのです。

と書いた。相原氏らが「泣く泣く」闘争をやめるのは自由だ。ただ、「反対闘争のため(この場合は闘争の収拾であるが・・・)」の名の下に、どれだけ「自覚」していたかはともかく、闘争を続けようとする人たちを結果的に苦しめ、足を引っ張る行為・・・「小川派反対同盟」も分裂当初からそうなることは目に見えていた・・・そうゆう人たちを機関紙等(そりゃ、現地の人間関係に近いところでは、個人的理由で出て行かざるを得ない人への罵倒もあったでしょうが)で「脱落派」「裏切り者」と断罪するのは、当事者であれ支援であれ、当然でしょう。

相原亮司をググってみると、東大全共闘で闘った人、労学連活動家で学生運動の頭でっかちな限界を、三里塚の農民から学んだというようなことが書かれている。本当に彼は学んだのだろうか?学んでいるのなら、今起こっている現状に対して、何か声を上げるべきだ。

解散・総選挙が決まった日に記す・・・

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コメント

この地で市東さん、萩原さんと生きると決めた者として、部落で1軒だけ残り言いたい事は多い
何を言おうと先を読めない偏屈扱いの生活
そう、その通り言いたい事を言ってくれて
判ってくれる人もいるんだと、何か安心した。

投稿: 鈴木加代子 | 2009年7月15日 (水) 21時18分

鈴木加代子さん、闘争、農作業そして介護とお忙しい中、訪問とコメントありがとうございます。いろんな人が読んでくれるであろう前提(実体はともかく^^;)で、ずいぶん抑えて書きました。多くの人が過去の色々なことを反省したりして、とにかく今の三里塚の状況にプラスになるよう行動して欲しいものです。

投稿: GO@あるみさん | 2009年7月15日 (水) 22時06分

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