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スターリン主義はなぜ起こったか?

1917年、社会主義革命として勝利したロシア革命がドイツ革命の頓挫によって世界的に孤立させられ、また反革命・白軍や帝国主義諸国の干渉戦争(日帝もシベリア出兵として参戦)を戦わざるを得なかった時、ロシアのような生産能力の低い所では、共産主義的な原則なぞ言っておれなかった。ある意味「独裁的」生産を統制・管理し、それを行うための非民主主義的=効率的な統治形態をとらなければならなかった。
ここに、レーニンは戦時共産主義に移行、1919年に1党独裁が始まり、21年の分派の禁止措置は、強力な独裁政治体制を作って戦争を乗り切るためであった。生産協同組合・・・工場委員会から有能な企業長の単独責任性へ・・・が骨抜きにされ、農村からの強制的な「収奪」が始まる。やがて内戦が終了し、ガタガタになった経済を立て直すための「息継ぎ」が必要だとされ、市場原理をある程度取り入れた「ネップ」に移行・・・だがこの間、共産主義的な生産や政治の要諦はほとんど忘れ去られ、プロレタリア独裁「国家」が一元的に生産と分配を管理することが「社会主義」だとボルシェビキの人たちは思ってしまった。また、管理と統制およびそのための計画策定のための専門家が大量に必要となり、大量の「官僚」を生み出してしまう。共産主義の変質は戦時共産主義から「仕方なく」始まり、ネップ時に無自覚に引き継がれる。
さて、我らがスターリンはん、分派禁止措置をレーニンの要求どおり忠実に成した有能なこの人は、1922年にソ連共産党書記長に就任する。だがこの「書記長」というポスト、党の規約にすらないポストであり、なんでそんなポストが出来たのか良く分らないのだが、とにかくこのポストを握ることで、スターリンは党の末端の細胞までの指導部・・・官僚を含む・・・を書記(局)の系列を通してすべて掌握し、巨大な権力を握ることができたのだ。そーいや、あっちこっちで「書記長」ポストがある左翼政党って、あるなぁ~
変質した共産主義権力をそのまま握ることプラス、スターリンの自身の貧困な共産主義理解、プラススターリンが「やりたいようにやる」ことを誰も批判できない体制になったことから、スターリン主義が始まった、この際、スターリンはあらかじめ何か整合的な理論を持って、それにもとづいて党や階級を獲得したわけではない。(ちなみにもう一人の独裁者の雄、ヒトラーは「輪が闘争」で内容ムチャクチャとはいえ、理論を示してドイツ国民を掌握しようとはしていた)スターリン主義=1国社会主義論による革命への裏切りという図式が長いこと通用していたが、スターリンは1924年から1国社会主義を唱えだしていたものの、1920年代後半までは党内でなんら重視されていなかった議論だそうな。
ま、ロシアや中国のように広大な国土、大量の人口、豊富な資源があれば、鎖国をして独自に工業を発展させれば1国でも社会主義体制を「完結」することはできると「思う」のはある意味、自然だろう。しかし「思う」ことと「できる」ことは違うということは唯物論的には明らかで、「鎖国」なぞ20世紀の交通・交易の発展した帝国主義世界体制の中では不可能である。(カンボジアのポルポトはそれを強行し、非科学的な政策とあいまってあっという間に破産した)

と、するとスターリン主義への道は、レーニンの時代からの共産主義の変質にあったということにもなる。もちろん、スターリンがやった反対派への粛正・排除、農業集団化の過程における厖大な犠牲、強制収用所等の、スターリンの党独裁への移行にいたる実践がなぜ行われたのか、その歴史的現実や実体はどうでも良いということには絶対にならない。レーニンの中にスターリン主義化の要因を見つけるだけの安易な立場ではないが、レーニンをも相対化しながらマルクス・・・「共産党宣言」時のマルクスではなく、「資本論」のマルクス・・・に近づくことが必要である。

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かくめいのための理論」カテゴリの記事

コメント

スターリンの権力掌握過程を、「誰も逆らえなかった」では弱いと思います。もう一人のレーニンの有能な片腕だったトロツキーというおっさんが、スターリンに真っ向から逆らいましたが、この党内抗争にスターリンは勝利するわけで、なんで理論的には「正しい」はずのトロツキーは敗れたのか?

それを強権や謀略など、スターリンの個人的な資質で説明し、理論や政策が正しければスターリン主義は発生しなかったとするのはトロツキズム的な限界かと。

スターリンの理論や政策の誤りはそれとしてありますが、そんなことよりも、一般民衆が「社会主義国」を嫌悪する場合の理由は強権的な民衆抑圧ですよね。革共同系の人の発想って、「政策や理論が正しければそういうことはおこらない」みたいな主張に感じるんですよね。

だったら新左翼系ではいっさいそういう反対派への弾圧なんて事例はおこらないはずですが、実際にはむしろそういう発想に立ってしまった革共同系列でこそ・・・(以下略)

投稿: 草加耕助 | 2009年9月12日 (土) 13時56分

ちょっと長いですがご容赦を。

国家の『理想』と『現実』を一つの思想で解釈しようとした時点でダメだったのかもしれません。

『統治』と『市場』という2つの倫理で解釈すると・・・
まず、国家の運営という『現実』は『統治の倫理』によってのみ行われます。状況が状況ですから相当強権的なモノだったのでしょう。
そして、社会主義や共産主義の『理想』は『市場の倫理』に属するものといえますが、『市場の倫理』というのは国家(権力)を否定する考えです。
(ただし、計画経済は『統治の倫理』に属するものといえますから、市場経済を否定した時点で矛盾していたのかも)
この2つをそのまま組み合わせると、口では「人民の解放」とか言いながら、自国の人民は押さえつけるという共産主義国の見本が出来上がります。

トロツキーとスターリンを比較してみると、トロツキーは『理想』の側の人間(理論家)で、スターリンは『現実』の側の人間(官僚)であるといえます。
政治というのは『現実』の世界ですから、政治家としてはスターリンのほうが上だったのでしょう。最高権力者にまで上り詰めるのですから『統治の倫理』の権化といっても過言は無いと思います。
逆にトロツキーは多少混じり物があるとはいえ『市場の倫理』に属する考えを持っていたようです。
前述したように『市場の倫理』というのは反国家的な考えですから、スターリンの側からすれば危険思想以外の何者でもありません。
しかし、『建国の理想』としての建前からいえばトロツキーの主張のほうが正しいということは理解できたのでしょうが、それを認めてしまっては国家の運営に支障をきたす可能性があるし、自身が失脚する恐れも出てくる。
困ったスターリンとしては出鱈目でもいいから自己の立場を正当化する理論が必要になったわけで、その結果生み出されたのが『一国社会主義論』なのでしょう。(共産革命の展望が無いことを現実的に解釈したのかも知れませんが、要は保身)
だからあの人は『建国の理想』である共産主義をなぞりながら、実際には『ウルトラ右翼』的な言動をしているワケです。(『統治の倫理』は右翼思想に通ずるものがあります)

悲惨なのは、『一国社会主義論』を真に受けた国家元首が統治する国の人民ですが・・・・

投稿: たけ(39) | 2009年9月16日 (水) 09時11分

たけさん>
左翼の歴史もよく勉強しておられるようで感心します。やはりそんじょそこらのニワカウヨクとは違いますね。

トロツキーが左翼理想主義だったというのは定説ですが、最近の研究では彼が権力者の一員だった時にはそうでもないみたいだよみたいなことも言われていますね。というか、左翼側が従来の思想を総点検する中で、元々明らかだった側面にもスポットライトが当たり始めたというだけのことかもしれませんが。

>困ったスターリンとしては出鱈目でもいいから自己の立場を
>正当化する理論が必要になったわけで、その結果生み出さ
>れたのが『一国社会主義論』なのでしょう。(共産革命の展
>望が無いことを現実的に解釈したのかも知れませんが、要
>は保身)

当事の革命家が頼みにしていたドイツ革命が頓挫したことが大きいでしょう。そんな現状で「一国社会主義」を批判したところで、「じゃあ具体的にどうするのだ。トロツキーには対案がないじゃないか」「可能だろうが不可能だろうが、とにもかくにも一国で社会主義を目指す以外に選択肢はないのだ。私にはそのためのプランがある」というスターリンに簡単に論破されてしまうわけです。

もし私が当事のロシア人でしかも左翼だったと考えても、過激で理想主義的なトロツキーより、まだ恐怖政治をはじめる前、農民や中間層の保護を主張していたスターリンの穏健な主張を支持していたろうと思わざるを得ませんし、今から考えてもさえ、この時点の「一国でやるしかないじゃんか」という発想は当然に出てくる考えで、そんなに無茶苦茶な主張でもないと思います。要はたけさんの『市場の倫理』と『統治の倫理』で言っても、当初はむしろスターリンの主張のほうが『市場の倫理』っぽかったわけで、その『市場の倫理』を、手法的には『統治の倫理』で貫徹してくるスターリンの勝利は必然だったわけです。

つまり、この「一国社会主義論」の誤りと、その後の恐怖政治は全く別の問題として考えなくてはいけない。これをくくりつけて考え、前者がなければ後者もない、よって前者を批判し、その生まれてきた根拠をただせばスターリン主義は発生しないのだという考えに陥った点が、革共同的な反スタ・トロツキズムの限界だと私は思うわけです。スターリン主義を克服するとは、極めて実践的な日々の自己点検の問題のはずなのに、いわば頭の中だけの理論的な批判で内在的なはずの問題を外在化し、「反スタ」として外の敵を倒すことですべてが解決すると思い込んだ、学生共産主義者たちの思い上がりだとさえ考えています。

>悲惨なのは、『一国社会主義論』を真に受けた国家元首が
>統治する国の人民ですが・・・

必ずしも直接的な被害を受けなかった人で、ロシアの愛国的で土着的な民は、むしろスターリンを支持していたかもしれません。何しろ彼の時代に「後進国ロシア」は、アメリカと並ぶ「世界の2大国家」に成長したのですから。彼の葬儀にはその死を悼む大勢の市民が押し寄せ、圧死する人さえ出て、「独裁者の最後の犠牲者」とか言われてます。これは必ずしも「動員されたサクラ」ではなかったと思います。

スターリンが死に追いやった人数は、統治期間の長さもあって、ヒトラーが殺した人間より多いかもしれません。というかきっと多いでしょう。最も残忍で、最も躊躇なく、最も断固とした独裁者が、最も成功し、何より権力の頂上に立ったまま安穏と天寿を全うした。これは非常に不愉快な歴史的事実ですね。そんなことは現代では二度と許されないことです。

投稿: 草加耕助 | 2009年9月16日 (水) 10時29分

たけ(39)さんは本当に私たちとは違った視点で面白い提起をしてくれますね。ありがとうございます。
いつか「たけさん語録」を自分なりにまとめて、いろいろ論評してみたいのですが、う~ん力不足ですわ。

投稿: GO@あるみさん | 2009年9月16日 (水) 22時14分

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