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生産手段の「所有」について考える

革命的左翼の業界では、生産手段(土地、工場等)を所有しているのはブルジョワジー、逆に生産手段を所有せず、労働力のみブルジョワジーに売っているのがプロレタリアートとされる。そして生産手段を持っていても、プロレタリアートから労働力を買わない自営業者なんかは「プチブルジョワジー」などという、言葉でくくられている。マルクスを「平板的」に読めば、資本主義社会が発展すると、ブルジョワジーがドンドン生産手段を占有して行き、プチブルジョワジーは没落し、労働力のみを売るプロレタリアートへの道を進まざるを得なくなるので、世界はブルジョワジーとプロレタリアートへの2階級への分裂に進み、やがて革命によってブルジョワジーは打倒される。だからプロレタリアートがブルジョワジーを倒す「革命」の主体、「革命的階級」とされ、プチブルジョワジーはプロレタリアートと「同盟」する、もしくは「打倒」される、あまりいい扱いはされない。
資本主義社会が発展して「帝国主義段階」になると、ブルジョワジーとプロレタリアートへの分化が進まず、その矛盾が残ったまま搾取構造を続けていくのだそうな。で、現代社会において、自営業、あるいは労働力を買っていたとしても、雇用している労働者の数が少ない企業経営者、すなわちプチブルジョワジーに分類される人が沢山存在し、その人たちへの「階級規定」が問題視される。

 ところで実際の生産現場を見ている人たちは、そういったプチブルジョワジーも、生産の重要な部分を担っていることを知っている。また、農業・漁業を生業として食料を生産する人たちの多くが、生産手段(土地や生産のための機械)を所有し、人間の生存に欠かせない食料を生産していることを知っている。だから、根本的な社会変革・・・革命において、生産手段を「持っているか否か」を基準に「革命的階級」であるかどーかを判断し、「階級的かどうか」ということを区別し運動を進める・・・「階級的刻印」など観念的なこと・・・は、「なんじゃこりゃ」ということになる。

 ま、何が言いたいのかと言えば、農民や魚民、あるいは中小零細企業主に対する「生産手段の所有の有無」という2分法「階級規定」のAFOらしさということなのだが、ここでは農民や中小企業について考えてみる。
 農民は土地を「所有」していようがしていまいが、その土地で農業を営む「権利」が与えられていれば生産は出来る。ただ、地主がおれば地代として生産物の一部(市場に出して換金する、しないを問わず)なければならない。そして地主が小作人から地代を取る「権利」を保障しているのが、フランス革命以降ブルジョワジーが確立してきた「私有財産権」というものであり、法的に賃貸借契約だとか、土地の登記制度だとかで保障されているわけだ。
 で、ブルジョワジーを打倒する革命を起こした時、それらの所有というのはどうなるのか?
 1917年にロシア革命が起こった際、小作農として自分の土地を持たなかった農民は、地主から土地を実力で取り上げ、自力で土地革命を成し遂げていった。それは、生産物を地主から搾取されないために必要なことであったと同時に、生産を行う者が、生産現場の真の主人公になるということだった。
 ブルジョワジーを打倒して、世の中を変える・・・この「本義」は(国体の本義じゃないよ)、生産をする者が、主人公になるということ、もう一つは、生産を社会全体でコントロールする(ここには、手続き上徹底した民主主義が必要とされる)ことなのである。「社会主義革命」というのは「生産手段の国有化(その「国家」がプロレタリアートが権力を握っているものだとしても)」あるいは「社会化」ということでは、無いのだ~!
 その生産手段を使って、生産するものが自らの主体性を持って生産をする「権利」を保障すること、・・・「権利」の保障というのも、おこがましいのだが・・・社会全体がそれを認めることなのだ。そこに「所有権」など、介入する余地は本来無い。
 ロシアの農民が勝ち取ったのは、土地の所有権ではなく、耕作権プラス生産、およびその生産したものを自分の裁量で支配・・・自家消費しようが、プロレタリアートへ正当な対価を払って売ろうが・・・する権利なのである。

 中小企業では、多くの業種・業態で資金繰りが悪化し、倒産するところも相次いでいる。だいたい貸し付け資金を「担保」しているのは工場や土地といった「生産手段」であるから、倒産するとそれらが「差し押さえ」られて、事業主や労働者が生産を続けたくても、どんなに社会的に「必要」な物を生産し、社会に送り出していても「倒産」の事実が、「所有権」への担保・抵当というブルジョワ的権利を認める「法律」によって、事業主や労働者は生産から締め出される。
 資本主義を打倒した革命は、生産物から搾取する「権利」あるいは生産を疎外・・・停止させる・・・する「権利」であるところの「所有」というものを無くすことのだ。従って「所有」という言葉は革命後、止揚され、別の概念・言葉になる。
 「社会主義」だからすべての生産手段を「国有」あるいは「生産協同組合有」「地方自治体有」ということになるわけではない。仮に「○○有」とついていたとしても、それはブルジョワ社会から生まれたプロレタリア社会が持っている「タマゴの殻」の影響なのであり、社会を進めるに当たって、すみやかにその概念や言葉は止揚されなければならない。

 三里塚で闘う市東孝雄さんの土地は、裁判で争われているが、ブルジョワ法的に市東さんが「所有権」を持っていない、空港会社の登記が正当だと確定しても「この土地で1本100円の大根を作る」ことが市東さんの「権利」であり、土地を空港用地として使うのではなく、農地として使うことが民衆の社会正義にとって正しいからこそ、我々は三里塚を闘うのである。だから、社会主義革命を標榜する人たちが「土地は取られ(耕作する権利を無くすということだ!)ても、闘争は続けることができる」というのは、ナンセンスなのだ。

 あと蛇足で、「マル共産連」でも紹介され、話題になっているのだが、革共同再建協HP内の学習ページにおいて、プレオブラジェンスキー「新しい経済―ソヴィエト経済に関する理論的分析の試み」
アレック・ノーブ「ソ連経済史」の要約
というのがある。プレオブラジェンスキーの評価について、私は語るものを持っていないが、論文作成者の掛川徹氏は

社会主義建設は、最先端の工業部門を労働者権力が占有することを基礎として、広範な前社会主義的生産部門あるいは農民経済を包摂しながら進むのであり(以下略)

と書いている。「占有」や「包摂」についての考慮・・・これからやってくれるものと期待するが・・・を誤ると、スターリン主義というのは克服できないと思うぞ。

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