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マル共連再建から白井朗さんへの追悼と革共同の謝罪

ぶっこわれていたマル共連BBSを復活させるべく活動中のマル共連BBS再建協議委員会(準)より、関西塩川派:白井朗さんへの追悼と謝罪という記事が紹介されている。また、まっぺんさんの四トロ同窓会二次会でも全文が紹介されている。

ほんちゃんは、こちら未来第58号

昨年7月、革共同全国委員会の創設メンバーの一人であり、『前進』編集局長であった白井朗さん(山村克同志)が逝去された。
われわれは、白井さんの死を悼むとともに、革共同が第6回大会(2001年)で白井さんを「反革命」と規定して除名したこと、そしてわれわれもその処分に賛成し、白井さんにたいする組織的なテロルを容認したことを全面的に謝罪する。
また、この謝罪が遅きに失し、白井さんの生あるうちに実現できなかったことと、現時点でこれを革共同全体の謝罪となしえていないことを、かさねておわびする。

「白井問題」の本質はなにか
われわれは、06年3月14日に、党組織を私物化し財政的な腐敗を深めていた関西地方委員会議長を打倒し、翌07年11月に革共同の腐敗と変質の元凶である清水・安田体制と決別した。われわれは革命的共産主義運動の再生を目ざす理論的実践の重要な柱として革共同の歴史的総括を行ってきた。
その総括作業のなかで、80年代をとおして清水議長体制の下で党内民主主義が極限的に圧殺され、党が階級との生きた交通を欠落させ、ついには政治局そのものが崩壊していったことを明らかにした。ソ連崩壊、総評解体・連合結成などの情勢に革共同が党としてまともな対応ができなかったのはその結果であった。この政治局の崩壊過程における最大の組織問題であり路線問題が、いわゆる「白井問題」であった。
われわれが清水・安田体制と決別し、革共同の再建に踏み出していく過程で、白井さんからわれわれにたいして、「3・14決起を支持する」という意志が伝えられた。われわれはこの白井さんの意思表示にたいしてどのように応えていくかを検討し、彼と意見交換を行うことにした。すでにかなり病状が悪化していた白井さんから直接話を聞くことができた。この討論から数カ月後に白井さんは亡くなった。
われわれは、白井さんの話をもとに独自の調査を重ね、われわれ自身の根底的な反省と自己切開を行ってきた。そのことをとおしてわれわれは、清水丈夫議長が「白井問題」なるものをねつ造することによって、白井さんが提起した重大な路線的かつ実践的な批判を圧殺したことが、革共同政治局の変質とその崩壊を象徴する組織問題であることをつかみとることができた。

白井さんの提起
80年代後半から90年代前半にかけて、白井さんが政治局あるいは党組織内部において提起した主要な批判は次の3点であった。
1点目は、1986年の『前進』新年号の政治局アピールに入管問題にかんする記述が欠落していたことを白井さんが指摘したことから始まった。すなわち党内における7・7自己批判、7・7思想の風化にたいする批判である。
2点目は、91年のソ連崩壊にたいする無感動と危機感の欠如にたいする批判である。
清水らのスターリン主義にたいする把握は、社会主義論・共産主義論について深化させることを拒否し、いつまでも革共同第3回大会(66年)の「一国社会主義論」批判のレベルにとどまっていたのである。それは国有化と計画経済があれば、スターリン主義権力のままでも社会主義が可能になるというものであり、こうした理解の枠をこえる理論的・実態的解明を党内で行うことを抑圧していたのである。
3点目は、94年に成立した社会党・村山首班内閣にたいして、『前進』が「社会ファシズム」規定を行ったことにたいする批判である。
白井さんはそこに、1930年代のドイツ共産党が「社会ファシズム」論のもとで、国家権力とたたかわずに、ナチスと組んで社会民主党を主要打撃の対象としたのと同根の誤りを見た。

政治局内の路線対立
政治局内部でこのような深刻な意見の対立が生じたときは、党大会の開催をふくめた全党的な討論に付すべきものだ。
ところが清水は白井さんが執筆した民族問題にかんする論文を自分が書いた革共同第3回大会(66年)の第2報告を否定していると見なして、「これは自分にたいする権力闘争だ」と決めつけ、論文の撤回や書き直しを命じ、さらに公表禁止処分にするなどして、白井さんの意見を封殺しようとした。また白井さんが仲山良介の『資本論の研究』を批判したことにたいしても、清水らは、「同書は党決定である」として、その批判を禁じた。
このようにして清水らは、白井さんが理論的路線的な批判を提起したこと自体について「自己批判」を迫り、彼の意見・思想を放棄させようとしたのである。当時の政治局はその声明の中で「本社での自己批判の作成の環境と待遇は決して悪くなかった。これを強制であったと言うならば、獄中に入れられたらすぐ転向するということではないか」(99年8月)といっている。まさに彼ら自身の口から「本社での自己批判の作成」が、国家権力が監獄でおこなう転向強制と同じものであったことを自己暴露している。

組織的テロルで反対意見を圧殺
権力との攻防によって政治局会議の開催が困難になっていたなかで、白井さんは、政治局内の対立を解決するために党内討論を要求していた。

3千点の物品強奪
これにたいして清水らは、94年3月、白井さんの意見を受け入れて政治局会議を開催するという返答を手紙でおこなった。しかしそれは政治局会議開催を口実にして、彼を非公然アジトからおびきだすための方便であった。そして清水の指示を受けたメンバーは、白井さんの留守中にあらかじめ作製していた合鍵を使ってアジトに侵入し、3千点におよぶ物品を持ち去った。異変を察知した白井さんが帰宅したときには、すでにがらんどうになったアジトの机の上に大型のバールが1本、これみよがしに置かれていたという。
清水らはこうした凶行を合理化するために、「党の機密文書の回収」(『共産主義者』123号)のためにやったとか、「党防衛活動」(同書)のためだったと言い訳をしているが、それはまったくのウソである。清水のねらいは民族問題にかんする白井さんの原稿を奪い取って、彼の言論を圧殺することにあったのだ。

反革命規定とテロル
しかし、白井さんがこのアジト襲撃の事実を暴露して、公然と革共同批判を開始すると清水ら政治局は、「山村(白井さんのこと)反革命を徹底的に粉砕する」(パンフ『白井問題とは何か』2000年4月15日発行)と白井さんにたいして反革命規定を行い、01年の革共同第6回大会で除名を決定したのである。
この決定と前後して、01年1月には白井さんの借家に放火した。このとき着火剤を使用して放火したため、木造の隣家を含めて危く全焼するところであった。
そして02年12月に清水ら政治局は白井さんを肉体的に殲滅することを決定し、それを実行した。このとき襲撃者たちは、宅配便業者を装って白井さんの住居に突入した。彼らは、内からカギをかけて電話線と電源を切断したうえで、白井さんをうつぶせにし、両腕関節を脱臼させ、右手に集中的ダメージを与え、両脚膝のほとんどすべての靱帯を切断する重傷を負わせた。そして白井さんのノートや手帳などを奪って逃走した。
白井さんは、このダメージが終生の「障害」となった。彼は、それをのりこえて、民族問題にかんする第2の著書の刊行に執念を燃やし尽くして斃れたのである。

革共同の堕落・変質
ここに見られるような白井さんを肉体的にも抹殺することを狙いとした一連の党内テロルは、革共同を共産主義の党から堕落、変質させるものとなった。
清水らはこれらの党内テロルに革命軍を使いながら、大部分の党員にたいしてはその事実を隠蔽し続けた。ここで「党内テロルだから公表しない」という言い訳は成り立たない。反対意見の抹殺が目的だから党内にも秘密にしたのである。
革命軍の同志たちは、こうした腐敗した党内テロルの発動に黙って応じることによって、自らを清水ら政治局の私兵へとおとしこめてしまったのである。

デマの流布
さらに清水らは白井さんにたいする「反革命」規定や除名処分をもっともらしく見せかけるために、以下のようなデマを党内外に流布した。
そのひとつは、98年の金沢市内における失火事件で、警察権力に逮捕された白井さんが「革共同からの脱党を権力に誓って釈放された」というものである。
「脱党を権力に誓った」というのは事実無根のデマだ。実際、白井さんは、失火事件以降も革共同の党員として激しい清水批判の党内闘争を継続していた。だから清水らは、このような卑劣なデマを流して白井さんを除名したのだ。
いまひとつは、上記の失火事件で逮捕された白井さんが、「救援連絡センターの弁護士を拒否してブルジョア弁護士に依頼した」というデマだ。
これは事実の歪曲である。真相は、白井さんが獄中にとらわれていることを絶好の機会とばかりに、清水らが自分たちの息のかかった弁護士を送り込んで、弁護士接見を利用して白井さんに屈服を迫ろうとしていたのだ。この見え透いた策謀が白井さんによって拒否されたというだけのことである。権力を利用しようとしていたのは清水らのほうだったのだ。
みっつめは、白井さんが肉体的テロルを受けたときに「警察に被害届を提出した」というデマだ。
これは現在でも安田派周辺で「白井=転向者」「白井=権力のスパイ」論を裏づけるものとして語られている。しかしこのような事実も存在しない。これは実際に調べてみればすぐにわかることだ。だから清水らは、決して公式文書にはのせずに、もっぱら口コミでこのデマを流し続けている。

愚劣な誹謗中傷
また、白井さんにたいする個人攻撃として、彼が非実践的なインテリゲンツィアであるとか、党内で討論すべき内容を党外の出版物にのせたとか、党の組織防衛上重要な秘密を公表した、などという非難がなされている。この点について、われわれがつかんだ限りのことを明らかにしておく。
白井さんは党内闘争の初期の段階で、清水によって意見の公表が禁止されたことに抗して、党大会の開催要求をおこなうとともに、党内で彼の文書を回覧することを要求していた。
そうした要求がすべて拒否され、清水らが暴力に訴えて白井さんに屈服を強制してきたときも、白井さんは危険を冒して複数の政治局員に直接面談して自らの意見を訴え続けていた。
しかしそうした努力が実を結ばなかったために、99年に民族問題にかんする最初の著書『20世紀の民族と革命―世界革命の挫折とレーニンの民族理論』(社会評論社)を刊行した。
そして09年4月には、死の床から民族問題にかんする第二の著書『マルクス主義と民族理論―社会主義の挫折と再生』(社会評論社)を刊行した。
このように、清水体制の抑圧と暴力に抗して、全党を獲得し、プロレタリア階級と人民大衆に訴えるために終生たたかいつづけた白井さんの生きざまをみれば、「非実践的インテリ」であるとか、「党の秘密を暴露した」などというのが愚劣な誹謗中傷に過ぎないことはあきらかだ。

革共同のスターリン主義への転落
90年天皇決戦をたたかった革共同は、戦後世界体制の崩壊という歴史的局面において、労働運動に軸足をおいて、革命に向って新たな本格的な前進を開始するために、5月テーゼによる戦略的転換を図った。
そこで問われていたのは、先制的内戦戦略にもとづく軍事偏重路線によって党と労働者階級人民との生きた交通が失われてきたことと、とくに80年代後半において革命党の生命線である党内民主主義を圧殺する清水の独裁的な指導体制が形成される中で、革命的共産主義運動の腐敗と破産が進行していたことの総括であった。
ところが5月テーゼの提起は、こうした全面的な総括をめぐって真剣な党内討論をまきおこしていくものではなかった。
結局5月テーゼ以降の議論が、破産した清水体制の焼き直しでしかない清水・安田体制を、あたかもそれが「レーニン的オーソドキシー」であるかのように美化することで終わったことに根本的な問題があった。

80年代総括の核心
われわれが90年代の初頭に総括すべき核心問題は次のようなことであった。
第1に、80年代の中曽根反革命にたいしてプロレタリア階級と人民大衆による階級的反撃を組織するのではなく、「革命的武装闘争(ゲリラ・パルチザン戦争)」をもって代行させた革命軍戦略の誤りである。これによって革共同は労働者階級・人民との生きた交通を急速に失っていった。
第2に、党組織の準軍事組織化によって上意下達の官僚主義がまん延し、革命党の生命である党内民主主義、プロレタリア民主主義が圧殺されていったことである。それは革共同の党的力量が運動面でも理論面でも著しく後退していったことと無関係ではない。
第3に、そうした結果として、国内においては、総評解散・連合結成、国際的にはソ連崩壊とグローバリゼーションの急進展という歴史的転換点において、帝国主義の新自由主義攻撃の全面化とたたかいえず、スターリン主義を真に克服する社会主義・共産主義像を示すことができなかったことである。

「白井問題」と一体
以上の問題は、91年5月テーゼによる路線転換の裏面で進行していた「白井問題」の根底的総括と不可分一体のものである。
先に述べた白井さんの3点にわたる批判は、本来であれば革命的共産主義運動の内実をより豊かなものにするはずであった。また白井さんの民族問題にかんする二つの著書はマルクス主義の民族理論に一石を投じたものであり、革命的共産主義運動の再生をめざすものにとっては真剣に向き合わなければならないものである。
そうした一切を閉ざしたのは、清水らによる抑圧的な指導体制の完成にある。反対意見の禁止と排除、分派の実質的禁止、処分としての自己批判による自説の撤回の強制、党の執行機関のメンバーや大会の代議員までのすべてが任命制で決定される。こうして革共同を共産主義者の自発性、創意性を抑圧する機構に変質させたのが、清水・安田体制なのである。
「白井問題」に即していえば、清水・安田らは政治局内部の重大な意見の対立を、全党員とプロレタリア階級と人民大衆から隠蔽し、そのうえで反対意見の持ち主に「自己批判」を強制して意見の放棄を迫り、最後は肉体的テロルによって追放、抹殺を図ったのだ。
このどこに「レーニン主義」や「本多思想」があるのか。これこそスターリン主義への転落そのものではないか。

謝罪と決意
もはや清水体制のもとにある「革命的共産主義者同盟」は死んだ。「白井問題」としてあらわれた革共同の汚点、敗北、腐敗、変質を見すえ、えぐりだし、総括と反省を階級の共同財産とすることこそ、革命的共産主義運動を再生する唯一の道だ。
まずなによりもわれわれ自身が「白井問題」にたいしていかなる態度で臨んでいたのかを自己切開しなければならない。
われわれは当時、白井さんのたたかいを「権力闘争」と規定する清水らのやり方に賛成し、白井さんの主張を「反革共同」としてしかとらえることができなかった。そして清水らによる白井さんへの組織暴力に荷担してしまったのである。
とくに第6回大会においてわれわれは、白井さんへの「反革命」規定と除名決議に賛成し、知らされなかったこととはいえ、その後の白井さんへの凶悪な党内テロルを容認してしまった。そして清水ら政治局の問題性にたいして、当時のわれわれはほとんど無自覚であり無批判であった。われわれは、このことを共産主義者としての痛苦の念をもって全面的に謝罪するものである。
今日的にとらえ返すならば、われわれが06年3・14決起で、関西地方委員会指導部の組織暴力を粉砕してこれを打倒したたたかいは、「白井問題」にあらわれた革共同の腐敗と変質をのりこえるたたかいそのものであった。3・14決起によってわれわれは、1920年代のロシア共産党内におけるスターリンにたいするトロツキー・左翼反対派のたたかいの敗北を乗り越え、白井さんによる清水・安田体制にたいする核心的な批判を継承して、社会主義・共産主義を再生する第一歩を踏み出したのである。

誤った評価や態度
以上の革命的共産主義運動の今日的前進をかちとっていく立場から、われわれは革命的左翼内部における3・14決起や「白井問題」をめぐる誤った評価や態度について、批判をおこなっておく責任がある。
ひとつは、3・14決起にたいして「クーデター」や「非組織的」「反革命」などと批判する革共同からの脱落者グループの主張である。きみたちは、3・14決起について非難する前に、自分たちが「白井問題」が起こったとき、どこにいたのかをまず明らかにすべきではないのか。清水の手先として白井さんへの肉体的テロルを組織したり、政治局員として清水の提灯持ちをやっていたのではないか。
指導部が党内テロルの挙に出た場合は黙認するが、党員が腐敗した指導部の組織暴力に抵抗したら「非組織的」と非難し、そのような指導部を打倒したら「テロルだ」などとわめくようなやり方は、共産主義者がとるべき態度ではない。
いまひとつは、革共同のおぞましい過去にふたをしたいと考える人びとである。きみたちの考えがたとえ善意から出たものだとしても、「死んだ革共同」の腐敗や汚点を隠蔽するところに革命的共産主義運動の再生はない。そうではなく、過去および現在の革共同の誤りを、自らのものとして切開することこそ必要なのだ。

めざすべき党
帝国主義の新自由主義攻撃とソ連スターリン主義崩壊後の現代世界と対峙し、新しい革命的共産主義運動を興そうではないか。
われわれがめざすべき党とは、労働者人民のどのようなたたかいの現場にも存在し、そのたたかいから学び、階級全体の当面の利害と究極的な目標を結合することを瞬時も忘れない、そのような存在である。
そのために自覚した先進的な労働者と被差別・被抑圧人民出身の共産主義者と革命的インテリゲンツィアと革命的農民が、自立した共産主義者として、互いの信頼にもとづいて結集する。
その結集の原理は、共産主義革命の政治目的での一致にもとづく誓約にある。
そのようなものとして、われわれは、階級全体の解放のために、いかなる犠牲もおそれずたたかうことを決意する。そして白井さんへの追悼と謝罪にかけて、その決意を必ず実現することを、固く誓うものである。

つい最近、拙ブログ記事において、ある人の白井朗氏の「民族論」への批判を引用をしたため、ある意味タイミングが…と思ったが、それはそれで…
「白井問題」と言えば「中核派民主化宣言」や「赤パンフ・青パンフ」(模索社なんかで売られていたらしい)なんかが非常に党内で「避難的」にとらえられ、宣伝されていた。私はこれらの文献は当然、読んでいない。もっとも枯れの「民族論」については、いろいろと学ぶことも多いものだそうなので、読んでみたいものだとは思っている。ソ連崩壊の前、80年代に「民族問題」(特にムスリム人民)に取り組むことの重要性に気づいていたことは、大きなことだ。

「権力」との問題となった「失火事件」とは、ホテルを転々としていた際に、疲れによる「寝タバコ」が原因だったと聞おている。そもそも、たった一人で「非公然活動」を行なうことは、とうてい不可能で(75~90年代の「モグラ」達は多くの人が支えることができたのだ)、誰も支援してくれる人のいない「孤独なたたかい」の重圧は想像を絶するものだったのだろう。

白井氏が去年の7月に亡くなったことは、いろいろな筋から聞こえてはきていた。lこの「自己批判」が死後、1年もたって出されたことは、残念なことだと思う。


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かくめいのための理論」カテゴリの記事

コメント

党大会の代議員が中央の任命制だったというのは、にわかには信じがたいくらいの暴挙だと思います。
それでは、現在の中央派に対する批判のうち、少なくとも「党内民主主義の圧殺」という批判にはまったく反論できないと思うのですが。

投稿: 草加耕助 | 2010年6月 8日 (火) 06時38分

未来58号、載ってましたね。
私、最近「未来」を定期購読するようになりまして、当該白井さん関連記事には、ビックリしました。

ずーっと前に、『中核派民主派宣言』を読んで、「別におかしなことゆーてないやんけ。中央政治局のほうがおかしいんと違うか」と疑問に思っていましたが、どうもそのようですねぇ。

白井さんの主張・理論の全てを理解できているわけではありませんが、なんつーか、今日の革共同の迷走ぶりを予言していたかのように感じますデス。。。

投稿: | 2010年6月 8日 (火) 23時54分

草加さんコメントとTBありがとうございます。
「党内民主主義」に関しては、いろいろと書かないこともいかんのですが、最近忙しくて(そのわりにはブログ毎日更新)よくできませぬ。
風さん、「民主派宣言」読まれましたか。どっかの書店が「関西派自己批判記念」でフェアでも開催して、白井本を売りまくる宣伝もやったらいいと思いますね

投稿: GO@あるみさん | 2010年6月10日 (木) 00時22分

一般人から見ればとちらも同じです。殺し合いの集団としか見れません。共産主義の業界の人達は「自由だ、自由だ」と言っても共産主義に反対する人には「反革命」と云う言葉を使って牢屋に入れたり殺したりしてきています。中国共産党もベトナム共産党もソ連も東ドイツもです。2000年になり21世紀がはじまった時に20世紀は「イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、日本の軍国主義、戦後の共産主義」この4つの全体主義を十分に反省しなければならないと思いました。最近労働運動、環境運動がいろいろありますが、革マル派、中核派などの昔の内ゲバの人達がバックにいるのかと思うと冷めた目で見てしまいます。たぶん一般人はそうだと思います。

投稿: ノブ | 2011年5月19日 (木) 19時33分

ノブさん、古い記事への投稿ありがとうございます。
おっしゃるとおり、一般の人にとって「いや我々は違うんだ!」と何回言っても「そうじゃないだろう」と言われる責任は私も含め、あらゆる「共産主義運動」に携わってきた者にあると思います。
最近は「革共同の再建」などというのではなく、「革共同イズム」を持った人も包括できる「党もどき」づくりをしたほうがエエんやないかと考えております。

投稿: あるみさん | 2011年5月20日 (金) 22時03分

ご返事有り難うございます。ソフトな内容に拍子抜けしております。ざっとブログを拝見しました。他への批評はそれなりにそうなのかなぁと思いますが、わたしへの返事の内容の割にはご自身を含め過去の運動へ検証が少ないと思います。「いや我々は違うんだ!」と何回言っても「そうじゃないだろう」と言われる一因ではありませんか?私の死んだ義父も自身の検証は沈黙でした。自己の人生の否定に繋がるからでしょうね。社会運動、政治運動は一般人に理解されることが大切ではありませんか?「俺は前衛なのだ」というのも一つだとは思いますが。最後に一つすいません。「革命的共産主義者」「革共同」この言葉はこの先も使い続けるのですか?

投稿: ノブ | 2011年5月21日 (土) 09時39分

ノブさん度々ありがとうございます。
実の所、私は今も含め「革共同」周辺をウロウロしていた「シンパ」に過ぎず、自らの過去・現在の運動そのものが少ない(共産趣味的なネタ提供はいたしておりますが…)こともあって、なかなか「検証記事」というものを書いていないわけです。ただ、昔から党関係者で「信じられてきたこと」が、実はこうだった…それに対してこう思う(立場の違う草加さんやまっぺんさん、TAMO2投手氏のような方々の考えも踏まえて)というようなことは書いてきたつもりです。ま、ネットやりだしたころは「イスクラ」というブログや「アッテンボロー」さんのブログに、もろに革共同的前衛党必要論、プロレタリア革命論」的思考でコメントしていました。
ソフトな内容になってきたのは「分裂」後の状況で、上に書いてきたようなことが分ってきたからです。「党」的なものは必要ですが「共産なになに…」から連想される、唯一絶対前衛党なるものは絶対に必要ないと考えております。
また「革共同」の名前をこれから使うかどうか?は、その「主体」に聞いてみないと分りません。古くから組織内でやってきた人は、やはり名前にこだわるでしょう。

どのくらい「納得」していただいたか分りませんが、これからもご批判、ご意見等ありましたら、よろしくお願いします。

投稿: あるみさん | 2011年5月21日 (土) 21時39分

ご返事どうも有り難うございます。貴ブログを見て貴方がシンパをしているサイトも見ました。他のサイトも見てみましたが、相変わらず対立する組織には互いに「反革命」「スタ主義」「米帝云々」なんですね。ちょっと危惧したのが、時局に対応するスローガンにとらわれて、この人たちが過去にどのような事をしてきたか知らずに今の若い人が取り込まれ勢力拡大に繋がることです。やはり、あるみさん、同窓会的な気分はわかりますが、中途半端な気持ちや、過去の粋がりで運動を再開するのは新たな「過ち」を生むと思います。貴ブログを読むと一定の「幸せな市民生活」を過ごされている様で大変良いことだと思います。しかしご家族、お子さんや、甥姪児さんが革マル派、中核派のテロに巻き込まれた時に中途半端なシンパの後悔をされると思います。

投稿: コバ | 2011年5月29日 (日) 21時44分

すこしきつい表現だったかもしれません。すみません。四国には3回だけ行ったことがありませす。松山から高松まで電車の旅もしましました。大橋の出来る前のことです。もう25年も前のことです。讃岐うどんは本当においしかったです。日本一だと思います。びっくりしたのが、いなりずしが半分なことです。2個頼んだのに一個が半分づつされたのが2個でてきて、詐欺にあった様な気がしました。うどんやの人がすぐ気づいて「四国は東京違って半分にするの」と言って大笑いしていました。あと「観音寺」を「かんのんじ」と読んで大笑いされました。

投稿: コバ | 2011年5月29日 (日) 21時52分

中核派って酷いな。
革共同なんて名前は止めちまえ!
80年代後半からじゃない、40年以上前から堕落していたんだよ!

投稿: 自由共産党 | 2013年11月16日 (土) 01時34分

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