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沖縄が中国に占領されても、”民衆”のために涙する者がいないだろう

ネトウヨさんがつける題名みたいになりましたが…人様のブログとそこへのコメントで記事を書く企画です。
TAMO2投手のところ
獏たる不安ということ

ある人とメール。小生は、「沖縄のことに心を痛めつつも、日本の本土の人間が結果として沖縄に基地を押し付けているのは、共産主義圏(ってか、中国)への不安感から、抑止力を期待してとのことでしょう」と書いた。これは、周囲との雑談や、あちこちのネット記事(ブログ)からの判断である。
では、忙しい日常を過ごす庶民が、この問題についてじっくり時間を取って考えるには、参考になる資料の見つけ方さえ良く分からない。その根本にあるのは、軍事的な教育を皆目受けていないという現在日本の状況があるのだ。
ドイツのように、徴兵制を敷けとは言わない。そんなのは御免だ。だけど、平和問題と軍事問題は密接にリンクしている。あと、外交も。そういう次第で、平和教育に熱心な学校は、軍事教育も同じくらい熱心にして欲しいものだ。
超左翼おじさんのところ(かもがわ出版)から、軍事教育のイロハ本が出るらしい。期待したい。
あと、こういう格言があるらしい。「爆弾の構造を知らずして、どうやって爆弾を処分すると言うのだ?」

後半の部分には、異論はないのだが、最初の段落について私が入れたコメント
本土で沖縄から基地が無くなったら、中国が攻めてくる、尖閣諸島(釣魚台)や宮古島がとられる…なんて騒いでいる人たちは、イザ中国が沖縄(の一部)を占領し、弾圧・抑圧をはじめても、その「抑圧」にたいして怒るのではなく、「神聖な日本の領土」が侵されたことにのみ憤るのでしょう。
いまの沖縄民衆にかけられている「抑圧」を知らんふりしているような連中ですから。

それに対する投手曰く

あるみ様:
うーん、それじゃあまるで平均的日本人は、ネトウヨと言っているような??

対応して私のコメント

「連中」と書いたのは行き過ぎかもしれません。
しかし、沖縄がアメリカに占領され、苦しみにあえいでいたときに、「左翼」も含め、どのくらいの人たちがその苦しみを共有し、それに抗議していたでしょうか?
別件ですが、そうゆう意味で「左翼」も「在特会」になり得るのです。

その後の投手からのコメントは、少し「在特会」問題に振れつつ

あるみ様:
これは深刻で、結論は同意する――むしろ、在特会の主張は西岡力を参照項にすれば、実に左翼的とも言える――のですが、例えば華青闘の告発に付随した不可能性をも感じざるを得ません。
ヤマトンチューは、どこまで言ってもウチナンチューにはなれません。そのうえで、連帯と共闘を模索するしかないのではないか、と、左翼の歴史を振り返って思います。(以下略)

もう一度歴史を振り返るなら、沖縄が米軍の占領下にあって「銃剣とブルドーザー」で土地を取られ、基地が拡張されていた時に「知らなかった」とはいえどのくらい「本土」の人が声を上げたのか…ということをひきずりながら、もし沖縄(の一部)が中国に「占領」されることはケシカランと言う人が、そこに住む民衆のことを考えていっているのではなく、「国権」としての神聖な領土が侵されることに「観念的な」不安・・・これが漠たる不安の正体ではないだろうか。

前の大戦の時「本土」は徹底的に爆撃されたとはいえ、多民族による軍事支配をうけたことがない(ある意味幸運な…でもドイツだってそんなんじゃないの?)人たち…右翼左翼とわず…が、「被抑圧民族」についてキチンと考えることは、非常に難しいのだろう。だからレーニンもそのことに「警鐘」を鳴らしていたが、多民族に「抑圧」されたことのないロシア人共産主義者たちが、少数民族問題をキチンと解決するのはやはり難しかった。(TAMO2投手が行っている「共産党・共産主義」批判はそういうものを包摂しているのだろう)

松崎五郎氏の「資本主義の終わり論」白井朗『マルクス主義と民理論』を読んでより、引用

だから問題は 民族という概念がいつ生まれ 皆が納得するようになったのかです。歴史事実としては知りませんが 論理的に言えば 資本主義の発生期に生まれたのだと思います。古代的・奴隷制では 鎖につながれた奴隷が 奴隷主(自由民)と同じ家族・部族とは絶対に思わなかったと思います。逆に奴隷主も奴隷と同じだとは思わなかったでしょう。また封建制では 領主と農奴の階級対立があり 領主ごとに領地は分離・独立していて 領主が異なる幾つかが一つの集団・民族としてまとまる必要性はなかったと思います。領主にとって農奴は自分だけに屈服すればよいのですから。なお 領主の支配権を追認したのが ヨーロッパではローマ法王であり日本では天皇です。封建制の中から発生した資本主義が (商品)流通を拡大しようとしたとき 桎梏となる領界(関所)をなくすために 「同一民族だ」が押し出されたのだと思います。つまり封建制を食い破り(分散を統一し)民衆を動員するイデオロギーとして 資本が押しだしたのが民族概念だと思います。だから民族は 上部構造の観念的表現なのです。

ま、要するに資本主義社会を一定発展せるためにできたのが、今の〇〇人という「民族」意識であり、先に発展した「資本主義民族」に対抗するために、被抑圧側も「民族」をかかげて、たたかわざるを得ないということを言っているわけだ。

終わりのほうの、白井朗批判も引用…

本書の最後に 「付論 日本人の民族性について」で白井は 「アイヌ民族と沖縄県民にたいする明治維新いらいの差別と抑圧の歴史をしっかりと学び 彼らが日本人としての民族的共感をいまだ持ち得ていない現状を真摯に改革しなければならない」と述べていますが 前半の「差別と抑圧の歴史をしっかりと学び」はその通りですが 後半は間違っていると思います。アイヌにとって必要なことは 日本人に対して「民族的共感」をもつことではなく まず自らを一つの民族として成立・登場させることだと思います。民族が異なるのに「民族的共感」とは何なのですか。しかも 「日本人としての民族的共感」となると アイヌを捨てて日本人に同化せよと言っているのに等しいと思います。アイヌ民族に対して日本人がすべきことは 北海道の一定の地域をアイヌ民族が日本人に規制されることなく自由に使えるようにすること(独立または自治区)だと思います。つまりアイヌ民族の民族自決権を認めることが絶対的だと思います。
 また白井は 「日本民族が自民族の歴史をしっかりと学び 近現代史の正負を認識し 誇りと自信を回復すべきことが歴史的に大切であることを強く訴えたい。」と述べていますが 「日本民族の誇りと自信」とは何なのですか。日本人にとって近現代の正しい歴史観は右翼が言うところの「自虐史観」であって 侵略主義者を打倒することで初めて、日本が侵略・抑圧してきた人々と「対等」と言えるのです。現実に抑圧・被抑圧の関係の中に存在しているのに 侵略・抑圧している方が「共生」を掲げることは偽瞞だと思います。

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