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「沖縄県民」という言葉に国家・民族の止揚をみる

少し前から書こうと思っていましたが…ま、今年の夏の高校野球は沖縄代表の興南が優勝したわけですが、その時、TVのインタビューやなんやらで球児も地元の方が言う「(沖縄)県民の…」という言葉が、非常に印象に残っている。
 思えば、95年の少女暴行事件をきっかけに開催された「県民大会」をはじめ、何度も「基地建設反対!」や、教科書から「集団自決」の事実をゆがめる記述に反対する「県民大会」など、万単位でわぁ~っと集まる集会が行われている。
 もちろん、「日本国」の秩序形成・法体系上、沖縄に居住して住民登録すれば、だれでも沖縄「県民」になることができる(私も去年は、「大阪府民」今年は「香川県民」でおますhappy01)が・・・「沖縄県民」とは、近世・近代以降、ヤマト(本土)に抑圧された、琉球弧に住む人たちが、あるテーマ、それこそ米軍基地反対や、歴史歪曲(それは琉球・沖縄への抑圧を開き直り、正当化する議論に他ならない)に一致して、わぁ~っと集まることができる・・・のがその存在であると思う。
 琉球弧の人々は、近世に薩摩の侵略を受けるまで、あるいは受けて以降…琉球処分・沖縄戦とアメリカ支配・基地をそのまにした沖縄「返還」など…ヤマトとは違う文化を保ってきたし、今も保っている。(琉球弧という言葉を使ったが、もちろんその中でもいろいろ違う文化が育まれている。奄美、本島、久米島、宮古、石垣、八重山等、違うのだ…もっとも本島しか行ったことはないけどね)で、「日本国」からの「独立」(ま、今の国際法下における独立国家形成)を求める主張や、「琉球(沖縄)民族」をばーんと打ち立てる主張というのは、あることはあるけれども、主流ではない。
 ここに、私は「日本(大和)民族(国家)」という、ある意味の「虚構」イデオロギーを解体する萌芽があると思う。当然、ここには「国境」概念も解消し、例えば「魚釣島(尖閣諸島)問題も、単なる対岸にある共同体の「縄張り
争い」(当然これは変な武力を持たない者同士の争いだから、「戦争」には発展せず、最終的には「話し合い」解決となる。

 で、「沖縄県民」の怒りや、喜び、哀しみに共感し(あるいは「共感」しようと努力しようとする)人たちは…ヤマトを含め、北方で抑圧されたアイヌの人たちをはじめ、、オーストラリアの原住民や、グアムの人々、そして朝鮮人や中国人、アメリカ人やドイツ人、ロシア人でも、この心情に同意できれば…だれでも「沖縄県民」になれるのではないか…そういう可能性を秘めた「沖縄県民」という言葉…もちろん、沖縄の人たちはそんな深刻で重い意味としてこの言葉を使っているわけではないだろう。

 ということは、「ヤマトンチュウ」で社会変革を目指す私たちは、もっと琉球・沖縄文化と歴史を学び、それに応えていかなければならないだろう。

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かくめいのための理論」カテゴリの記事

コメント

自分で何を書いてるのか理解してますか?

投稿: 核武装論者 | 2010年9月11日 (土) 23時47分

始めましてですか?
よくお見かけするので始めてとは気が付きませんでした(笑

国家でも民族でもなく、共同体として、そしてその共同体に参加し自分達の管理下に置くのであれば、ある程度の狭さは必要だろうと思います。
企業経営の観点から言うと、「彼らが決めた」ではなく「我々が決めた」と思えるのは確か200人程であったと記憶しておりますが、それではちょっと狭すぎるので個人的には小国寡民的な共同体を考えています。
またそれらを組織される形態は、国民国家体制のようなものでは無理だろうと。

投稿: キンピー | 2010年9月12日 (日) 10時29分

核武装論者さんへ、実はまだ本論は頭の中でごちゃごちゃしているものを、メモ書き程度にまとめたくらいのものなんですね。
はじめましてキンピーさん。コメントありがとうございます。
「世界革命」を目指した共産主義のベクトルと、自己決定できる共同体へのベクトル…大きさと内容から「(国民)国家」や「民族」(特に日本で考えられているそれ)の”止揚”への社会変革のために、マルクスがパリコミューンを見て「ついに発見したプロ独」の概念に匹敵する?ものとして「沖縄県民」があるのかなぁ(ただし上述したよう、マルクスたんほど偉くないんで、うまく説明できない)と考えました。
これからもよろしくお願いします。

投稿: GO@あるみさん | 2010年9月12日 (日) 22時26分

日本人というより、東北ものとか青森県民というメンタリティーを強く持っている私には、なんとなく説得力のある内容でした。最終的に、人が幸せに暮らすって、どういうことよ?という問いかけが常にされ続けなければならないのだろうなぁと思う次第です。

投稿: なのなの勢力 | 2010年9月13日 (月) 00時49分

そういや、右派のたけさんが、私のブログで、こういう素朴な感情こそが本物の愛国心なんだとおっしゃっておられたのを思い出しました。

私も高校生くらいまでは、右派や右翼の人の言っている愛国心というのは、そういう普通の人が持っている「愛国心」と同じものだと思っていたのですが、現実の右派に接すると、極めてイデオロギー的で幻としか言いようのない、ニセモノばかりなんですよね。

ベトナム解放戦争でも、韓国民主化闘争でも、普通に「民族」とか「愛国」とか使われていましたが、こういう本物の場合は、容易に国境を超える内実を持つことになるし、その思いが本物なら持たざるを得ないんですよね。

投稿: 草加耕助 | 2010年9月13日 (月) 19時25分

 こちらでは、はじめまして。 「アイヌ」そのものとは違っても「アイヌ的存在」は存在する。  そして「アイヌ的存在」としての側面を持つ者は必ずしも少数派ではない。(本多勝一の文章だったと思う。 それを思い出しました。)
 諫早湾の漁師や三里塚農民なども「アイヌ的存在」でしょうし、沖縄県民だって中国政府の圧政に呻吟するチベット人だってウイグル人だってそうだろう。 切り口を変えれば中国農民工だってそうだろう。

投稿: 焚火派GALゲー戦線 | 2010年9月13日 (月) 21時07分

GO@あるみさん

他の方々の沖縄県民論と合わせ読むと、自己保全の衝動(コナトゥス)的な意味合いなのですかね。
ネグリ的に言えばマルチチュードということになりますが、これは確実に存在するものの、ある条件のもと「現れては消え、消えては現れる」光の粒子的運動のようなもので、実際の運動に例えると、ある条件に対する「連帯」のようなものでしょうか。
もちろんこれはこれで大切なことですが、プロ独やパリコミューンに代わるものとはちょっと違うように思います。

っで、人間の幸せについて興味深い話。
人間の幸せについて何をもって測るのか?という問題がありますが、現象学的考察の一つに「時間に対する感覚」によって人の喜びを測る考えがあります。
そのキーワードとなるのが「私ないし、我々が決めた」という自主決定による行動ですが、これを共同体的な枠組みで考えると、どうしても「歴史文化」という枠組みは避けられないと思います。

ここから妄想話ですが、すなわち「民族」というものが中心的な役割を果たすとして、この「民族」はヤマト民族などという抽象的なものではなく、琉球諸島の島々の文化歴史が違うように、大阪でも河内の人間と泉州の人間が違うように、もっと生活空間に密着した具体的な存在としての民族をもってようやく「我々が決めた」と認識できるのではないでしょうか。
ただそれだけでは江戸期に戻っただけですから、やはりその共同体は外部に開かれたものであり、出入り自由な空間かつ連帯自由なものでなければならないと思います。
大きな行政府は置かず、連合として暴力・経済を管理し、過去に「国」と呼ばれたものは「あの辺り、この辺り」に変わる。
ちょっと背伸びしても我々が自主管理できるのは、この程度までと思います。

投稿: キンピー | 2010年9月14日 (火) 18時14分

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