「一国社会主義」論は、後からきたものである。
飛田論文に戻って
〔Ⅴ〕清水式「スターリン主義」論の全面的破産 から
清水は、〈「一国社会主義」論→ロシア革命の変質、国際労働者階級の世界革命への裏切り…〉と書いている。(あるみさん注:革共同の長年にわたるドグマであったものだ)。歴史を逆転させる暴論である。とある。
スターリンはレーニンの死(1924年1月)から間もなく、1924年12月の論文「10月革命とロシア共産主義者の戦術」で「一国社会主義」論をとなえた。しかし、それがそのままストレートに党と国家を支配し社会を制圧していったのではない。逆である。まず、スターリンらによる労農監督部をはじめとする党とソビエトにおける官僚主義的腐敗の深刻化、工場委員会の骨抜き化と「有能な企業長における単独責任制(1919年~)、労働組合論争を最後とする分派の禁止(1921年)とその恒常化、メンシェビキ、左翼エスエル、無政府主義者グループなどの非合法化とボルシェビキの一党独裁(1921年)、スターリンの党書記長への就任(1922年4月、党中央委員会総会で書記長ポストを新設、カーメネフの提案でスターリンを選出)、ソ連邦の大ロシア主義的形成(1922年12月)、ノーメンクラトゥーラ(1923年、党中央が、中央、地方の国家機関の人事に関する任命権によるスターリンの飛躍的権力増大、選挙制、随時解任製の有名無実化など党内民主主義の破壊と解体、etc.が上記スターリン論文の発表に先行して現実化していたのである。(p135)
これら「ソビエト革命政権」がとった政策は、マルクスがパリ・コミューンで見出した、「コミューンの原則」から逸脱するものであった。
ここで草加さんがコメント欄で提起された…
まず、せっかくいいところまでいったドイツ革命の敗北のために、当面ヨーロッパに連続的に革命が波及していく可能性が遠のいたという現実を前提にする限り、ロシア一国で「資本主義後の秩序としての社会主義を完成」させるために頑張るしか他に選択肢がないというのは、当為をもった判断として認めないといけません。これに「世界革命」を純粋理論的に対置しても論破されてしまうのであって、トロツキーの敗北をもってスターリン主義をイデオロギー的に断罪してみてもはじまらないと思います。
すなわち、ヨーロッパ革命が頓挫して革命ロシアが孤立したとき、どのように共産主義へ向かう過渡期の体制が生きのびるのか、とりあえず何年も「一国的」に共産主義社会への道を目指しながら「耐え抜く」しかなかったのだが、その時に「生産力至上主義」(もちろん資本主義的に「遅れた」ロシアが生き抜くために「生産力」を独力で向上させる必要はあるわけだが)に邁進して、コミューンの原則をふみはずしたことに問題があった。そこにトロツキー的に「世界革命だぁ~」と提起されても「はぁ?自国の体制はどうなの?共産主義原則的なの?」ということである。
ソビエト体制の変質…コミューン原則からの逸脱については、次回に述べる。
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コメント
ネップと同様、一国社会主義が革命の頓挫によって一度「山を降りる」という認識の下でなされたのかが問題でしょう。
日本共産党を見るととてもそうは思えませんが、他の左翼はどうなんでしょう?
投稿: キンピー | 2010年9月23日 (木) 10時30分