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日本共産党31年テーゼ

な~んも考えずに「天皇制打倒」を掲げた日本共産党のおまけ企画…展望第6号 寄稿「日本共産党・32年テーゼと全協の〈天皇制打倒〉綱領(雑賀一喜)より。
1930年8月、プロフィンテルン(コミンテルンの指導下にあった赤色労働組合インターナショナルの略称…全協はその日本支部という位置づけ)日本小問題委員会で、日本革命における新しい革命戦略が審議され、そこでプロレタリア革命戦略が事実上承認されたのだが、
 

このプロフィンテルン日本問題小委員会には、執行委員の山本山本懸蔵が日本代表として出席し、クートベを卒業して間もない風間丈吉が通訳として同席していた。弾圧によって壊滅した日本の党を再建する任務を帯びた風間は、ヴォルクらからテーゼ原案を頭の中にたたき込まれて帰国した(途中、中国や日本の官憲の手に渡るリスクを避けるべく文字化したものは一切携行しなかった)。帰国した風間が必死になって記憶の糸をたぐりながら書き上げたのが31年政治テーゼ草案である(ただし農業問題は岩田義道が執筆)。p146~5

クートベとは、東方勤労者共産大学の略称。風間は1902年生まれだから、当時は30歳前とはいえ、すげぇ記憶力だ。
 
かくして、「ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命」を戦略路線とする31年政治テーゼ草案は、4月22日から6月15日までの『赤旗』紙上に分載・発表された。このテーゼはわずか1年余りで32年テーゼにとって代られたので、戦前の日本共産主義運動を総括する上でエピソード的に極めて軽く扱われ、甚だしくは日本共産党公認党史におけるごとく完全に抹殺されている。しかし、日本人が日本の地で執筆したものであるためか、27年テーゼや後の32年テーゼと比較して、国内の運動の状況について厳しく具体的にとらえている。(p147~8)

 風間は31年1月、中央委員会のキャップとなり、テーゼ草案に対する一般党員の活発な討論をよびかけ、相当数の意見が集まったそうだ。発表前にはそれらの内容をパンフレットにしあり、簡潔にまとめた報告集が作られ細胞会議にて討議に付された、つまり民主的な手続きを経てきたものだ。これが、「草案」のまま終わったのは、大会またはそれに準ずる承認手続きが得られないまま、32年テーゼにとって変えられ・・・というかスターリンらが日本の実情を知らないで作った32年テーゼをそのまま受け入れてしまったためである。

おまけ…「民主集中制」とはなんぞや…を説明するのに、ピァトニツキーの著書「組織論」に出ていた、党と大衆団体の関係を描いた図が、p159に載っていたので、部分紹介(伊藤晃『転向と天皇制』から転載されたもの)
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上部が回れば、下部もそれといっしょに、ぐ~るぐるの図…うへぇ


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コメント

いつ見ても、この絵は強烈ですね。

あと、福本イズムの頃、福本らが必死こいて考えた草案も、コミンテルンの一声で没となり、日本の現状を理解していない27年テーゼを押し付けられました。

不破のごときは、27年テーゼも32年テーゼも肯定的に捉えていますが、カーッ!ペッ!ペッ!ペッ!

投稿: TAMO2 | 2010年12月28日 (火) 21時46分

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