7・7自己批判にあたって、白井朗「マルクス主義と民族理論」
まぁメモ程度のことしか書けないが…白井朗「マルクス主義と民族主義」の感想
はじめに…80年代の赤黒系の運動をかじった人から言わせれば、何を今更言ってるんだ~という感じ…マルクスのいう「世界文学」を「主力言語への統一を主張した」と読んでしまうところでアウト(むかぁし「AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカと連帯しぃ~って運動を見てきたから、そんなもん単なる「言語帝国主義」じゃないか)…まぁ、そういう読み方すべきと考えられてきた「マルクス・レーニン原理主義」の党政治局員が「反省して」書いたということに意義があるもの。
マルクスが書いたものには当然「時代の制約」がある。いろいろな民族・言語・習慣・社会形態について全て知って書くことは無理だった。だから「金科玉条」にしないことが大切。どこの民族が「資本制社会を進め」、「革命」を担うとマルクスが認定した(しなかった)からマルクスはダメだということにはならない。
レーニンは「抑圧民族と、被抑圧民族を分けて考える、被抑圧民族の権利を尊重することをロシア革命で掲げた。が、実際実行することができなかった。スターリンの「民族抑圧」は、じつはレーニンの時代から始まっていた…その路線が敷かれていたことは「反共」の側からのみならず「革命」の側からも多くの資料があり、研究がなされている。「大ロシア主義」…レーニンが「何を言ったか」で留まっていて、「何をやったか」を見据えなかった…「白」としては大いに反省すべきである…ただ「赤黒」はそういうところから比較的に「自由」だったと思う(もっと酷いのもいたかも知れないが)。
「本源的蓄積」(まぁ西欧社会が資本制社会に移行していくための元手となるもの)が、いわゆる地理上の発見→アメリカ先住民からの徹底的な収奪、によるものを重要視する視点は良い。
「民族」は社会を構成する基本単位…ではあるが、ア・プリオリに与えられているものではない。移動したり、交わったり、宗教を変えたり、抑圧したり、抑圧されたり…で、いろいろ変わっていく。その過程で形成され、なくなったり、同化した「民族」もある。中国の戦国時代に「中山国」という200年ほど続いた王朝があった。「中華の礼」を拒否した北方遊牧民族系の国だったが、紀元前296年、斉や趙の「中華文明」を持った民族に滅ぼされてしまう。多くの人々は同化し、一部は山奥等で自らのアイデンティティを(変容させながらも)まもってきたのであろう。その趙や斉も、「中華文明」のはじっこ…西方の遊牧民族との繫がりが強かったといわれる…の秦に統一され「漢民族」が成立する。
また中国と朝鮮・韓国との間には「高句麗」(紀元前37年~668年)は中国か、朝鮮かという歴史認識問題が存在する。しかし高句麗はこれも北方系のツングース系、モンゴル系といわれているが、滅びた段階で朝鮮族、漢族、その他北方民族にわかれていったのだろう。
ユーラシア大陸にはトルコ系民族が広く分布しているが、その人たちが「同じ」歴史や認識を共有しているわけではないだろう。「現在、トルコ共和国に住んでいる私たちの先祖は、中国の北方にいた(突厥)ですよ。」と学校で教える…ふぅ~ん!その認識はこれから社会生活を行い、未来を生きていくうえで「必要」なことなのか?と生徒たちは考えるかもしれない。
いやいや、トルコ(あるいは中央アジアのトルコ系民族)が国家の「アイデンティティ」として必要なのだ。特に言語や宗教というものは、アイデンティティを確立する上で欠かせない…ボリシェビキがユダヤ人を「言語」を持たないから「民族」ではないという規定をしたのは「誤り」である。(もっとも、人種、生活、風俗が違ってもユダヤ教徒であればユダヤ人に成れるということだから、「民族?」っていうことじゃないか)だから日帝支配下の朝鮮や、現在のチベットなんかで、民族の言葉を教えない、禁止するというのは、最大の民族抑圧の一つである…そこにその民族の「歴史」が加わる…それはアイデンティティを確立し続けるために、代々伝えられてきたものから始まったのだろう。だが、「資本制社会」の高度な発展によって情報・交通は狭くなり、「世界史」として「歴史」を知ることができる(もっとも、そんなことができるのはまだまだ世界の一部の人でしかないのだが)。「民族」のアイデンティティも相対視され、絶対的なものとはならないだろう。
「日本史の学習が大切」と白井氏は述べる。なるほど、その通りだ。いまは東アジアの中での日本史という位置づけで学ばれよう…「源氏物語」は世界文学だ…高校の古文の授業でちゃんと習ったぞ、「Tail of GENJI」と呼ばれているそうだ。しかしこれを「理解」しようとしたら、日本の王朝時代の社会や風俗についての知識がいる。ひとすじなわではいかないのだ。が、「欧米」の琴線に触れるものが「たまたま」あったために「発見」され「翻訳」されたものだろう。「発見」されなかった、他の諸民族の「文学」は、琴線に触れなかったがゆえ「世界文学」とはならいない。でもその「琴線」は、時代が進むとともに「アイデンティティの相対化」も一因となって、変化していくだろう。
白井氏は「イギリス民族」「アメリカ民族」という使い方をしている。しかしそんな認識をもっているイギリス人、アメリカ人が居るのだろうか?イギリスに住む人たちも、旧来からいたケルト人、あとからやってきたローマ人、ノルマン人その他と混血しタモの出し、現代では旧植民地などから来た移民も「イギリス人」になれる。アメリカが超多民族国家であることは、いうまでもない。
ポーランド民族の悲劇と偉大さ、革命への貢献を白井氏は賞賛する…だがポーランドが「大国」であった中世期、その「領域」内の他民族を「抑圧」していなかったか?いやいや、その当時の他「民族」の「民族意識」なんかは形成されていなかったのか?言語がなくなるという過程はなかったか? 同じようなことは、東南アジアのタイ族、ビルマ族、ベトナム族にはなかったか?
おそらく別の国、民族からの抑圧…ポーランドではドイツ、オーストリア、ロシアから、東南アジアでは英、仏、日などからの…があって、はじめて近代的な「民族意識」とうものが成立したのであろう。
日本について学ぶことは、日本の現実にあった革命路線、社会変革路線を構築する上で欠かせない。だが「民族」を上に持っていくこと(特に歴史上抑圧をうけたことのない日本「民族」が)は、すぐに他民族への蔑視や抑圧につながるワナが、でかいのだ。よって白井氏のアイヌ民族や「沖縄県民」に対する見方がゆがんでしまう
白井氏のこの本の批判は、ここのサイトが詳しい
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