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「大日本帝国」崩壊(台湾編)

アメリカが沖縄に上陸・占領したことで、台湾にアメリカ軍が来ることはなかった。逆に、台湾は中国戦区とされたため、日本降伏後は中国軍(蒋介石軍)が接収にくることになっていたのだが、中国軍は大陸の奥で日本軍と闘っているため、なかなか進駐してこない。

国府軍が進駐するまでは日本軍がそのまま駐留し、台湾総督府が行政と治安をこれまで通り執り行う。すなわち敗戦前と変わらず日本人が台湾を実効支配するという不思議な空間が生まれたのである。(
p101)

統治体制が軍も含め「健全」に残っていたから、台湾人によるサボタージュや示威行動も起こらず、日本人居留民も本国へ引上げようとする者は少なかった。

他方、台湾における政治的な動きとしては、もともと一つの民族・国家がそのまま植民地となった朝鮮と違い、近世になって中国の一部となってから植民地化されたということもあり、独立や中国復帰ではなく、日本帝国内での自治権獲得運動が主体であった。もちろん辛亥革命の影響をうけたもの、共産主義運動の影響をうけたもの(台湾共産党が台湾共和国独立を掲げていた)もあったが、単純で明快なスローガンで収斂されるようなものではなかった。こうした中で、中国から台湾省行政長官に、国民政府の陳儀が任命される。

国府軍が基隆に上陸したのは10月17日、台北にやってきたのが19日であるが、

戦場とならなかった台湾は、ビルマやフィリピンで見られたような組織の壊滅によって幽兵の集団となった日本軍と違って、規律正しい兵士からなる整然とした部隊がそのまま存在していた(中略)その日本軍に勝った国府軍はさぞかし圧倒的な軍隊であろうと想像するのは自然であった。しかし、目の当たりにした国府軍は、ボロ靴を履いて鍋釜を担いで雨傘を背負った、近代的軍隊とはおよそかけ離れたものであって、在台日本人の間では侮蔑感さえ抱かせる姿であった。(p117~8)

国府軍の精鋭部隊は、後に述べるよう、対ソ連、共産党軍に対抗すべく東北のほうに回さざるを得なかったから、そうならざるを得なかったのだが…
もちろんこのような国府軍を植民地支配からの解放軍としてこれらを歓迎する雰囲気も強かったそうだ。ただ、蒋介石は台湾を西方の国防の要とし、海南島とともに「国防資源と軍事工場および海空軍基地として積極的な経営を行う」(「蒋介石日記」1945年10月13日)としていた。民心をつかむよりも、戦略的価値だけ考えていた。
カイロ宣言で「台湾は中国に復帰する」といわれても、両者は50年余り、別々の道を歩んでおり、それ以前からも中国本国とは違う文化があったわけだから、何よりも様々なことに配慮しながら統治を続けなければならない。多くの台湾人は日本経由の近代化を、中国「本国」は辛亥革命以来の混乱の中で近代化を学んできたため、その違いは考慮されなければならない。蒋介石は民心の獲得に早くも失敗し、戦後の台湾人のアイデンティティをめぐる悲劇をつくりだした。

10月25日にようやく台湾省行政長官の陳儀が台北に入り、中国側の主権が確立…しかし「接収」を中心とする行政引継ぎのまずさや、中国商人が一攫千金を狙って大量にやってきたこと、さらに大陸で進んでいたインフレが持ち込まれたことにより、経済は急速に悪化。おまけに台湾統治の中核は陳儀をはじめとする大陸系に握られ、台湾人の政治参加は限定された。台湾人の不満は日本人に向けられ、12月、フィリピンで台湾人軍属が日本兵に虐待されていたことが報道されたことをきっかけに、日本人殴打事件も起こった。在台日本人全体の非特権化が明らかになってくると、日本への引き上げ希望者も増えてくる。国民党と共産党の対立が深まる中、トルーマン米大統領は中国の不安定要素となるおそれがあった在留日本軍の早期帰還も採り上げられる中、12月18日に米中から第10方面軍に復員を行うことを告げられ、25日には復員の第一陣が出港する。46年3月末から在台日本人の引き上げも始まり、5月末までに軍人の復員はほぼ完了、在台日本人も47年春に31万人のほとんどが引上げた。(沖縄から台湾に来た「琉僑」と呼ばれた人たちは、別途米軍によって引き上げさせられる。また日本人技術者や医者、金融機関関係、はては軍人まで含まれた日本人の「留用」があり、これが約2万8000人いた)

陳儀による台湾統治は年々悪化の一途を辿っていった。戦前に台湾を訪問したのを機に、台湾総督府の統治政策に強い影響を受けた陳儀が行った台湾統治は、台湾人を同胞として扱うものではなく、完全な支配者として望んだものであった。その結果として、台湾に土着する「本省人」と大陸から渡ってきた「外省人」といった区分が生まれ、彼らの溝は次第に深まっていく。 1947年2月28日に「二・二八事件」と呼ばれる台湾全島に及ぶ本省人による政治暴動が発生した。行政長官公所は事態の収拾に失敗、大陸からの軍隊増援によって1万8000~2万8000人に及ぶ台湾人が無差別に虐殺され、とりわけ日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。この事件を機に、本省人と外省人の対立は構造化され、政治的弾圧のなかで本省人の中に「台湾人」意識が芽生えていく。(p130~1)
あまりにも平穏であった台湾支配の終焉は、日本人と台湾人双方にとって捩れた感情を産むことになった(p133)
と筆者は結論づける。台湾からの引揚げ者は「満州」等からの引揚者と比べて恵まれていたことを知ったことから、台湾人に対する親近感へ容易につながったが、本省人と台湾人との対立という過酷な現実に向き合わなければならなかった台湾人の悲劇にまで思いいたるものではなかったし、
台湾人にとっては同胞と信じてきた大陸の中国人に対する幻滅が広がっていくのと反比例して日本人に対する親近感が高まっていった。しかし、これは日本人が受け止めていたような単純な理由ではなく、台湾人にとっても日本時代も中華民国時代も同じように支配される構図は何らかわらなかったからであり、日本統治はあくまでも植民地支配であって台湾人が求め続けた自治は最後まで認められなかった。(中略)台湾人にとって八月十五日は「光復」ではなく、帝国臣民としての「降伏」だったのである。(p134)

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