「大日本帝国」崩壊(南洋群島・樺太、まとめ編)
南洋群島は、第一次大戦時にドイツから奪い、国際連盟によって「C式委任統治」(現地人の利益に一定の保証を与えないといけないが、受任国の国内法が適用される。軍事基地の建設などは禁止されていたが、事実上の「植民地」であった)とされたが、ここはアメリカ軍の反攻により、「大日本帝国」の版図からはいち早く「離脱」させられたところである。
ちなみに、原住民は「島民」と呼ばれ、日米開戦時は日本人8万4千人、カナカ族が約4万7千人、チャモロ族が約4000人と、日本からの入植者が多かった。ちなみにこの「日本人入植者」の多くが沖縄県民であり、サトウキビ栽培・精糖業を行っていたようだ。(「ミクロネシア」と呼ばれるこのあたりは、赤道以北が日本の委任統治、赤道以南がオーストラリアの「委任統治」とされた。したがってラバウルはオーストラリア領に攻め入っって日本軍の基地をつくったものである。)なお、大日本帝国の植民地になることにより、北ミクロネシアでは各島バラバラの文化圏が、「帝国臣民」としての意識を持つようになり、一つの地域的まとまりとして捉えられるようになったが、
しかし、当時の日本では、南陽群島の島民は帝国臣民とはみなされていなかった。帰化もしくは婚姻などを通じて本人の意思による正規の手続きがなされなければ帝国臣民になれなかったのだが、このことを多くの島民は理解していなかった。戦後になって、今度は米国統治下で英語教育による一体化が測られるようになったが、このときも日本時代と同じく米国市民になったわけではなかった(p198)
さて、この南洋群島では、サイパン島とテニアン島で日米の激戦が行われたわけであるが、その他の島々は「空爆」をうける程度であったという。(それでもトラック等の日本軍基地はせん滅されてしまったが)。いわゆる「集団自決」が行われたサイパン島も、大部分の人が沖縄出身者えあったし、また占領政策も沖縄戦のプロトタイプになったようである。よって、サイパン戦は、あの飛散な沖縄戦の前哨であったわけだ。しかもこの現実は忘れられつつある…どれだけの島民、日本人、徴用されてきた朝鮮人が犠牲になったのか・・・不明のままである。
対する樺太・千島列島は「大日本帝国」から最後に「分離」された場所である。日本が日露戦争後に植民地とした樺太には、樺太アイヌ、ウィルタ、ニブフなどの少数民族、残留したロシア人(ポーランド人やタタール人などを含む)が居たが当初から圧倒的に「日本人」が95%近くをしめていた。しかし樺太は「外地」扱いであり、1943年4月1日に施行された「勅令第193号」によって、「内地」に編入される。最後の「本土決戦」は樺太・千島(行政的には北海道の一部)で行われたわけだ。
しかし大本営は千島・樺太をあくまでも「太平洋戦争」における対米戦争の戦略地として位置づけられていた。(そういえば真珠湾攻撃で連合艦隊が集結したのは、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾である。アメリカ領のアリューシャン列島に近いことも、対米重視の防衛体制を組んでいた。また、「本土決戦」用に編成された「国民義勇兵」が実戦に参加している。15日の正午に「玉音放送」が流れたが、ソ連軍の侵攻は止まなかった。
また、千島においては、カムチャッカとの「国境」占守島に18日、ソ連軍が上陸、戦闘が始まった。占守島での戦闘は21日まで続く。南樺太への空爆、(日本内地における最後の空爆は、22日正午の豊原空爆である。100人以上が死亡したとされる)戦闘は続き、樺太から南千島(国後、択捉)への無血占領もはじまった。
ソ連は1946年2月2日のソ連最高幹部会令により。45年9月20日にさかのぼって、南樺太と千島の土地・施設の国有化が決定され、翌47年2月25日には、南樺太のソ連領編入を正式に決定した。
ソ連は、
技術者か非技術者を問わず在留日本人の送還には全く興味を示さなかった反面、在留日本人に対して、ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え、実生活の面で大きな違いはほとんどなかった。
また、再開された学校教育の教科内容にも大きな制約を加えず、神社も神主を公務員にして存続させるなど、日本人の生活習慣に対して慣用であった。ロシア人のあいだでは、日本人がソ連国民になると見ていたようで、多民族国家であるソ連にとって、とくに日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかったのである。(p214)
う~む、これが同じ「シベリア抑留」をやった民族とは思えないが・・・とりあえず米国は占領地や植民地び在留する日本人の本国送還にこだわり、1946年春以降、ソ連占領地の樺太、北朝鮮、大連からの日本人引き上げが始まり、12月19日には「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、樺太および千島からの日本人引き上げが開始されることになった。
終章「帝国」崩壊と東アジア においては、占領地・被植民地だった主な地域のその後が記述されている。
「あとがき」において筆者は、子どものときから祖父に戦争のことを聞き、「靖国神社」も知っていたし、映画やドラマでも「日本兵」はしょっちゅう登場していたと述べた後に、
そんな同時代的な感覚が、急に過去の出来事のように感じるようになったのは、昨年の夏であった。ちょうど北京オリンピックの真っ最中で、数年前の小泉内閣の時に靖国問題で喧々囂々とした世論が沸騰したことが嘘のような、八月十五日であった。(中略)このときの潮目が変わったという直感は、構想を練っている最中だった本書に大きな影響を与えている。また、近年、自国の歴史も他国の歴史も直視せずに安易な「歴史観」が蔓延し、国際化といわれて久しいにもかかわらず、精神的にはむしろ鎖国化しているような風潮に対する反発も本書執筆の原動力となっている。(p234~5)
右左真ん中上下問わず、読んでもらいたい本じじゃないかと思った…
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コメント
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投稿: keypsully | 2011年9月 9日 (金) 19時50分