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おとんとおかんの戦後史(みたいなもの)

暮れに帰省して大掃除(といってもたいしたことはしない。普段親の手の届かない高いところを掃除するだけ)も終わった夕食時…なんとはなしにおとん(父親)とおかん(母親)のちょっとした戦後史を聞くことができた。

おとんは、「昭和一ケタ」の大阪市内生まれ、おかんは敗戦時、奈良の「国民学校1年生」であった。
おとんは、小さいころに両親を亡くしている。当時は医療水準も低かったので、事故かなんかの感染症ではなかったかと思う。その後、親戚筋に引き取られ、いわゆる「義務教育」までは終えた…もっとも最後の2年は「勤労奉仕」とやらで、大正区の工場で旋盤をまわしていたという。
敗戦時のドサクサは、ヤミ屋で岡山あたりまでぶどうを仕入れに行っていたらしい。が、その後、兵庫県の造船所で働くことになる。
「造船所におったら、そのまま溶接の技術とか身についたんちゃうんか?」「当時の鉄板の接合はリベットだから、体の大きな人間でないと務まらん…体が小さいから、雑用が多かった…」
広島県のある島でも働き、そこが一番気に入っているという…そのうち、なぜかある大阪の薬局店の「会長」とやらに見込まれ「一生面倒みたるから。」とその会社で、店舗販売員として働くことになったそうな。

おかんも、父親が早く亡くなり、祖母(ばっちゃん)は再婚した。母方の実家は、ばっちゃんの先の夫の子どもとしておかんともう一人、後添えとの間に二人の女子をもうけ、4人姉妹の「長女」として育ったわけだ。おかんは勉強が好きだったようだが、どうしても普通高校に行く余裕がなかったため、親戚筋が「会長」をしていたおとんの薬局店に住み込んで、賄いなんかしながら定時制高校に通った。もっとも奈良の山の中から出てきた者と比べ、商都大阪の学生は算盤なんかもよく出来て、恥ずかしい思いをしたという。

ま、そんなこんなで「会長」の肝いりで二人は結婚し、長男が生まれたが、肺炎ですぐに亡くなってしまった。続いて兄が生まれ、育児にも忙しくなってきたので、郊外の民鉄駅近くに1戸建てを構えることとした(ここにも「会長」の支援とかがあったらしい)…土地は川と用水路に囲まれたところを「スプロール開発」したところで、川はすぐに溢れた。もっともすぐに堤防かさ上げ工事が行われ、それ以降洪水になったことはない。その後私が生まれたわけだ。

街は「それなりに所得のある層」をターゲットにして作られたらしく、こじゃれた名前がつけられている。で、周辺に比べ所得水準の低い「我が家」と比較して、おかんは何やらくやしい思いもしたようだ。少しでも金をかせぐため、紳士服の仕上げの内職を行っていた。内職の材料やなんかは近所の家にあったので、よくお使いにいったものだ。「それなりに所得のある層」の住むところではあったが、駅にものすごく近いことから、車を使う生活は想定されておらず、道幅は4mジャスト…舗装もされず雨が降ったら水溜りがあちこちできた。機械がはいって簡易舗装されたのは、私が幼稚園ぐらいの70年代初めである。(ちなみに下水道はさらに遅れ、80年代半ば…それまで我が家は「汲み取り式」だったのだ…もっとも「所得のある層」は早くから浄化槽等による「水洗ライフ」になっていた。

そのころから、おとんは鬱的傾向が出だした。どうも会社で「人事」のほうに配転となったが、どーしてよいやら分らず、「頭の中が真っ白になった」んだそうな。入院したりして、幼稚園の父親参観には来られず、気分転換のため、広島の「思い出の島」に親戚連中と旅行に行ったりもした。なんとかのりきったものの、鬱系の病気はそのまま続く…そんなこんなで「会長」から「一生面倒見る」という約束も反故になる。まあ、それはしゃぁないとしても…

どうやらおとんの会社は、社員の厚生年金に加入してなかった(もしくは適切に管理していなかった)ことが判明…おとんもおかんも、あんまり社会の仕組みをよく「知らされてなかった」ため、文句を言おうにもよう文句がいえず(「会長」はおかん、ばっちゃんの親戚筋にあたるのでなおさら)…結局、「三階建て」年金の基礎部分しかもらえていないため、一応定期的に私や兄が一定の金(少額だけど)を実家に入れている。

おとんはなんとか「55歳定年」まで勤めた後、2~3年ほど「嘱託」で同じ会社で働いていたが、待遇と居心地が悪いので、電車で1本でゆける印刷会社に再就職(よく雇っていただけたと思う)、数年働いた後、シルバー人材センターに登録できる年となったので、そこから自転車で通えるスーパーの清掃員として働いた後、リタイヤすることになる。おかんは、紳士服の内職が無くなった後、様々なパート仕事を転々…ただ「接客」が全くできない人であるため、例えば弁当屋で「賄いだけですよ」と言われても、人手が足りない時は「接客」しなければならず、結局止めてしまったり…と、こちらも大変だった。

実家がなんとかやっていけてるのは、ひとえに「持ち家であること(家賃かからず)」「基本的に質素な暮らし」そして「とりあえず健康」であるおかげである。あと、おとんは証券取引には手をだしたが、ギャンブルは一切しない人だからというのもある。

実家でビールを1.5リットル飲みながら聞いたのは、このうちの前半部分。あとは私の記憶とおかんの断片的な証言である。

おとんもおかんも、健康のためほぼ毎日、近所の散歩をしている。おとんの足取りはものすごく遅いが、それでも実家の階段をけっつまずくことなく歩くことができる。

10年ほど前、おとんを「思い出の島」に旅行に連れて行ったことがある。3年前、NHKドラマ「坂の上の雲」が始まった時は「これおもろいから、これがおわるまで死なれへん」と言っていたおとんと、5年後ぐらいにまた「思い出の島」に連れて行く約束をしたところだ…足腰、大丈夫かな…

ちなみに母方の「ばっちゃん」も、100歳間近で、畑仕事はできないものの、まだまだ元気である。孫は私以外、全て結婚して家庭を持っており、ひ孫が何人いることになるのか、私もよー知らん…

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コメント

みんな、いろいろと家族の歴史があるんですねえ・・・
平凡に生きることは簡単なことではないと思います。
私も他所と比べて少し悔しい思いをしたこともありますが、そのうちこんなものと思うようになりました。

投稿: BM | 2012年1月11日 (水) 21時37分

BMさんコメントありがとうございます。
おとんももう少し年上だったら「満蒙開拓団」に行かされて、生きて戻ってこなかったかもしれない(実際親戚筋に一人、未帰還者がいます)というような話もあります。

あと件の「会長」とおかんの実家との関係とか、よー分らんところも多いのですが…

投稿: あるみさん | 2012年1月12日 (木) 21時10分

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