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豊島産廃問題の発端

 豊島の産廃問題は、豊島観光㈱という「悪徳業者」が75年に香川県知事に有害産業廃棄物処理場建設の許可申請を出した時から始まる。豊島観光は水ヶ浦という、豊島の西端にあたる土地を所有していたが、そこから珪砂をドンドン掘り出して出荷…平地になった所に産廃処分場を作ろうと計画したわけだ。
 しかし島民は、豊島観光の経営者が「金のためならなんでもする」トンでもない人物(暴力的な人物でもあった)であることを知っていたため、このような人物が経営する産廃処理場からは、きっと公害が発生すると考え、反対署名などを行い、運動を始めた。豊島の有権者のほとんど全員である1425人の反対署名が集まり、香川県に提出した。ところが経営者も県庁に毛布等を持ち込んで廊下に泊り込み県への「イヤガラセ」を続け、知事や県職員などに「圧力」をかけたため、県知事は豊島を訪問「事業者は住民の反対にあい、生活に困っている。要件を整えて事業を行えば安全であり、問題はない。それでも反対するのであれば住民エゴであり、事業者いじめである。豊島の海は青く、空気はきれいだが、住民の心は灰色だ。」とトンでもないことを語った。これに怒った住民は77年2月27日に、「産業廃棄物持込み絶対反対豊島住民会議」を結成し、県議会に産廃処分場の建設中止を要請、高松港から県庁へデモを行った。
 しかし知事は許可方針を撤回しないため、77年6月28日、所帯主のほとんど全員にあたる583名が原告となり事業者を相手取って、産廃処分場建設差止請求訴訟を起こした。この動きにあせった経営者は、原告の一人に暴力を振るって逮捕された。豊島観光は方針を変更し、「無害物によるミミズの養殖」を行うという申請に変更。翌78年には「差止め裁判」が続いているにもかかわらず、ミミズによる土壌改良剤化処分業のために、無害である汚泥(製紙汚泥、食品汚泥、木屑、家畜の糞)を扱うことに限定して事業を許可した。住民側は仕方なく10月19日に和解、住民が県に業者の監視をすることを約束させた。
 ところが、豊島観光は操業から間もなく、ミミズ養殖をしなくなり、1983年から無許可で有害産業廃棄物を持ち込み始めた。主なものはシュレッダーダストという、自動車や電化製品等のスクラップである。さらにドラム缶に詰めた液状の廃棄物を持ち込み、シュレッダーダストの中で「野焼き」を始めだした。豊島観光は香川県公安委員会から金属くず商の営業許可を得る…シュレッダーダストから金属を回収するというのだ。(実際は車の中に放置されてあった硬貨などを申し訳程度に回収したにすぎない)86年ごろから島内の家浦地区で喘息が多く発生し、89年には家浦の自治会副会長が喘息で亡くなっている。
 経営者が暴力をふるうような人間であるため、やりたい放題…道を勝手に広げ、そこに産廃を摘んだダンプが走る。海まで勝手に埋め立ててしまう。それでも県の担当者は何もしない。経営者とトラブルになりたくないためだ。野焼きの煙が上がっているのを島民が担当者に「あなたはあの煙が見えないのか?」と聞いても「見えない」と言う始末。一応、形ばかりの焼却施設と煙突をつくらせて「改善」したことにする。行政の不作為である。処分場かあは汚染水が漏れ出し、水ヶ浦の北岸は真っ黒になった。また、豊島観光は当初、公共のフェリーで産廃を持ち込んできたが、フェリーを改造した「専用船」まで作って、最終的には50万トンもの廃棄物が不法に投機され、公害を発生させ続けた。
 ところが1990年11月16日、兵庫県警から豊島観光に強制捜査が入った。「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃掃法)」では、産廃の運搬を行うにあたっては都道府県知事の認可を受けねばならないのだが、兵庫県の認可を受けず産廃の運搬を行っていたため、摘発をうけたのである。これが全国に広まった「豊島産廃問題」の第一ラウンドである。(豊島でいただいた「豊かさを問うⅡ-調停成立5周年を迎えて-豊島事件の記録」産業廃棄物対策豊島住民会議発行 2005年6月 と、豊島で案内してくれた方の話を参考にいたしました)

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