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豊島産廃問題…公害調停成立まで

 さて、「悪徳業者」豊島観光は摘発され、経営者は刑事裁判にかけられたが、前にも書いたように罰金50万と執行猶予付き懲役刑だけですんだ。香川県は摘発のあるまで積み重ねられた産廃を「金属回収業の原材料である(有価物論)であると言い張ってきた。しかし兵庫県警摘発後に島民が入手した、香川県職員の供述調書に「・・・私の〇〇さん(注;このブログで業者個人を糾弾するつもりはないので、実名は私のほうで伏せている)に対する気持ちは、気の短い乱暴な男で機嫌をそこなえば何をするかわからない人・・・強いることが言えず・・・〇〇さんの都合の良い回答をしているのであります。」「・・・これが〇〇さんでなければ・・・行政処分などの適正な措置ができたのですが・・・。」等が書かれてあり、明らかに行政・県の「事なかれ主義」による不作為行為であった。県は豊島の産廃を「産業廃棄物である」と認めたが、自らの責任は認めず、事業者に撤去命令を出して幕引きを計ろうとした。もちろん事業者にはそんな金も、技術力も、やる気もない…このままでは県は責任をとらず、産廃もそのままになってしまう。
 時効となる3年が近づく中、島民は弁護士と相談し、中坊公平弁護士を紹介してもらった。1993年5月「豊島弁護団」が結成され、中坊氏が弁護団長に就任、島民に対して「ふるさとを守るために徹底的に闘いますか?」と、島民に覚悟を促した。11月11日、公害紛争処理に基づく公害調停申し立て…申請の内容は
1.産業廃棄物を撤去せよ
2.損害の賠償として申請人各自に50万円支払え
申立人総数 549名(豊島住民)
被申請人 香川県、香川県職員、豊島総合観光開発開発株式会社及び関係者、排出企業

 行政訴訟を起こして香川県を「裁く」のではなく、「公害調停」という方法にもっていったのは
1.公害調停委員会の費用負担で現地の調査を行ってくれる
2.裁判より費用が安くて済む
3.裁判より短い時間で決着がつく
4.産廃の撤去の見込みが裁判より多くなる
ということからであった。しかし、調停は両者の「合意」がなければ成立せず、片方が拒否すれば元も子も無い。また、香川県と豊島住民との間では力関係の差がありすぎる。そこで公害調停外で様々な運動が展開された。「世論」を味方につけないといけないからだ。
 また、94年~95年にかけ、国の予備費2億3千六百万円を使った、専門委員会による大規模な実態調査が行なわれ、廃棄物の量が香川県の発表の約3倍、50万トンもあること、ダイオキシンをはじめとする有機化合物、鉛を中心とした多種多様な有害物汚染が深刻であること、有害物が浸出して直下土壌・地下水さらには瀬戸内海に流れ出しており「放置できない」状態であることが明らかになった。

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(写真は、「闘争資料館」のような所にある、産廃の層を切り取って貼り付けたもの…土や木のように見えるが、多くはシュレッダーダストである。またこの資料館には、調査時のボーリングデータも全て残っていて、研究者も時々訪れるとのこと)
毎日交代で県庁前に立ったり、メッセージウォーク(メッセージを書いたタスキをかけて、香川県内全市町の役場を訪ね歩く)、1996年9月には夜行バスで東京・銀座にゆき、豊島にある廃棄物の一部を携えてデモ…隣の小豆島(豊島は行政区分として小豆島の土庄町に属する)をはじめ、県内100箇所で「座談会」を開いたり…その行動は7千回を越え、かかった費用は1億六千万にも及んだ。「グリンピース」の訪問や、当時の菅厚生大臣(なつかしいな)の現場視察もあった。

専門委員会は95年7月、産廃処理7つの案を提示した。
1.現場で中間処理、島外の管理型処分場で処分
2.島外で中間処理、島外の管理型処分場で処分
3.島外に搬出し、遮断型処分場で処分
4.現場で中間処理、島内の管理型処分場で処分
5.島外で中間処理、島内の管理型処分場で処分
6.現場で遮断型の処分
7.遮水壁を設置し、水処理をする(現場にそのまま残すということ) 
96年10月23日、第12回公害調停において、県はいちばんまずい「第7案を実行する」と提案、また申請者は「国も当事者である」と公害調停に追加申し立てを行う。11月24日の住民大会では、有害物を他の地域へ持ち出すことは他の地域にも迷惑がかかることになるので、豊島で中間処理を行い、無害化して島外に搬出する第1案を洗濯する決議がなされた。(ここを案内人の方は「自分たちは被害者になったけれど、加害者にはなりたくない。」と言われた)また96年4月6日の住民大会では、公害調停を進めるため、県が責任を認め、謝罪するならば、損害賠償請求権を放棄する決議を採択。7月13日には中間合意受け入れを決定、最終合意に向け県の姿勢を改めさせ、責任と謝罪を得るための運動を展開することを決定。7月18日に県は責任を認め、廃棄物の中間処理、再生利用を図り、廃棄物が搬入さえる前の状況を目指すとする、中間合意が成立した。

だが、1997年6月県議会において地元選出の議員(おそらく小豆島)が「豊島の運動は弁護団主導の根無し草運動である。」と批判…これを受けて、県民の世論を動かすため、まず土庄町6000戸にローラー作戦で支持、支援を訴える運動を開始、県内100回座談会もこうした中で始まった。
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また、99年1月31日、豊島3自治会が業者の破産管財人から処分地を1,600万円で買取り、島内3自治会名義で登記。撤去事業を進めやすくした。99年3月7日には100ヶ所目座談会、記念集会。その1週間後には、県議会選挙に住民運動の代表者の一人、石井亨氏を擁立することを決定…人口30,000人の小豆島の選挙区で、人口1,400人の豊島から当選することは大変なことであったが、石井氏はみごと7340票で当選を果たす。
こうした動きもある中、豊島で梱包処理をして、隣の直島の三菱マテリアル精錬所内に中間処理施設を作り、マテリアルで廃棄物を全て資源化する処理案が検討される(この技術については、別途書く予定)。直島町民への説明が行われ、過疎化が進む中、新しい雇用等もうまれることもあって、直島町で中間処理受け入れが表明される。

そして2000年6月3日、住民大会が開かれ、調停条項を承認するとともに「豊島宣言」を発表。6日には豊島に香川県知事がやって来て、最終調停が成立、豊島小学校体育館に600名が参加した。「怨念から希望へ、第2、第3の豊島をつくらない」との歴史的意義が確認された。

しかし、産廃問題はこれで終わったわけではない。跡地をどう利用するのかという問題もある。また、「第2、第3の豊島をつくらない」と宣言されたにもかかわらず、99年には青森岩手県境で82万m3の、2004年には岐阜市内で70万m3の巨大不法投棄事件が発生しているし、不法投棄されていない産廃処分場で豊島をしのぐ事故が起こっている例もある。そして今、地元小豆島の土庄町が、東北のガレキ広域処分受け入れの動きをみせている。

豊島宣言の最後の部分を引用して、この記事をしめる。
 

私たちが、繰り返し繰り返し叫び続けてきたことが道理にかなった正しい要求であったことが認められる日がついにきたのです。私たちはそのことを喜ぶとともに、これからはここに至るまでの長く苦しい道のりにとらわれず、豊島が美しい瀬戸内海の自然と調和する元の姿に戻るよう、行政と住民がともに、協力して、新しい価値をつくりだすという「共創」の理念に基づいて行動する決意をしました。
 私たちは、生まれてくる子どもたちに、「誇りをもって住み続けられるふるさと」を引き継いでいくという新たな取り組みのスタート台に立っています。
 私たちは、この25年間で得た貴重な教訓と成果を深く心に刻み、これも子供たちに引き継がせつつ、世界に一つしかない豊かな豊島を築いていく決意を、ここに高らかに宣言します。

2000(平成12)年6月3日 豊かな島を実現させる豊島住民大会

前の記事の時に加え、豊かさを問うⅢ調停成立10周年誌「ゆたかの島 Teshima」を参考にさせていただきました。全原発停止後2日目の深夜に記す。

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