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「放射脳」と罵られようとも、心を痛めている側につきたい(あるいは安全と安心についての考察)

技術屋さんなら、なんでもかんでも100%を達成することは難しい、ものによっては不可能だということを良く知っているハズだ。また、例えば安全度が70%ぐらいのものを95%に上げることはコスト的に成り立つが、95%のものを99.9%にすることは、途方も無いコストがかかるし、技術的困難さも増す・・・ひょっとしたら不可能だ。
しかし人は「100%の安心」を求める・・・残りの5%は、ソフト的対応でカバーせざるを得ない中で、例えば事故が起こった時にもなんらかの「あきらめ」がつくものなのだ。

災害廃棄物広域処分問題について、例えば北九州市の言い分なんかを紹介した。この中身を見て、「やっぱり大丈夫だ、広域処理は必要だ。」と科学的に「納得」する人もいれば、科学的に「やっぱおかしいんじゃないか?」と考える人もいるわけだ。(放射性廃棄物を拡散させることの是非は、このさい置いておくが、科学的以上に倫理的にも、法律的にも問題である)
ネットの世界でも、前者は後者を「放射脳」と呼び、後者は前者を「安全厨」などと言って「ののしりあい」の様相をしめしているところもある。前者は今の科学的知見その多総合的な判断で「安全」であると説明しようとする。しかし放射物質の害はまだ完全に科学的知見で明らかになっておらず、特に内部被曝…低線量ではあるが体内の細胞至近距離に長い時間放射線にさらされること…の知見は、まだ分らないことが多い。

だがそれにも増して、これまでの「原子力行政」あるいは原発事故後の政府や専門家の対応・・・すなわちソフトの部分が全く信用できないことが露見した。福島県内から避難した人は多くいるが、昨年の3~5月ぐらいまでの政府・行政の対応、専門家の対応等への「不信」(直接的には水道水や土壌から放射性物質が検出されたことが契機であるが)から、関東方面から西日本に避難してきている人もいる・・・そうした人たちが、自分の周辺でまた放射性廃棄物を燃やされることに「不安」を感じ、「反対」を訴える人たちに対し「ヘイトスピーチだ」の「放射脳」だの罵声をなげかけているブログやmixiの日記も見かける(放射線や東電への「ヘイトスピーチ」的状況を批判しているブロガーのコメント欄にも「放射脳」というヘイトスピーチは野放しで使われている)

個人的に・・・中年の域を過ぎ、結婚して子どもを設ける機会もなく、これまで散々、排気ガスやコンビ二弁当の食品添加物を執ってきた私にとって、科学的に「東北の災害廃棄物」を燃やして出てくる放射性物質のリスクなど、とるに足らないのかも知れない・・・だがその価値判断を、放射性物質からなんとか自分の子ども、家族を守りたいと避難してきた人、「この食品は大丈夫ですか?」と心配しながら買い物を続けているお母さん達に押し付けることは、決してできないし、してはならない。

ソフト的にも大問題のある原発を、再稼動させるわけにはいかない。これは技術者・専門家の「倫理」の問題でもある。だから私はあえて「放射脳」と言われる立場に立とう。

最後に、高橋哲也「犠牲のシステム 福島・沖縄」(集英社新書 2012年1月)から専門家の風上に置けない者の言葉を紹介して終わる。
 私が山下氏の発言で最も問題だと考えるのは、「100ミリシーベルト以下なら安全だ」という主張でもなければ、「ニコニコしている人のところには放射能は来ない、クヨクヨしている人のところに来る」といった言葉でもない。まさに、「私は日本国民の一人として、国の指針に従う義務があります」、これである。「これは日本の国が決めたこと」だから、それに従うのは「国民の義務」だと福島県民に訴えている部分である。
 市民が科学者に期待すること、とりわけ政府や電力会社の発表が信頼性を失っているときに期待することは、行政的・営利的視点からではない、それからは独立した専門的見地から、市民の安全を第一に考えた見解を示してくれることではないだろうか。学者・専門家には、もしも政府や電力会社の発表が専門的見地から見て肯定できない場合には、そのことを指摘し、それとは別の見解を市民に示す必要があるはずだ。
 そうした期待を寄せられ、そうした責任を負うはずの科学者が、とくに福島県の「放射線リスク管理」についてのアドバイザーとして招聘された人物が、「自分は国民として国の決定に従います」と言ってしまったのでは、科学者である意味がなくなってしまう。児玉氏が言ったように、科学者でありながら政治的ないし行政的立場での判断を優先させてしまっているのだ。(p95~96)

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