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なぜ「安保粉砕」なのか(なぜか戦後史総俯瞰③)

 90年代はじめに東欧・ソ連の「社会主義国家群」が崩壊し、「冷戦」は終わった・・・しかし80年代の本質は「冷戦」ではなかったのだ。あくまでアメリカを始めとする「帝国主義国家」が、後進国、発展途上国を「搾取」する・・・それに反抗する勢力は軍事力でつぶす・・・というのが基本であった。フィリピンのマルコス独裁や、韓国の全斗煥独裁は、アメリカの軍事力の後立てがあって成立していた。しかしこれらは「民衆の力」により打倒されている。
 矛盾はイスラエルをでっち上げて「建国」した中東に集中していた。ここは79年、パーレビ独裁が打倒され、反米のホメイニ体制が成立、リビアもまたカダフィーの反米体制が出来上がる。ここで反米イランを牽制するため、80年代に育成されたのが、イラクのフセイン政権であることは承知のとおり・・・フセイン政権にイラン・イラク戦争を行わせることで、アメリカはイランの力を削ごうとした。一方、豊富な石油資源を元に、独裁体制下で民衆の生活を保障してきたイラク・フセイン政権も疲弊し、その矛盾をクウェート侵攻に向けた。「湾岸戦争」の勃発である。ここで米国は日本に「後方支援でいいから、自衛隊を戦場に派遣してくれ」と要求・・・しかし日本としては「専守防衛」のための「日米安保」であり、かつ自衛隊を海外に派兵する根拠法がなかった。
 一方、79年にベトナムが侵攻したカンボジアでは、ポルポト政権が抵抗を続けていたものの、和平交渉が進捗した。ここに国連PKOに自衛隊を派遣することで、日本帝国主義は「海外派兵」できる国への突破口にしようとした。PKO法が成立するのは92年、「軍隊」として様々な制約を受ける条件付きながら、海外派兵を行うことに成功した。一方、「湾岸戦争」では13億ドルもの戦費負担をしながら、「多国籍軍」に加わることができず、日本帝国主義政治内では「日本の国際的影響力が落ちた」との「屈辱」を味わうことになる。
 ソ連が崩壊し、かつ極東ソ連軍には日米安保で想定していた「北海道侵攻」をする意思も能力も無かったことが明らかになった。このような状況の中、「日米安保って何」という疑問が保守の側から出てくるのも不思議ではない。バブル崩壊後の政治的混乱の中で、日米安保を基軸にするのではなく、「国連」によって日帝の安全保障…独自権益確保・・・に動こうじゃないかという勢力が現れる。その代表が小沢一郎である。これは米帝から見れば、日帝の独自突出と受け取れる。
 独自突出は、欧州でも見られた。ユーゴスラビアの「解体」がそうである。東欧民主化の動きの中で、5つの民族で構成されていたユーゴスラビアでは、ドイツと経済関係の深いスロベニア、クロアチアの「独立運動」が高まる。冷戦期には「戦争を避ける」知恵として、欧州ではとりあえず第二次大戦後に決まった国境、国家の形はとりあえず遵守しようという暗黙の約束みたいなものがあったようだ。しかしソ連崩壊の中、バルト3国が独立したように、「共産主義(スターリン主義のそれ)」の重しがなくなった時、民族問題が噴出したわけだ。このとき、積極的に動いたのが「統一ドイツ」である。ドイツ帝国主義は、いち早くスロベニア、クロアチアの「独立」を承認し、ユーゴ解体の火をつけた。(ナチスドイツ時代も、クロアチア人ファシスト組織「ウスタシャ」にクロアチアを独立させ、ユーゴを支配・占領している)
 このような独自突出を、レーニン主義では「帝国主義間争闘戦」と呼ぶ・・・これはレーニンが第一次世界大戦に至る世界情勢を見て明らかにしたもので、帝国主義国家群が市場と投資先を求め、世界中のあらゆる土地を分割するが、帝国主義国家間の発展度が違うため(これを「不均等発展」と呼ぶ)、後発の帝国主義国が、分割後に自分に有利なように「再分割」を求めるようになる・・・これが戦争に発展する・・・というものだ。第一次、第二次世界大戦で直接の戦過を受けなかったアメリカが最終的に「勝利」し、「世界秩序」を保っていたのが「冷戦期」である。ところが「冷戦期」から経済的、あるいはアメリカと同盟を結ぶという制約の中で軍事的に発展したドイツ、日本が突出しようとする・・・これが表立ってきたのが90年代の前半である。
 ユーゴスラビアの解体は、かろうじてNATOという枠組みの中の軍事行動を行うことで、アメリカもなんとかドイツの突出をおさえようとした。日本の「突出」をおさえるには、やはり日米安保体制を強化するしかない・・・しかしソ連が崩壊した今、安保の意義は・・・というところに「救世主」が現れる。朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮の核開発問題である。

 ソ連という後ろ盾、援助国がなくなり、体制危機に陥った北朝鮮は、核開発による「挑発」で他国から援助を受け、体制延命を試みだした。うむ、世界の警察、アメリカはこれをなんとかしなければならない。朝鮮戦争では勝てず、ベトナム戦争では負けたが、湾岸戦争では勝った・・・方法は第二次大戦時における対日戦と同じ・・・相手を徹底的に空爆し、軍事力を破壊した後、米軍が上陸すれば簡単じゃなイカ 
 では、空爆する時、あるいは米軍が上陸する時、大量の物資を「日本」という前進基地に集積しておく必要がある。日本の空港や港湾を自由に使用し、自衛隊や行政、民間も動員して、武器弾薬、戦略物資を事前集積し、運搬、輸送してもらわなければならない・・・その体制が日本側に出来ているのか
 ところがどっこい、過去の安保闘争の影響もあり、米軍基地は沖縄に集約しちゃった。成田も羽田も関空も、横浜港、神戸港にも米軍が自由に使える「協定」なぞなく、日本側もまたそんな準備はできていないことが明らかになった。94年の「北朝鮮危機」・・・すなわち「湾岸戦争」並みに相手の政治意思を削ぎ、あわよくば体制転覆という「朝鮮侵略戦争」発動は、「準備不測」のため回避されたのである。 

 これでは米国側からも「日米安保って、何」という疑問が出てきた・・・よし「日米安保体制」をもう一度再定義しようじゃないか・・・ということが政治課題となってゆく。

 ようやく90年代の半ばまで行った・・・まだまだ続くぞ、コレ

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コメント

① ② ③と拝読しております。
運動シーン、サヨちゃんサイドではない自家製の戦後通史を、わたしも書こうかしらん。

最近は、猫じゃらしにじゃれるように揚げ足取りコメントを方々につけるようなことは卒業しました。

投稿: kuroneko | 2012年10月28日 (日) 10時39分

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