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なぜ「安保粉砕」なのか??(なぜか戦後歴史総俯瞰②)

 80年代半ばの私は、どちらかというと本多勝一(「戦場の村」をはじめ、ベトナム戦争や、「中国の旅」をはじめとする、日本の戦争責任とかの一連の作品で有名)の影響を受けた頭だけの「民族独立的左翼」・・・ソ連もアメリカもあかん、アメリカのいいなりはあかん!という程度の考えであり(よって「安保粉砕!」)、また70年代の反公害闘争、反開発闘争(この中には、三里塚闘争も含まれる)、そしてスリーマイル島原発事故から「原発ってやばくねぇ?」という「緑な感じ」も持っていた・・・一方、左翼全体では「反中曽根軍拡強内閣」「国鉄分割、民営化反対」が主な課題であり、新左翼ではそれに「韓国民主化闘争と連帯」「指紋押捺拒否闘連帯」という、「日韓闘争」と、一部で「三里塚闘争」が主な課題であった。
 もっともピンキリの中にはこの時代ですら「ソ連こそ平和勢力」と主張し、アメリカのSDI構想(スターウオーズ構想・・・まあ現在のミサイル防衛構想を先取りしたものだが、当時の技術ではほとんど荒唐無稽に近いものだった)反対!を掲げていたのもいた。関西では「関西新空港反対」闘争が「党派の垣根」はあったものの、それなりに盛り上がる。「三里塚」も「関空」も、「軍事空港建設反対!」という位置づけが成されていた。三里塚の場合は、反対同盟が羽田空港を見学に行った時、沢山の米軍機がベトナムに飛び立っているのを見て「これは軍事空港だ!」と気づいたのだそうな。関空は故田中角栄が「軍事空港にすれば、すぐ完成する」と言ったことがそもそもの始まりだ。いずれにせよ、戦後の航空業界がアメリカによって送れてスタートしたこと、国土の制約により、米、英、仏、独(西独)の諸「帝国主義国家」(これも「左翼用語」だから、あまり気にしないように)に遅れをとった日本の空港政策を大きく進めること・・・具体的には4000m級滑走路を持つこと・・・が、「軍事大国」になるためには必要であったのだ。

 同時に「昭和」も60年、そろそろ天皇が死にそうだ・・・高度に発達した資本主義の中で「豊か」になり、多様な生き方、考え方が許容される中、国家間の「戦争」にはどうしても「天皇」を中心としてまとまらないといけない(というか、近代国家を作る上で、そうゆうやり方をしたから、それ以外のものを持ってくるわけにはいかない)・・・だから「Xデー(天皇が死ぬ日)」には、恐ろしい天皇翼賛攻撃が始まるだろうと身構えてもいた。
 だからこのころの左翼は、「日米の軍拡反対!」という意味で「安保粉砕!」は一応称えてはいたものの、どちらかというと「中曽根打倒」「日本帝国主義打倒」という方向が強かった・・・安保で踏みつけられている沖縄のことは、ほとんど語られていなかったように思う。

 が、一度「沖縄」に目を向けられる時が来た・・・国民体育大会が沖縄で一巡する88年「海邦国体」である。天皇来県・・・「国体護持」のため、「沖縄戦」で時間をかせぎ、多くの犠牲者が出た、戦後も「天皇メッセージ」によって、アメリカ軍統治下におかれ、基地をおしつけられてきた・・・沖縄では当時「日の丸」や「君が代」に対する拒否反応も強く「戦争責任もとらんと、何しに来るんだ。」という声も多かった(もちろん、沖縄の「戦後」を終わらせるために、天皇の来県・・・謝罪するかしないかはともかく・・・を認める人々それなりにいた)ここに「天皇訪沖決戦」⇒「天皇決戦」へと新左翼は向かってゆく。一方、旧来の左翼、新左翼ともども、「国鉄分割民営化」=「労働者10万人の、国による不当な首切り」に「負け」を帰し、自民党は衆議院で3百数十議席を誇っていた。(「国鉄闘争」・・・「国労」「動労千葉」に所属していたというだけで首を切られた当該の闘いは、それでも25年続いたが・・・)
 沖縄では「日の丸揚げろ」「君が代歌え、演奏しろ」という圧力が強まる中、昭和天皇はすい臓ガンによる「下血」でダウン、現天皇の皇太子が沖縄に行くことになる。ついに昭和天皇あ生きて沖縄の地を踏むことはなかった・・・が「国体」はやらねばならない。読谷村ではソフトボールが行われることになり、当初は「日の丸は揚げなくてよい」と言っていた日本ソフトボール協会が、試合前日「日の丸を揚げないと、試合会場を変更する」と恫喝した。翌日、バックグラウンドのポールに揚がった「日の丸」を、知花昌一さんがよじ登って降ろし、火をつけて燃やすという闘争を闘った。右も左も、日本中が騒然となった瞬間である。知花さんの経営するスーパーには右翼が押しかけ、左翼がそれを防衛するといったことが続いた。
 天皇は下血を繰り返しながら(輸血という「人民の血」を吸いながら)行き続けていたが、この長さがかえって「天皇」について、特に戦争責任についてじっくり考えさせる時間を人々に与えてしまった。89年1月、天皇が死に、大葬の礼、即位の義、とかが続く中、人々はテレビでなく、レンタルビデオ屋に向かった。

 国外ではソ連がアフガニスタンでアメリカと同じ徹を踏み、撤退を余儀なくされる一方、軍拡競争に絶えられず、ゴルバチョフの政治改革「ペレストロイカ」が始まった。チェルノブイリ原発事故も起きた。レイキャビクの会談で「冷戦終結」・・・中国は「改革開放」路線のもと日米他「帝国主義国」の資本を受け入れ、人民の生活は少しずつ向上するとともに、「民主化」を求める運動が広がるも、「天安門事件」で「反革命暴乱」とされる・・・朝鮮半島では「軍事独裁政権」に対する闘いが進み、大韓航空機爆破事件などの南北緊張もあったが、徐々に民主化を勝ち取ってゆく。日本はなぜかバブルに浮かれていたが、ベルリンの壁が壊れ、東欧諸国が次々と民主化、ルーマニアのチャウセスクが逃亡中に倒されたのであった・・・。

あーやっと80年代が終わった・・・書ききれてないじゃなイカ!ということは、コメント欄にどうぞ(^^) 

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かくめいのための理論」カテゴリの記事

コメント

ほぼ同じ時代を生きているだけに、そうだと思います。つっこみたところもありますが、枝葉の話になってしまうので、「そう!そう!」と合いの手を入れたいです。

もうちょっと年上の人のつっこみを少しだけ見たい。

投稿: なのなの勢力 | 2012年10月26日 (金) 05時29分

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