なぜ「安保粉砕」なのか(なぜか戦後史総俯瞰④)
さて冷戦終結後「日米安保」って何という疑問が、日米、右左と出てくる中、沖縄で大変なことが起こる。95年、3名の海兵隊員による少女暴行事件である。太田「革新」県政の下、8万人もの人が集まって「県民大会」を開き、米軍基地の撤去を要求。太田知事は15年で基地を無くす「アクションプラン」なる工程表をぶち上げて、日本政府やアメリカ政府と渡り合った。一方、「日の丸焼き捨て」の知花昌一さんが「象の檻」と呼ばれる楚辺通信所の自分の土地を取り戻すべく、軍用地賃貸契約を拒否…知花さんの土地だけ「軍用地」ではなくなるという画期的なことも起こった。ここに普天間撤去問題もからんで、「第三次沖縄闘争」(第一次は「復帰闘争」、第二次は「反天皇訪沖闘争」とされる)が、今日にわたるまで続いてゆく。
一方、日米両「帝国主義」政府はこのような「危機」の中、「安保再定義」を目論む・・・先の「朝鮮戦争」危機では、日本の港湾、空港等のインフラを自由に米軍が使用するための法律がなかった。そこで「日米ガイドラインの改定」で乗り切ろうとする。
そもそも「ガイドライン」とは「日米防衛協力のための指針」として78年に制定され、対ソ抑止力として積極的に日本の海空自衛隊を活用しようというものであった。日米安全保障条約は、たった10条の条文しか無いが、その第5条「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定に従って共通の危機に対処するように行動することを宣言する。(以下略)」を軍事的に担保するものであるとともに、極東ソ連軍を封じ込め、かつ「シーレーン防衛」(80年代中曽根時代に書くのを忘れたが、米国のベトナム失陥→共産化は、東南アジアでの民族自決闘争の爆発を促し、特にフィリピンでは共産党系「新人民軍(NPA)」が活躍する。そうした中、シーレーン、特に中東からの原油輸送ルートを自力で守らなければならないという発想から、海上自衛隊がマラッカ海峡付近まで出撃できる能力を持とうとしたものである)を行うための海空自衛隊の軍拡、日米一体化を図るものであった。自衛隊は「専守防衛」あるいは「アメリカ軍が本格的に加勢してくるまで持ちこたえる」だけの軍隊から、アメリカの世界戦略に組み込まれた形にしたものである。
ところがここにはまだ「歯止め」があった・・・「極東条項」というのがそれである。安保条約には「極東」という言葉が2回ほど出てくるが、第四条には「締結国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締結国の要請により協議する。」が、極東条項であろう。(あと第六条に出てくる)・・・では「極東」とは、どっからどこまでか
北は「ソ連」が押さえているところまで、東はグアムまでかな、西はもちろん、朝鮮半島と中国、そして南は「台湾」付近までと漠然と定義されていたようだ。だからカンボジアPKO派兵は「極東」の範囲を超えるし、「シーレーン防衛」もそう・・・まして「湾岸戦争」のように中東まで「後方支援」とはいえ自衛隊を派兵するなんてことは、とうてい「日米安保」の範囲では無理だったのだ。(後に海上自衛隊掃海舞台が、ペルシャ湾の掃海作戦に参加するが…PKOのごとく、「国際貢献論」が全面に出されていた)
この「歯止め」を外すべく、新ガイドラインの改定作業が始まる。基本的には「周辺事態」という概念を持ち出して、日本の「安全」にかかわる事象が起こった時に、米軍が日本の港湾、空港等のインフラはおろか、日赤の看護師や運送会社、航空、海運などあらゆるものを「動員」できるようにするためのものだった。表向きは94年朝鮮半島危機の反省から「対北朝鮮」ではあったが、周辺事態の「周辺」とは、どこまでが「周辺」なんだという議論の中、中東や南アジアの「不安定」も「日本の安全保障(という名の帝国主義的権益・・・もちろんアメリカのそれも含む」)にかかわるのだぁ~。ということで「極東条項」は完全にふっとんでしまった。
「朝鮮半島」での戦争の危機は、確かにまだあった。アメリカは韓国軍と協力して北朝鮮の体制転覆を目指す「作戦5027」を策定・・・これを実施するためには、事前の日本全国の基地化が必要だ。他方、北朝鮮では金正日体制が自然災害、食糧不足による危機に陥るとともに、戦争の口実とされる核開発や弾道ロケット開発を続けていた。
78年の「ガイドライン」の時もそうだが、中身は一切、国会の中では議論されず、ただただアメリカの意向に沿った「法整備」が進められようとしていた。これらは「ガイドライン関連法」「周辺事態法」と呼ばれ、後の「有事法制」へのさきがけとなるものである。また日本では「ガイドライン」という言葉が使われていたが、アメリカではあからさまに「Wor Manual」と呼んでいたシロモノである。
ここで沈滞していた日本の反戦闘争は甦り始める・・・沖縄・辺野古への基地建設反対闘争と、ガイドライン関連法反対闘争である。後者は特に、「労働組合」、特に「周辺事態」において動員される医師、看護師、船員、運輸関係の労組が「陸海空20労組」陣形を組み、ナショナルセンターの違いを乗り越えて反対運動に積極的に関わってゆく。また市民運動側でも、「党派系列」の垣根を乗り越えて(もうそんなことは言ってられなくなった)「ガイドライン反対」を訴えだす。「止めよう戦争への道 百万人署名運動」が広範な人士の呼びかけではじまったのも、この時代である。
しかし「百万人署名運動」も80万筆程の署名を集めたが、基本的に周辺事態法は国会を通過した。また沖縄では太田革新県政が政府の「兵糧攻め」に合い、また市町村長→知事に代わって国が強権的に「反戦地主」の土地を賃貸契約できる「駐留軍用地特別措置法」の「改悪」も行われた。97年から98年のことである。これで日本はアメリカの戦争に対して堂々と「後方支援」を行うことができるようになった。ここらへんから「日米安保」と言う言葉そのものが使われなくなり「日米同盟」という言葉に置き換わってゆく。
2000年にはアーミテージ米国防副長官が「アーミテージレポート」の中で、日本に有事法制の制定を求める文言を盛り込んだ・・・小泉内閣の登場、2001年9・11まで、もうすぐだぁ~
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