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「努力」は「闘争」

なぜか毎月、某方面から今、憲法を考える会 通信(ピスカートル)ってのが送られてくる。発行人は、小田原紀雄氏・・・PISCATORとは、「漁をする人」という意味らしい・・・。

で、その21号、リンクからも読めるが、「経産省前テントをめぐる裁判闘争 あるいは生存権と抵抗権について」という記事がある。3月にテントに行った時も話がでた「抵抗権」について、こんなことが書かれてあった。

▼現行憲法にみる抵抗権
 原発の非人間的・反倫理的実態については別に譲るとして、ここでは「テントの正当性」について、憲法との関係で何が言えるのか若干考えたい。前文、16条請願権、21条表現の自由いろいろ言えるだろうが、特に注目したいのが12条「自由・権利の保持の責任」、すなわち「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という箇所である。
  ここは、現憲法全体のなかでもかなり特異な条項である。なぜなら、そもそも憲法は、よく言われるように、国家が人民を縛る法律ではなく、人民が国家を縛る法律としてある(現憲法では主語が「人民」ではなく「国民」となっているが)。このことを典型的に示しているのが、99条「憲法尊重擁護の義務」で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」とある。重要なのは、ここで主語が、天皇から公務員までの国家の構成員で  国民は含まれていないことだ(一言付言すれば、最近の自民党の改憲草案では、このように国家と人民を対立的にとらえることそのものを否定、つまり憲法そのものを否定する内容をもっており、これは9条改憲以上に重大な問題である。)
 ところがこの12条は、「自由・権利の保持の責任」を果たすための
「不断の努力」を国民に義務付けているのである。現憲法では、「努力」という用語はもう一ヶ所出てくる。97条「基本的人権の本質」で、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過古幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とある。

と、ここまで引用した。その後、論は憲法の訳語問題に進む・・・すなわちGHQスタッフが作成した新憲法草案を下敷きに、日本政府案に翻訳・書き換えるとき、日本の官僚が幾つかの用語を意図的に誤訳し、改ざんしたということだ。例えば、今「国民」となっているところは、GHQ草案では「people = 人民」と訳すべきところであったことは有名である。 

では、12条、97条ででてきた「努力」はどうなっていたか・・・実は通常「努力」を意味する「effort」「endeavor」ではなく、「struggle」が使われていた。これは、「戦い、闘争」を意味する・・・なるほど、nifty翻訳でもそうなった。手元の辞書でも、「struggle」には「努力」という一もあったが、競争という意味もある・・・ちなみに「生存競争」は「struggle for existence」というイデェオム(熟語)で、高校の時覚えたなぁ~と思い出した。もういちど、ピスカートルの原稿に戻ると

事実、GHQ案が出た直後の当時の外務省訳では「此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ補償セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ」となっていた。「努力」ではなく、もともとは「闘争」だったのだ。こうして、12条の謳う「不断の努力」は、憲法教科書的には、抵抗権概念の復活としてとらえられているのである。

しっかり原稿憲法の12条、97条に「抵抗権」が謳われているのである。
すなわち、「国家」が人民、民衆の基本的人権や、生きる権利を侵そうとするならば、人民、民衆は闘争してこれを守りぬかなければ、ダメですよ・・・と書いているわけだ。ある意味、この「義務」は、「勤労・納税・教育」の3大義務(「勤労」「教育」は義務であると同時に、権利でもある)と同様に、いやそれ以上に重要である。

いわゆる「護憲勢力」の中から「憲法を(守るのではなく)生かそう」というスローガンが上げられている。これは大変な、不断の、立派な「闘争」であることを、とりあえず確認しておこう
 

 

 

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