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2013年7月

不当判決弾劾!市東さんの農地を守ろう!

 本日、千葉地裁において市東孝雄さんの農地を明け渡せという、不当判決が出された。四国新聞WEBより
 千葉地裁、耕作地明け渡し命じる/成田空港訴訟で

 成田国際空港会社(NAA)が、用地内にある空港反対派の農業市東孝雄さん(63)が耕作している土地の明け渡しなどを求めた訴訟の判決で、千葉地裁(多見谷寿郎裁判長)は29日、NAAは市東さんとの間の賃貸借契約を同意なく解約できるとの判断を示し、実在しない鶏舎を除く全ての建物の撤去と土地の明け渡しを命じた。
 判決確定前の強制執行が可能な仮執行宣言は「被告は農業で生計を立てている」として付けなかった。市東さんは控訴する方針。
 NAAによると、国が1991年に反対派との対話路線に転じて以降、用地内の土地明け渡しをめぐる判決としては、最大規模。

 まず、農地法によって、優良農地であり現在も耕作が続けられている市東さんの農地を取り上げることはできない。農地法はあくまでも農業、農地を守るためのものだからだ。ここがひっくり返ると、現在の日本農政の根幹が崩れる。
 賃貸借契約を同意なく解約できるというが、そもそも地主から土地を購入したことを全く知らせず(しかも地主は市東さんから地代を取り続けていた)、こっそり購入すること自体、不当である、何が「話し合い路線」だsign03ふざけるな。

 おまけに裁判の過程は、市東さんが耕したこともない地番を「市東さんが耕作している」などと誤認し、都合の悪い証言はビデオリンク方式という、あまりにもデタラメな裁判だ。弁護団の一人がいみじくも言った「裁判の過程がデタラメだと、判決もデタラメになる。」とは、まさにこのことである。

 幸い、強制執行を可能にする仮処分まではつけられなかった。勝負はこれから高裁に移るとともに、農地死守・実力闘争をかかげ、大衆の力でNAAや裁判所を包囲して、市東さんの農地を守りぬこうvirgo

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千葉モノレール完乗闘争(後編)

 さて、帰りのモノレール1000系がやってきた。
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ゴゴォ~っと、駅に入る

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1000系の車内は、普通のロングシートです。解放感も0系に比べれば、少ない・・・

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途中、都賀駅で降りて、走行写真を撮ることに・・・
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まっ、こんな感じかなぁ~

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千葉モノレールは、なぜかライトノベル原作アニメ俺の妹がこんなに可愛いわけがないとコラボしておりまして(舞台が千葉で、モノレールも出てくるそうな)、色々とグッズ販売やキャンペーンをやっている・・・アニメキャラの「声」でアナウンスするラッピング車両もあるそうな・・・
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とりあえず、都賀駅にて1000系

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動物公園駅に、車両基地があるようだ・・・

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とにかく、建物の2階建てぐらいのところを、走行

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JR千葉駅の線路を乗り越えて・・・

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モノレールの千葉駅に到着・・・ここで県庁前方面に乗り換える。けっこうでかい駅施設である。

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栄町を過ぎると、千葉中央公園が見えた・・・集会の準備中である。とりあえず県庁前へ・・・

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終点の駅の「モノレール」は、こんな感じ・・・すぐに「レール」は無くなる。

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それでは、戻って、7・14三里塚全国集会の会場へGOsign03

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千葉モノレール完乗闘争(前編)

7・14に千葉に行ったついでに、千葉モノレール完乗闘争に決起でゲソ。夜行バスを東京駅日本橋口で降りて、そのまま南に延々と歩く・・・地下に下りて京葉線にのり、千葉みなとまで・・・
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1日乗車券を買って、ホームへ・・・路線図はこんな感じ。

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懸垂式モノレールのホームは、あるいて向こうに行けそう。停車中の1000系県庁前行き。
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とりあえず、2号線の千城台行きを待つ・・・ガラス張りの新車、アーバンフライヤー0系がやって来たじゃなイカhappy01

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う~ん、なかなか渋いブラックフェイスだが・・・ちょっとホームが暗い・・・

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中はオレンジのアクセントが、鮮やか・・・ドアや前面もガラス張りで、展望はよさそう。

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かぶりつきコーナーsign02は、こんな感じ・・・

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ドアもガラス張り。

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千葉駅でやはり、大量の乗車があった。2ドアで、ドア間の椅子が10名掛けという車両では、ドアのところでやはり人が滞留してしまうようだ。

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懸垂式なので、2階建ての家とほぼ同じくらいの、意外と低い高さの所も走りますvirgo
あと、千葉を出てしばらくすると、やっぱり緑が多い・・・関東だなぁ~という感じ。

JR総武本線との乗り換え駅、都賀にて線路
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といあえず、終点の千城台で降りる・・・駅を出て、車両撮影の前に・・・

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これが、懸垂式モノレールのポイントだsign01

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がちゃんと切り替え・・・跨座式よりも簡単そうな機構じゃなイカsign02

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今乗ってきた0系を撮影する。

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PASMOでパーク&ライドをやってるぞぉ~car

つづく

 


 

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参議院選挙の簡単なそーかつ(というか感想)

普通、選挙についてはあんまり書かない。翌日になったら結果わかるんだから、選挙速報も見ない。
 今回、私にとって社民党「山シロ博治」氏の落選は大きな損失である。本土の力も加えて、沖縄から基地建設反対、反原発候補を当選させるということは非常に重要な課題であったと言える。「沖縄と福島は、つながっている」「犠牲の構造」を明らかにして、誰かが犠牲にならなければ、「一部の豊かさ」を享受できない社会・・・をぶっ壊すのは、沖縄選出社民党の山シロさんをおいて他に無いと考えていた(それだったら、選挙前にブログに書けよsign03)からだ。

社民党の凋落そのものは、もうどうしようもないとしても、やはり「本土」の意識はこんなモンかと落胆した次第でもある。山シロ当選でがんばっていたの、はっきりいって本土では沖縄問題をまじめにやっている人たちだけだったもんね。(「沖縄意見広告運動」から電話かかってきたぞ)

ここで、県知事、仲井真氏の「正体」も露になってきたようだ。琉球新報WEB版仲井真知事「残念な結果」埋立て可否言及せず
 参院選沖縄選挙区で安里政晃氏が落選したことについて、安里氏の選対本部長を務めた仲井真弘多知事は21日夜、記者団に対し、「安倍晋三首相をはじめ、たくさんの方が応援に来て、尻上がりに良くなっていたが、結果は残念だ。まだにわかに信じられない」と言葉少なに述べた。
 米軍普天間飛行場の移設先をめぐる県連と党本部のねじれが選挙結果に影響を与えたかについては「どうでしょうか」と、言及を避けた。辺野古移設に向けた埋め立て申請の可否判断への影響は「告示縦覧をし、いろいろな意見が出た。今、それを整理しているところだ」と述べるにとどめた。知事は安里氏が落選の弁を述べた直後、正式な会見には応じず会場を後にした。

 多分、安里氏が当選したら、切りのいいところで「辺野古埋立て容認」に転向するチャンスだと思っていたのではないか?残念ながら、沖縄では基地建設反対、社大党の糸数けいこ氏が当選している。ザマーミロvirgo糸数さん達とともに、基地建設反対、辺野古基地建設阻止!普天間撤去をなんとしても勝ち取るぞsign01

 安倍自公政権の「圧勝」は予想の通り・・・今のところ大きな「失政」をしたわけではなく「民主党」時代の失政そのものをダラダラと続けている(だから「失政」が分らない)だけだからだ。「アベノミクス」の効果も今だ不明だが、「株価」がべらぼうに落ちたりしない限り、「とりあえずの信任」は下されるであろう。ただ、ワタミの社長が当選したことで「自民党『改憲』だけでなく、日本をブラック企業にする」という反撃の糸口が、より分りやすくなったことは確かだ。戦争と基本的人権の抑圧、新自由主義からブラック日本への道を、阻止しようsign01

 あと、都議選時からの日本共産党の躍進には、注目しよう。民主党支持だった一部の票が「流れてきた」ようなのだが、当選8名、非改選で6名から11名の躍進である。ただ、目標とした得票数には及ばなかったそうな。
 「みんな」と「維新」が8名ずつで、共産党と一緒というのは、あなどれない。特に大阪選挙区では維新がダントツで当選している。どちらも「新自由主義改革」政党であり、「維新」なんぞは橋下・石原を筆頭に自公政権を右から支える柱である。「慰安婦問題発言」や「八尾空港オスプレイ移転問題」でもっと叩くべきであった・・・やはりアントニオ猪木の「元気」には勝てなイカsign02

 「生活」「みどり」が0というのは、さもありなんだろう・・・中間的諸勢力は、この激しい時代、吹き飛ばされるのだ(その意味では社民党も似たり寄ったり)その意味で中核派も支持した山本太郎氏が当選するのは、むしろあたり前なのだ。(もっとも山本氏にとって中核派は「迷惑応援団」かもしれないが・・・)

それにしても山本太郎プロモーション映像・・・じつに簡潔で分りやすく、自信と決意に満ちている・・・社民党の福島瑞穂はこの映像を見て「反省」すること・・・もっとも運動界隈で山本太郎氏を悪く言う人、デマゴギスト・「放射脳」扱いする人も少なからず居ることは確か・・・これからの議員活動を厳しくそして暖かく見守ろうではなイカhappy01


さて、敵ははっきり安倍自公政権と決まった。昨日我々には投票用紙が渡されたが、次はどのような「武器」が渡されるのか。また必要なのか・・・よく考えながら、柔軟に動いていこう。さしあたっては原発再稼動阻止、沖縄辺野古基地建設阻止、TPP反対、市東さんの農地取り上げ反対、改憲阻止の闘いである。がむばりましょうvirgo

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「植民地朝鮮の開発と民衆」を読んで

「開発と収奪の植民地朝鮮」と題して、表題の本(許粹烈著 保坂祐ニ訳 明石書店 2008年5月)を10回にわたり長々とレポートしてきた。ざっくりまとめてみると・・・

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①併合後10年間、日帝は特に植民地朝鮮に対して開発行為を行ったわけではなかった・・・これは朝鮮総督府が1919年3・1独立運動まで、朝鮮を「武断統治」を行っていたこともある。日帝による「初等教育」も普及しなかった。
②3・1独立運動後、日帝側もある程度の「武断統治」を止め、朝鮮の「開発」・・・資本投下に乗り出す。20年代は「産米増殖政策」もあり、農業開発が進んだ。朝鮮人の水利施設維持の努力という下地もあり、朝鮮の農業生産は進んだが、肝心の朝鮮人の一人当たりカロリー摂取量は少なくなる。これは米の日本への輸移出が主たる原因である。また、日帝国内でもあったように、自作農が小作民に転落する傾向も見られた。
③30年代に入ると、豊富な「水力発電資源」を使っての工業開発・・・重化学工業が急速に発展する。重化学工業は帝国主義段階経済の「基礎」であるから、これが日帝の「基礎体力」の上にプラスされることになった。同時に、日帝は中国大陸に向かって本格的な「帝国主義戦争」に突入することになる。また、没落した農村(相対的過剰人口)をベースに、朝鮮に本格的プロレタリアート=日帝の墓堀り人が登場することになる。
④農業開発にしろ、工業開発にしろ日帝の”都合”により進められたものであり、朝鮮半島では生産手段の日本人への集中が進んだ。これは日帝資本への莫大な富をもたらした(総督府の財政が赤字でも、資本が儲かりゃエエのである。逆に朝鮮人から「税金」が取れないほど「貧しく」したから、総督府・・・といっても、日常政務の経費程度の話・・・は赤字だったとも言える)
⑤特に重化学工業において顕著に見られるよう、日帝資本の「領土切り取り」的な開発は、朝鮮人の自主的発展には何ももたらさなかった。
⑥教育において「クウォーター制」等のハンデがあり、加えて賃金・昇給への「民族的差別」によって、結局朝鮮人は日帝資本に「搾取」される側に陥った・・・日帝は見事、朝鮮を「植民地経営」したのである。
これを筆者は次のようにまとめている
 ところで驚くべきことは、解放後になると日帝時代の急速な開発の結果生じたものが、まるで蜃気楼のように消えてしまい、韓国はまた世界で最も貧しい農業国の一つとして残されるようになったという点である。どうしてこのような極端な変化が起きたのだろうか。
 私たちはその解答を開発の主体から探すことができる。日帝時代の開発は一言でいえば、「日本人たちの、日本人たちによる、日本人たちのための開発」であった。朝鮮の地の上でなされた開発であったにもかかわらず、朝鮮人たちは脇役にしか過ぎなかったのである。(p295)

 この研究書は「日帝時代の開発」行為を、朝鮮総督府その他の資料、データをもとに定量的な分析をした研究結果であり、必ずしも具体的な「朝鮮植民地支配」の中身が分るものではない。農村分解や工業化の過程で、どれだけ日帝本国と「違った」のかも明らかにされていない。植民地ゆえの弾圧や抑圧の具体的悲惨さは、この本からは分らないのだ。

 もう一つ、経済史にしろ産業史にしろ、あるいはもっと大きく日本の近代史にしろ「日本本国」だけを見ていたのでは分らないということが、私としてはより確信が持てた。本書からは外れるが、近代産業の基本インフラ「鉄道」の整備にしたところで、釜山―京城を結ぶ京釜線が開業したのは、1905年、日露戦争に合わせてである。関釜航路もこの年、山陽鉄道によって開かれている。「戦時輸送」という特殊な面はあったものの、朝鮮半島の「勢力圏化」やその後の植民地経営と大きなかかわりを持ったものとして「学習」されねばならないだろう。
 他方、植民地で行われた産業・経済政策(あるいは準技術的なもの)も含め、一つのことだけを見ていたのでは分らない。これは台湾の例だが、土木学会でも大いに称賛されている技術者、八田與一と烏山頭ダムの業績も、単に「台湾の農民に尽くした」とするだけでなく、日本産業史・・・台湾の農業開発における位置や技術史の中で見るとどうなのか(以外にもっと興味深いものがあるかもしれない)ということを「学習」しなければならないだろう。

ま、この本はその「とかっかり」みたいなものである。普通のサラリーマンがそんな大それた研究をライフワークの如く続けるわけには、イカんのだから…virgo

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開発と収奪の植民地朝鮮(その10)

そろそろ終わりに近づいてきた・・・植民地朝鮮における賃金差別の話・・・筆者が朝鮮総督府ひ就職している高級技術者のみ対象にした賃金関数分析によれば、第1に賃金に最大の影響を与えるものは、民族であった。他のすべての条件が等しいと仮定する場合にも、朝鮮人というただ一つの理由によって朝鮮人高級技術者は、日本人高級技術者の55.5%に当たる賃金しか受け取ることができなかったのである(p268)と結論づけている。
 つぎに同じく朝鮮総督府職員の昇進分析を試みている。まず、当時の朝鮮は(今の韓国や日本と同様に)学歴主体の社会であったとしている。その上で日帝時代のこの学歴による差別の本質は、学歴主義を偽装した民族差別であったという点を強調しなくてはならない(p272)と述べている。この理由は、朝鮮内では初代総督以来、朝鮮人に高等教育を受けさせないという方針が貫徹されることで、高等教育機関の拡充が遅々として進まなかっただけでなく、朝鮮人と日本人が共学する学校の場合は、民族別クウォーター制を導入して、朝鮮人の入学機会を根本的に制限した(p272)からであり、その反対に日本人の場合には、朝鮮内の高等教育機関で優待を受けて数的により多く輩出されただけでなく、当然、日本在住の日本人は日本国内の高等教育機関により手軽に入学することができた。(中略)民族により進学の異なる状況下での学歴による差別は、最近韓国や日本で起きている自国民の間の競争によるものとその性格を異にし、日本人を頂点にする植民地の人的支配を制度的に裏付けるものであったと言える。その結果、日本人がより高い号俸から出発し、朝鮮人がより低い号俸から出発するようになり、昇進速度にも著しい差が出て、朝鮮人と日本人の間の賃金格差を拡大させる要因として作用するようになった。(p272)と結論づけている。また、等しい学歴であっても、民族によって違う賃金基準が適用されたとのことである。
 ページは戻るが、ここでの分析は朝鮮総督府に就職している高級技術者のみを対象にしており、就業段階の民族差別として、1つは朝鮮人高級技術者は、日本人高級技術者たちと比較して、希望する職場に就職するのがはるかに難しかったという点である。もう一つは、朝鮮人高級技術者は、民間企業体に就職する場合は相対的に規模が小さな企業体により多く就職するしかなかったし、そうゆう企業体は一般に給与条件がより悪かった。これら2点を考慮に入れれば、ここでの分析で与えられる差別の程度は、過小評価されたものと解釈してもよいだろう(p269)と述べられていることに注意せよ。

長々と引用を続けてきた本シリーズ・・・ざっくりと次回は「まとめ」に入るよ(^^)

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市東さんの農地を守ろう!7・14全国総決起集会

昨日、千葉中央公園で行われた「市東さんの農地を守ろう!7・14全国総決起集会」に参加してきたぞ~
モノレールの駅を降りてコンビ二でパンとお茶を買い込み(熱中症対策で1ℓもの)、すぐそばの千葉中央公園に向かう。
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準備中・・・

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暑いのでみなさん、とりあえず木陰に居ますsun

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あるみさんのぼり、組み立て・・・今日は畑の中と違うので、のぼりはずぅ~っと自分で持ってなければなりません。
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12時過ぎ、前座のライブがはじまる。東京のバンドの皆さん
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「勝手連」式、のぼり自立作戦・・・草加さんはライブの様子を撮影に・・・

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なぜか、私たちの居る場所に、「法大文化連盟」や「全学連」が「侵略」してきたのでゲソ・・・しょうがないので、横移動

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前座ライブは、クライマックスの「はちようび」さんへ・・・彼等は大阪で活動しているバンドで、「大飯オキュパイ」なんかにも参加した、関西活動界隈では有名なバンド・・・いやぁ~もう上半身、服脱いでますよ、熱いですsign03

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ステージから降りて、ツイスト&シャウトする・・・こんなに盛り上がっていていいのか、スゴイ実力だ。ボーカル、会場内を駆け回っていたぞhappy01

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1時になって、人もようやく公園内に集まりだしたので、集会開始・・・ここに、右翼「維新政党・新風」が、選挙運動に名を借りた「憲法改正」論議で妨害演説を始める・・・成田空港が完全に出来ないから、「基本的人権」に制限がいるんだと・・・一応、こちら側は警察に「取り囲まれている」ので、衝突は起きないが・・・なに挑発してきてんだpout

粛々と、北原鉱治事務局長のあいさつで、集会が開始された。

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いやぁ~人が集まってきましたなぁ~

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動労千葉の、田中委員長

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関実の、山本さん・・・なぜか「青ヘル」系の方々は、今日もメットを持ってきている。

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市東さんの農地取り上げに反対する会から

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カンパアピールのあと、当該の市東孝雄さん・・・自分の半生、親父さんのことから裁判のことまで、並々ならぬ決意をもって静かに語られました。

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反対同盟顧問弁護団から、農地裁判について・・・葉山弁護団長

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いちばん闘っているsign02一ノ瀬弁護士・・・弁護団あいさつはこの後、7名あまりの参加弁護士全てが話をするという力の入れようだ。「証拠としては、こちらが勝つ。しかしデタラメな裁判指揮をしてきた裁判は、判決もまたデタラメなものとなる。」「『農地法』を根拠に、土地収用をかけるのはおかしい・・・これは80年代にもそういった話が農林省から言われていた。」「私たちは、どんな判決が出ようとも、三里塚の実力闘争の思想を武器に、闘ってゆく」とのこと・・・

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青ヘル軍団spade

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それにしても、暑い~

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最期に、萩原進事務局次長からまとめと方針提起・・・「農民が土地を取られるということは、労働者が首になるということに似ているが、少し違う面もある・・・農地は簡単にできあがるものではない。何十年も手間隙をかけて作物が取れる・・・」云々のお話をされた。これは「生産手段」を持って自ら「生産」をしている者の「生産手段」を守ろう!という考え方であり、労働者にとっては「生産手段」を取り戻して、それを守ろう!ということなのだと、私は解釈した。

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で、もって、デモにしゅっぱぁ~つcoldsweats01

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久しぶりに、車道1車線ふさいだデモをするぞ~

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繁華街のほうへ、向かうぞ・・・

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千葉の繁華街で、人々の注目を集めながらのデモだぞぉ~「市東さんの、農地を守れ」コールが続く・・・「成田空港拡張反対!」

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「TPP反対」「再稼動反対」コールも出たぞ~

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「旗旗」脱原発、黄色メットが登場virgo

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ぐるっと回って、千葉地裁前「公正な裁判を、行え~」

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また繁華街を通って・・・

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中央公園に戻り、デモ貫徹sign03皆様、お疲れさまでした。
参加人員は、約900名とのこと・・・裁判判決前の「決戦」にしては少ない・・・緊急署名は1万筆を超えているとのこと。

東京方面に戻る・・・酷い夕立になっていた。某所にて「あるみさんズ」も囲み、反省会
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ではでは・・・virgo

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7・14三里塚集会

7・14三里塚集会
北原さんの演説です。

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四電前抗議行動1周年

昨年の7月半ばの金曜日から、四電前の脱原発・再稼動反対の抗議行動が始まった・・・で、なんやかんやで1年がたった。
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というわけで、食べ物、飲み物を持ってきて、ちょっとした記念パーティーである。
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警察官が1人、やって来たが「騒音の苦情があったから」とのこと・・・ま、様子見にきたんだろう。警察にも見放された「運動」じゃなくて良かったでゲソsign02
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反ファシズム系の新しいプラカード・・・ヘイトスピーチを繰り返すファシスト共が跋扈する日本に、必要とされているんじゃなイカvirgo

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「福島を想う LOVE ハイロ」ケーキ

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書き込み自由な、バナー

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デモの人たちも集まってきた・・・

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巨大スイカ登場club

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切ったら、こんな感じ・・・

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全部食いきれるわけがなので、半分は持ってかえるようだ。

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デモコールとかが一段落したら、炭酸やお茶、ジュースで「乾杯sign03
(アルコールはありません)

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「WE SHALL OVER COME」が、いつの間にか「会津磐梯山はぁ~」と音楽が変わって、自己流「かんしょ踊り」が始まる。

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しばらくは、飲んで食ってで「忙しい」ので、コールはあまり出なかったが、それでも真剣なアピールは出た。「子どもの命も守れないのに、国を守るとはどうゆうことか!」「福島では甲状腺ガンが明らかに増えている」「事故が収束もしていないのに再稼動とは、子どもでも分るおかしな話だ」等々・・・会話の中でも「福島の人の話を月に一度は聞かないと、すぐに『他人事』になってしまう」など・・・

再稼動反対、伊方は廃炉、原発いらない、子どもを守れ、大人も守れ、自然を守れ・・・
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ではでは皆さん、がむばりましょうhappy01

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開発と収奪の植民地朝鮮(その9)

第5章 不平等と差別に入る・・・ここを書ききらないと、終われま10(テン)
朝鮮における一人当たりの米穀消費量・・・日帝時代初めから1936年頃までは減少ないし停滞傾向にあり、1937年から1941年までは0,7石以上に上がるが(日本は1.1石程度)、1942年以降にはまた大幅に落ちて減少している。(p242)
 木村光彦は米穀、大麦及び大豆の消費から得られる朝鮮の一人当たりの1日の摂取カロリーを計算した。その計算結果によれば、カロリー摂取量は1918年が頂点で、その後はるかに減少して1936年に最低点に到達する。その後また少し増加するが、1918年のレベルを超えることはできない。(p243)

「産米増殖」や重化学工業の開発が盛んになっても、朝鮮人の食料事情が停滞もしくは悪化したということが伺えるわけだ。
 木村の研究によれば、朝鮮の経済が高度成長していたまさにその時、朝鮮農民たちの生活は一層貧しくなっている。<表5-5>に見るように、1926年と1933年/34年の間で、零細民、及び貧民の数は41万戸(217万名)から91万戸(586万名)と2倍以上増加した。そして朝鮮人戸数全体にこれら零細・貧民戸数の占める割合は、1926年の13.8%から1934年の35.5%に増加し、同期間の朝鮮人全体の中でこれらの零細・貧民の占める割合は、11.6%から28.2%に急増した。全体朝鮮人の3分の1ほどが零細・貧民であった。(p250)

 朝鮮人非熟練労働者の1ヶ月収支差を見れば、-2.3~5.8円と多様だが、これを再び構成比を考慮して平均すれば、-0.32円になる。すなわち朝鮮人非熟練労働者の実質賃金変動帯の上限線である90銭(/日)がやっと1ヶ月の生活を維持できる金額というわけである。(p256)
 近代工業が発達した裏で、朝鮮人労働者は搾取され、やっと一日一日を暮らしていける有様だった。逆にいうと、朝鮮を「開発」した「日本企業」はその基で蓄積を増やしていくという仕組みである。

さらにここに、経済的不平等と民族差別が襲い掛かってくる。第1章、第2章では農業と工業部門の生産手段が極度に不平等に所有されており、それに生産額も民族別に非常に不平等に配分されているのを見た。さらにこのような所有の不平等、及び生産額配分の民族的不平等は開発が進行すればするほど次第に拡がって行ったという点も指摘してきた。(p258)
 これらの不平等は水産業等にもみられることがこの章では明らかにされている。また、生産過程での不平等は、南満州鉄道株式会社経済調査会が発刊した冊子に、次のように書かれている。
 日本人の殆ど全ては朝鮮人労働者の指導的立場に在り朝鮮人の伍して就労し居らざること。・・・・・・鉱夫の中には内地人は殆どなく―内地人は監督的従業員である―大部分は朝鮮人である。

 日本人労働者の大部分は職工であって平人夫は極めて少数である。そしてこの人夫の中には純然たる人夫も居るが、多くは朝鮮人人夫の監督の任に当る者である。

(日本人は)朝鮮人と比較してかなり高い賃金を支払わなければならない。そして朝鮮人と中国人の間に入って平等な作業に従事させるのは難しい。それは一種の優越感のためだろう。したがって・・・・・・作業の指導的地位に置く程度以上に雇用することはできない。
(p261~262)

 日本人は植民地支配民族というまさにその事実によって、労働過程で朝鮮人労働者を式・監督するという特殊な位置を占めていたのである。1944年の人口調査でも、まさにこのような日本人たちの特殊な地位が如実い現れている。(p262)
 そう、「支配民族」は植民地で「指導・監督」の名の下、高い賃金が得られ(それはしばしば日本内地で働くよりも割りのいいものであった)、朝鮮人に対し「優越感」を持ちながら仕事が出来たのである。
 鉄道局を中心に、朝鮮人の職級と職務、日朝間の比較をしてみる。1925~40年の鉄道局職員(鉄道手以上)の中に朝鮮人を分析すれば、上位職級に当たる局長、技師、理事、参事、副参事などには朝鮮人がほとんどいなかったことが分る。(p265)
 鉄道局には日本人とともに朝鮮人も多数勤務していたが、朝鮮人は技師や副参事以上の上位職級にはほとんど存在せず、技手や書記に朝鮮人の割合が趨勢的に高くなる傾向はあったが、1930年代末までを見てもごく少数に過ぎず、1929年の状態を例に挙げれば、大部分が各部署の責任者の地位には上がっておらず、日本人の指揮・監督を受ける存在であったということが分かる。(p266) 

やれ、日本軍の高級軍人に朝鮮人将校が居て、「創氏改名」もしなかったから朝鮮人に対する差別などなかったというのは、ちゃんちゃらおかしな話なのである。(どこにでも「例外」は存在するというだけなのだ)

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開発と収奪の植民地朝鮮(その8)

朝鮮における技術者・技能者において見てみよう・・・基本的に筆者が読み込んだ文献では、1945年まで、管理技術者・熟練工=日本人労働者、自由労働者・非熟練工=朝鮮人といった構図は変わらなかった。とはいえ、「戦争」によって日本人管理者・熟練工がいなくなると、朝鮮人がそこに進出していったことは事実である。現に鉄道部門においては、「(解放後)朝鮮人従業員が短期間で混乱を克服して鉄道事業をそれなりに運営して行くことができたのは、彼らが2ヶ月余りにわたって渾身の限りをつくして日本人技術者と管理者から鉄道業務を主体的に引き受けたためであった。この程度でも鉄道業務を引き受けることができたのは、経験と技術を蓄積した朝鮮人中堅管理者と技術者が解放の時点である程度形成されていたからであった・・・(p230)」と、鄭在貞の朝鮮総督府鉄道局の朝鮮人労働者に関する研究が引用されている。とはいえ筆者は、解放前に形成された人的遺産が、解放後の韓国経済で大変貴重な大変重要な役割を果たしたという点では明白である。しかし工業化の時点で植民地時代に形成された人的遺産が重要な役割をしたといっても、それがまさに日帝時代の開発の産物だと速断することはできない。この人的資本は開発によって形成された側面もあるが、朝鮮人たちの積極的な自己開発努力によってなされた側面もあるだけでなく、解放前に形成された人的資本の中で、かなり多くのものが解放後には淘汰されたからである。(p230~231)としている。

 なによりも朝鮮人技術者・技能者のうち、大部分が技能者で、技術者は1942年に4000名余り、1943年に6000名余りにすぎず、技術者は主に事務所・商店分野に集中し、鉱工業分野ではその増加幅があまり大きくなかった。核心技術は日本人技術者が掌握していたわけだ。
 また、日帝時代末期の技能者は戦時体制化の切迫した要求によって急速に養成され、高いレベルにはなかった。1946年11月現在、朝鮮南部には約9000名の熟練労働者が存在していたことになっている。これらの熟練労働者の学歴を見れば、小学卒がほとんど7割に迫っており、中学卒以上は3割余りであるので、決して高いとはいえない。一方、この熟練労働者数を1943年の朝鮮人技能者数40万名と比較すれば、大きな格差がある。1943年の場合は、朝鮮全体の数字である一方、1946年は朝鮮南部だけの数字で、解放直後の産業生産が大きく萎縮したという点を勘案しても両者の間のこの大きな格差を説明するのは難しい。結局、1943年の技能者の中には1946年の熟練労働者範疇にも入れないほどの低い技能レベルの労働者が大部分であったと解釈する方が理にかなうだろう。(p234)ということだ。

 さらに戦後、鉱工業における特需がなくなり、多くの鉱山が廃鉱され、鉱工業部門では技術者・技能者が過剰になり、民需生産の部門では技術者が不足した。また、先ほど述べたように、解放後生産が壊滅したことも、日帝時代に形成された鉱工業部門の技術者や技能者が活動することのできる舞台がほとんど消えてしまったと言っても過言ではなかったのである。
 最期に、韓国で本格的に工業化が始まる1960年の時点で見た時、日帝下で形成された技術者・技能工の意義が相対的に大きく減少した一方、アメリカ留学、及び国内で輩出された技術者・技能者が徐々に大きな役割をするようになった。<表4-14>で見られるように、朝鮮戦争以降1960年まで約5000名の留学生が海外に出たが、そのうち9割ほどはアメリカに行き、また1953~1956年に3360人が留学するようになり、工業化が始まる時点で工業化に必要な高級人材を調達するために大きな役割を果たした。(p235~236)
としている。要するに、日帝時代の人的遺産は、ほとんど伝わらなかったのである。
ただし、他の研究成果から、1970年の時点でも、解放前に日本に留学した事がある人々が韓国社会で相変わらず重要な役割を果たしていたことが分る。(p237)とも結んでいる。 

次は第5章 不平等と差別の解説である。 

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7月7日

今日はタナボタ・・・じゃなくて、七夕様の日
盧溝橋で、日中戦争の火蓋が切られた日(とはいうものの、現地で発生した偶発的事故だったらしい。現地での解決を当事者同士は望んだのであるが、日本政府、および世論が『暴走』して、前面戦争…しかも攻撃をどこで納めるか何にも考えぬまま…に至ったようだ)

 そして、日本新左翼に対して華青闘告発があった日である。日本の「新左翼」は、国内の被抑圧民族問題を楚呈しえず、入管体勢に日常的に苦しめられている在日朝鮮、韓国、中国人の自己解放の闘いを自らのものとすることができなかった。そのことに対して「お前ら、それでエエンか?」と、厳しい批判を突きつけられた日である。

 この問いに対して、まともに「自己批判」したのは革共同全国委員会・・・中核派だけであったと聞く。彼らは(その他の党派もあるていど)その後、「入管闘争」を自らの闘争の中に位置づけるため、奮闘する。魯迅の造語「血債」という言葉をもって・・・

 ただし、70年代末~80年代半ば、「指紋押捺拒否闘争」や「日韓連帯」を口にし、真面目に闘っていたのは、白ではなく赤や黒だったと思う。青春の一時期、彼らのそばでウロウロしていたから、そのへんはそれなりに知っている。
 白はむしろ「三里塚(後には国鉄)」を闘うことが、日帝打倒に直結し、「血債」を返すことにつながるという路線を表にだしていた。東京方面は分らんが、少なくとも関西で在日の闘いに実践的に「連帯」していたのは、白ではなく、赤や黒の人たちだった。

 ただ、「どんな勢力もいる」京都大学近辺では違っていたのかも知れない・・・十数年後、毎年5月には京大時計台行動で「反入管」の集会が行われていた・・・このブログでも何回かレビューしたヤツだ。
 
 さらに年月は立ち、革共同中央は「労働運動路線」の名の下、被抑圧民族を初めとする批抑圧人民の闘いを、「プロレタリアートの闘い」に従属させようとする・・・これが「7月テーゼ」である。これはマルクスが晩年、アイルランド問題への取り組みがイギリスプロレタリアートにとって必要だという地平、レーニンの民族問題に対する解決方法(必ずしもよく実践されたというわけではなかったが)の地平を、見事に初期マルクス・・・共産党宣言時代まで「後ずさり」するものであった。もちろん、帝国主義の様々な矛盾や政策によって「分断」されている批抑圧者を切り捨て、それにあくまでもかかわろうとする者に対し「血債主義者」とレッテル貼りをして、つぶしていくとんでもない「テーゼ」であった。

 なんやかんやで、革共同は関西を中心に、「革共同再建協議会」が分裂する。革共同中央「労働運動路線」に純化するとともに、様々な市民運動、住民運動に「介入」し、分裂策動を図る・・・天上で魯迅が泣いている・・・

 ただ「労働運動路線」そのものは、副議長の死と運動のゆきづまり、そして何より東日本大震災と原発事故・反原発運動の盛り上がりによって、「ゆり戻し」を余儀なくされる。ただし、党としての入管問題への取り組みは後景化したままであり、現代韓国労働運動との「連帯」がそれに置き換わっている。

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開発と収奪の植民地朝鮮(その7)

第4章 近代教育と技術の発展 に移る
ウヨさんがよく言うところの「日本がハングルを普及させた」(教育を普及させた)というのが、いかに単純ないいまわしであるか・・・事実はもっと複雑なのであった。
朝鮮の近代教育は、甲午改革(1894年)以降から始まった。師範学校、中学校、外国語学校、医学校、農商工学校、小学校などの官公立学校が設立された。さらに1905年頃の国家的危機に直面して現れた愛国啓蒙運動により、近代教育運動は民族教育の脈絡でなされるとともに、学校建設・運営運動、民衆啓蒙運動が活発に展開され、また各地に正規私学をはじめ書堂(日本の寺子屋に相当する)、各種講習所、夜学会、労働学校、労働夜学校が数多く建てられたのである。日帝併合直前には、朝鮮人の教育への需要が相当あり、また近代教育への見方も変わるようになった。朝鮮人たちの伝統的な「士農工商」(注;儒教的な職業観であり、士大夫および農民をよしとし、生産を行わない商人を低いものとして考えるもの)という職業観も、かなり弛緩した。併合直前の1910年3月には、2146ヶ所の普通学校に10万人を上回る朝鮮人生徒が在籍するようになる。また、法学校の競争率は8.5倍、漢城師範学校のそれは11.6倍と、朝鮮人の教育に対する需要が高かったことをうががわせるものである。(p215~6)もちろん、これらの数は日帝からの解放当時に比べればとても少ないものではあるが、少なくとも朝鮮(大韓帝国)で教育・実学を普及させようという動きはあったのである。 

 ここで、併合以降の調整人教育の趨勢を見てみる。p219にもグラフがあるが、朝鮮の国・公・私立初等教育機関の生徒数の推移と、書堂に在籍している生徒数の推移を見てみる。
 この図によると、初等教育は3・1運動が起きる1919年を境に2つの時期に分けられる。3・1運動以前は、普通学校在生徒数より書堂在生徒数が多く、書堂在生徒数が増加している。普通学校教育の供給が円滑ではなかったことにも理由があるはずだが、それよりは日帝の植民地教育に対する拒否感と高い教育熱が書堂在生徒を増大させたと考えられる。
 3・1運動以降は普通学校在生徒数が急速に増大する一方、書堂在生徒数は徐々に減少する。普通学校在生徒数は、1910年2万人程度から1942年には170万人程度に増加した。解放の頃になると、小学校の朝鮮人就学率は朝鮮南部の場合、45.2%に達するようになり、
1946年から義務教育を実施する計画が立てられたりした。その一方で、併合以来、朝鮮人教育の主軸をなしてきた書堂と各種学校の生徒数は、日帝時代初期には増加したが、1920年初盤以降、現象趨勢に変わる。その結果、1924年から普通学校の生徒数が書堂及び各種学校の生徒数を上回り始めるようになる。(p219)ちなみに、1924年には書堂と普通学校の生徒数を合わせると、60万人ぐらいである。
 それにしても、朝鮮に解放まで義務教育がなかったこと、朝鮮南部で(北部のデータを著者が示さなかった理由は不明)で初等教育を受けている者が5割に満たないことを考えると、日帝・朝鮮総督府が朝鮮人の教育に本気になって取り組んだのかどうかは疑わしいものだ。それで著者は、少なくとも1933年に至るまでの普通教育の拡大は、朝鮮総督府の意図によってなされたというよりは、朝鮮人たちの近代教育に対するより積極的な要求がその背景にあったことが分る、一方、1933年以降の普通学校生徒数の増加は、この時期に本格化した鉱工業の発展と(準)戦時体制による皇国臣民の育成という日帝の教育方針の変更が最も重要な原因であった。(p219~220)としている。

 それでは高等教育についてみてみよう。1920年代の初等教育を受けたものが増加するにつれ、遅れて中学生、専門学校生、実業学校生、大学予科及び本科の学生、生徒数も増えている。また、朝鮮人留学生も3・1運動以降急増しはじめ、1930年代半ば以降にその増加速度は速くなる。これらは植民地支配下にあったにもかかわらず、当時の朝鮮人たちの高い教育熱を反映すると解釈できるだろう。(p222)
 技術者に関して、1938年頃に調査された「朝鮮技術家名簿」を整理すると、当時の朝鮮で活躍していた朝鮮人技術者の約57%は朝鮮国内で勉強した人たちであり、43%は外国で勉強した人たちであった。ただ当時はまだ朝鮮内で理工系統の大学卒業生が輩出されていなかったので、朝鮮内で排出された技術者は全員専門学校出身者であった。(中略)この点でも朝鮮人技術者は日帝の支配の産物というより、朝鮮人たちの能動的対応の帰結と考えることができる。(p222~3)

 しかし日本人と朝鮮人との民族別学歴構造を検討すると、とんでもない差別が横たわっていたことが分る。1944年5月の人口調査結果報告を見ると、日本人の73%は小学校初等科卒業以上の学歴を持っている。このうち不就学者16万人のうち14万人は11歳以下なので、実際の不就学者は2.9%、そして日本人の53%ほどは、小学校高等科卒業以上の学歴を持っていた。
 朝鮮人の不就学率は11歳以下を除いて54%、そして朝鮮人の小学校初等科以降の割合が著しく低くなるので、上級学校への進学はほとんど中断されていた。
 また、官公立専門学校はほとんど朝鮮人のための教育機関であったが、1916年から日本人生徒数が増加し始めて、1920年代半ばになると全体の在生徒数の3分の2は日本人が占めるようになる。大学予科や京城帝国大学の場合も、年度によって違うが、日本人と朝鮮人の2:1の割合がそのまま適用されている。(p224~5)

教育に関してはここまで、次は技術と技能について述べる。

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開発と収奪の植民地朝鮮(その6)

終わらせなければ、始まらない・・・ということで、ガンガン続ける。とはいえ第3章「工業開発」における分析は、細かすぎるようなところがあって、あまり面白くない。家内工業が工場制機械工業に変化していったこと、日本人資本と朝鮮人資本の割合、産業の二重構造(大企業と中小企業)の有無、そして戦時統制による統合などなど・・・まあ、日本社会でも同様のことがあったんだろうということだ。
 日本社会に無くて、植民地朝鮮にあったもの・・・は、やはり巨大開発を成しえた重化学工業であろう。この日本人大資本の近代大工業の様子を、日窒をみることで代表させたい。
 日窒が赴戦江発電所を建設する時、堤防・水路・揚水場工事は日本人建設会社である西松組・間組・松本組・長門組などが担当し、鉄管は日本鋼管、ポンプ・電動機は芝浦製作所、ロープウェイは山川策道がそれぞれ担当した。もちろん現場には多くの朝鮮人労働者が投入されたが、残りの大部分の労働力は、日本人企業間の需給によって賄われた。
 日窒はこの電力を土台に、咸鏡南道などでさまざまな事業を展開した。日窒の朝鮮工場では化学肥料をはじめとして硫酸、硝酸、塩酸、燐酸などの塩類と苛性ソーダ、ソーダ灰、アンモニアなどのアルカリ類、水素、窒素、酸素、炭酸ガス、アセチレン、塩素ガスなどの百数十種類の製品を生産した。その過程で日窒あ、朝鮮はもちろんのこと日本、さらに世界的にも有数の企業の一つとなった。(p161)
のである。001なお、咸鏡南道は現在は北朝鮮の国土である。
 この日窒の興南工場群は、高度の分業体制を土台として生産を行っており、自己完結的に行われていた。日窒の朝鮮事業は、工場の設備や技術で見ても、当時朝鮮の他の地域、及び産業とはまったくへだたった別天地であったわけである。
 近代的大工業の代表的存在としての日窒が持つこのような性格は、日窒だけに限定されたものではなかった。製鉄業、綿糸紡績業と広幅綿織物(粗布)、工業製品、ポートランドセメント、硬化油や石鹸などの油脂工業、化学パルプ、ビール、グリセリンなどの他のさまざまな近代的大工業でも共通に現れるものであった。(p163)

 ようするに、朝鮮に進出し工業開発を行ってきた大資本は、朝鮮内の産業とはほとんどかかわりなく、資源(電力、石炭、石灰石、綿花等)と激安朝鮮人労働力を求めてやって来た、典型的な「植民地進出工業」でしかなかったわけだ。
 で、これらの日本人の近代的大工業の特徴を確認しておくと・・・
第1に、全工場数の1%にもならない62の工場で全体工業生産額の29%を生産している。すなわち、少数ではあっても日本から進出してきた大企業は、朝鮮工業で主導的地位を占めていたのである。第2に、これらの業種の工場当たり平均生産額は、大変大きい一方、業種あたりの工場数はとても少なかった。すなわちこれらの業種は概して独寡占的な市場構造を持っていたのである。第3に、労働者1人当たりの生産額がその他の業種と比較して著しく多い。すなわち、資本集約的生産技術が採択されていたのである。第4に、これらの工場では、工場あたりの労働者数が平均422人で、その他の工場の35人と比較してはるかに多い。これらの大工場が近代的な機構組織を持っていた可能性が、いっそう高くなる。(p163~4)
1930年代は、まさにこれらの業種の生産額が飛躍的に増大することで、朝鮮の工業生産額が急増し、工業構造が高度化される現象を見せているが、これらの日本人大工業と朝鮮人工業との間には、直接的な連関関係があまりなかったので、そのような点ではむしろ飛び領土(enclave)のような存在に近かったと見るのが正しいだろう。(p165)

まとめると、朝鮮工業を「発展」させた日本の近代工業は、朝鮮を「発展」させることなく、あたかも「産業資本主義時代」のインドにおけるイギリス工業のごとく、資源と労働力を搾取していた・・・ということになる。そして別途述べるが、これら大企業の「幹部」に朝鮮人を登用することはなかったため、日帝敗戦後、これらの企業群を朝鮮人単独で運営することができず、「無用の長物」となってしまったのであろう。

ようやく次章「近代教育と技術の発展」に行くことができる・・・

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暑気払い闘争

暑気払い闘争
中華でゲソ。しょうこう酒じゃなイカ!

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開発と収奪の植民地朝鮮(その5)

第3章「工業開発」のところの続き・・・30年代に工業化、特に重化学工業が進んだ要因のうち、朝鮮総督府産業政策の変化要因を、筆者は次のようにまとめている。
①重農主義的産業政策の破綻:急激な農民分解と農業部門に特に大きな打撃を与えた大恐慌のため、農家経済が極度に疲弊しただけでなく、日本からも朝鮮産米の移入に対する批判が激しく怒るようになると、産米増殖計画に象徴される重農主義に代わり、「農工併進政策」すなわち「農村新興運動」とともに工業を積極的に育成する必要が生じた。
②朝鮮経済の戦略的重要性の増大:満州事変と満州国の成立、及びそれが招来した緊迫した国際情勢の中で、準戦時体制が成立した。朝鮮は日本が中国大陸に進出するための橋梁的位置を占めていたので、朝鮮が大陸兵站基地としての役割を引き受けるようにするために工業開発が必要になった。
③世界経済のブロック化:大恐慌以降、世界経済がブロック化されていくことによって、日本の貿易は大きな危機に遭遇し、これを克服するための方案として円ブロックを構築しようと叶えた。その一環として朝鮮にも一定の工業開発をする必要があった。(p118)

そして、日本企業の対朝鮮投資増大要因として、以下を上げている。
①排出的要因:日本の生産財生産部門は、第1次世界大戦基幹、及び1920年代に相当の発展を遂げる。しかし欧米各国に比べれば競争力が劣っていたので、主に日帝領土内でその販売先を求めざるを得なかった。朝鮮は日本の生産財生産部門の市場として、徐々に重要になって行った。一方、大恐慌の勃発と共に日本では重要産業をカルテルとして組織し、生産と販売に規制を加えるようになった(重要産業統制法)。朝鮮総督府は朝鮮に対してはこの法律の適用を留保することで、朝鮮に進出する日本企業がアウトサイダーとしての利得を享受することができるように配慮した。
②索引的要因:第1に満州事変以降の新しい情勢の中で、朝鮮は市場、労働、資源などの多くの側面で新しい注目の的となった。朝鮮は貨幣制度や金融制度が日本とほとんど違いがなく、社会間接資本も比較的よく整備されており、1920年代には関税令の留保事項が廃止されて、朝鮮は日本の国内市場とほとんど同等の地位を保つようになった。さらに満州事変により朝鮮の背後に巨大な市場が形成されたため、中国に進出しようとする日本企業にとって朝鮮は特に魅力的な地域となった。第2に、朝鮮は1930年代初めまでの急速な農民解体によって莫大な量の相対的過剰人口が蓄積されることで、最低賃金レベルで無制限の労働供給が得られるようになった。したがって最低賃金が緊要な工業の場合、朝鮮は大変魅力的な地域となった。第3に、朝鮮総督府は日本の大企業を積極的に誘致するために、彼らに各種の恩恵を提供した。このような恩恵には、金融・税制上の支援、工場建設に必要な用地を安価に確保し、必要な工業原料の保証、
工場法適用の回避と労働運動に対する弾圧、及び労働力調達に対する各種便宜の提供など、さまざまなものがあった。(p118、119)

とまぁ、長々と引用してきたが、こういった日本側の理由があったわけだ。しかし第3の「優遇措置」は、何か現代中国の「経済特区」や、日本の「特区」構想を思わせるようで、興味深い。
で、重工業化が進むにつれ、朝鮮国内は労働者・・・プロレタリアートが増加してゆくことになる・・・そう、朝鮮資本主義=日本帝国主義の「墓堀り人」であるvirgo

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