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7月7日

今日はタナボタ・・・じゃなくて、七夕様の日
盧溝橋で、日中戦争の火蓋が切られた日(とはいうものの、現地で発生した偶発的事故だったらしい。現地での解決を当事者同士は望んだのであるが、日本政府、および世論が『暴走』して、前面戦争…しかも攻撃をどこで納めるか何にも考えぬまま…に至ったようだ)

 そして、日本新左翼に対して華青闘告発があった日である。日本の「新左翼」は、国内の被抑圧民族問題を楚呈しえず、入管体勢に日常的に苦しめられている在日朝鮮、韓国、中国人の自己解放の闘いを自らのものとすることができなかった。そのことに対して「お前ら、それでエエンか?」と、厳しい批判を突きつけられた日である。

 この問いに対して、まともに「自己批判」したのは革共同全国委員会・・・中核派だけであったと聞く。彼らは(その他の党派もあるていど)その後、「入管闘争」を自らの闘争の中に位置づけるため、奮闘する。魯迅の造語「血債」という言葉をもって・・・

 ただし、70年代末~80年代半ば、「指紋押捺拒否闘争」や「日韓連帯」を口にし、真面目に闘っていたのは、白ではなく赤や黒だったと思う。青春の一時期、彼らのそばでウロウロしていたから、そのへんはそれなりに知っている。
 白はむしろ「三里塚(後には国鉄)」を闘うことが、日帝打倒に直結し、「血債」を返すことにつながるという路線を表にだしていた。東京方面は分らんが、少なくとも関西で在日の闘いに実践的に「連帯」していたのは、白ではなく、赤や黒の人たちだった。

 ただ、「どんな勢力もいる」京都大学近辺では違っていたのかも知れない・・・十数年後、毎年5月には京大時計台行動で「反入管」の集会が行われていた・・・このブログでも何回かレビューしたヤツだ。
 
 さらに年月は立ち、革共同中央は「労働運動路線」の名の下、被抑圧民族を初めとする批抑圧人民の闘いを、「プロレタリアートの闘い」に従属させようとする・・・これが「7月テーゼ」である。これはマルクスが晩年、アイルランド問題への取り組みがイギリスプロレタリアートにとって必要だという地平、レーニンの民族問題に対する解決方法(必ずしもよく実践されたというわけではなかったが)の地平を、見事に初期マルクス・・・共産党宣言時代まで「後ずさり」するものであった。もちろん、帝国主義の様々な矛盾や政策によって「分断」されている批抑圧者を切り捨て、それにあくまでもかかわろうとする者に対し「血債主義者」とレッテル貼りをして、つぶしていくとんでもない「テーゼ」であった。

 なんやかんやで、革共同は関西を中心に、「革共同再建協議会」が分裂する。革共同中央「労働運動路線」に純化するとともに、様々な市民運動、住民運動に「介入」し、分裂策動を図る・・・天上で魯迅が泣いている・・・

 ただ「労働運動路線」そのものは、副議長の死と運動のゆきづまり、そして何より東日本大震災と原発事故・反原発運動の盛り上がりによって、「ゆり戻し」を余儀なくされる。ただし、党としての入管問題への取り組みは後景化したままであり、現代韓国労働運動との「連帯」がそれに置き換わっている。

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コメント

青空に入道雲が聳えていて、どうやら梅雨も明けたようで。

>日本政府、および世論が『暴走』して
そうなんですよね。最初に誰が発砲したかとか〇〇の陰謀だとかの下らない文を見かけますが、そんな問題ではないでしょうね。
生意気な『支那』に一撃を食らわせれば大人しくなるだろうという安易な見通しで戦争始めたことが、やがてどうにもならない事態を招いたわけです。
これは今の風潮と非常に似たものがあると思います。
「その時」になれば反対意見言うことは非常に難しいだろう。
せいぜい、今の内に変わり者と思われても「そんなに簡単に行くものではないよ」と言っておくことしかできませんね。

>入管問題
まあなんというか、鈍いせいかぴんと来る問題ではないですね。(藁)

投稿: BM | 2013年7月 8日 (月) 13時56分

「入管問題」とは、入出国管理法関係で人権を損なわれる在日、対日外国人を支援、連帯する運動です。もともとは「植民地政策」の名残りで日本に在日せざるを得なかった朝鮮、韓国、中国人の在留資格(政府・法務省がかなり恣意的かつ差別的に運用されていた)に関する「闘争」だったわけですが、現在は他のアジア諸国から来る労働者や、「難民申請」をしてやってくる外国人の支援も含まれてきます。

投稿: あるみさん | 2013年7月 9日 (火) 22時49分

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