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開発と収奪の植民地朝鮮(その7)

第4章 近代教育と技術の発展 に移る
ウヨさんがよく言うところの「日本がハングルを普及させた」(教育を普及させた)というのが、いかに単純ないいまわしであるか・・・事実はもっと複雑なのであった。
朝鮮の近代教育は、甲午改革(1894年)以降から始まった。師範学校、中学校、外国語学校、医学校、農商工学校、小学校などの官公立学校が設立された。さらに1905年頃の国家的危機に直面して現れた愛国啓蒙運動により、近代教育運動は民族教育の脈絡でなされるとともに、学校建設・運営運動、民衆啓蒙運動が活発に展開され、また各地に正規私学をはじめ書堂(日本の寺子屋に相当する)、各種講習所、夜学会、労働学校、労働夜学校が数多く建てられたのである。日帝併合直前には、朝鮮人の教育への需要が相当あり、また近代教育への見方も変わるようになった。朝鮮人たちの伝統的な「士農工商」(注;儒教的な職業観であり、士大夫および農民をよしとし、生産を行わない商人を低いものとして考えるもの)という職業観も、かなり弛緩した。併合直前の1910年3月には、2146ヶ所の普通学校に10万人を上回る朝鮮人生徒が在籍するようになる。また、法学校の競争率は8.5倍、漢城師範学校のそれは11.6倍と、朝鮮人の教育に対する需要が高かったことをうががわせるものである。(p215~6)もちろん、これらの数は日帝からの解放当時に比べればとても少ないものではあるが、少なくとも朝鮮(大韓帝国)で教育・実学を普及させようという動きはあったのである。 

 ここで、併合以降の調整人教育の趨勢を見てみる。p219にもグラフがあるが、朝鮮の国・公・私立初等教育機関の生徒数の推移と、書堂に在籍している生徒数の推移を見てみる。
 この図によると、初等教育は3・1運動が起きる1919年を境に2つの時期に分けられる。3・1運動以前は、普通学校在生徒数より書堂在生徒数が多く、書堂在生徒数が増加している。普通学校教育の供給が円滑ではなかったことにも理由があるはずだが、それよりは日帝の植民地教育に対する拒否感と高い教育熱が書堂在生徒を増大させたと考えられる。
 3・1運動以降は普通学校在生徒数が急速に増大する一方、書堂在生徒数は徐々に減少する。普通学校在生徒数は、1910年2万人程度から1942年には170万人程度に増加した。解放の頃になると、小学校の朝鮮人就学率は朝鮮南部の場合、45.2%に達するようになり、
1946年から義務教育を実施する計画が立てられたりした。その一方で、併合以来、朝鮮人教育の主軸をなしてきた書堂と各種学校の生徒数は、日帝時代初期には増加したが、1920年初盤以降、現象趨勢に変わる。その結果、1924年から普通学校の生徒数が書堂及び各種学校の生徒数を上回り始めるようになる。(p219)ちなみに、1924年には書堂と普通学校の生徒数を合わせると、60万人ぐらいである。
 それにしても、朝鮮に解放まで義務教育がなかったこと、朝鮮南部で(北部のデータを著者が示さなかった理由は不明)で初等教育を受けている者が5割に満たないことを考えると、日帝・朝鮮総督府が朝鮮人の教育に本気になって取り組んだのかどうかは疑わしいものだ。それで著者は、少なくとも1933年に至るまでの普通教育の拡大は、朝鮮総督府の意図によってなされたというよりは、朝鮮人たちの近代教育に対するより積極的な要求がその背景にあったことが分る、一方、1933年以降の普通学校生徒数の増加は、この時期に本格化した鉱工業の発展と(準)戦時体制による皇国臣民の育成という日帝の教育方針の変更が最も重要な原因であった。(p219~220)としている。

 それでは高等教育についてみてみよう。1920年代の初等教育を受けたものが増加するにつれ、遅れて中学生、専門学校生、実業学校生、大学予科及び本科の学生、生徒数も増えている。また、朝鮮人留学生も3・1運動以降急増しはじめ、1930年代半ば以降にその増加速度は速くなる。これらは植民地支配下にあったにもかかわらず、当時の朝鮮人たちの高い教育熱を反映すると解釈できるだろう。(p222)
 技術者に関して、1938年頃に調査された「朝鮮技術家名簿」を整理すると、当時の朝鮮で活躍していた朝鮮人技術者の約57%は朝鮮国内で勉強した人たちであり、43%は外国で勉強した人たちであった。ただ当時はまだ朝鮮内で理工系統の大学卒業生が輩出されていなかったので、朝鮮内で排出された技術者は全員専門学校出身者であった。(中略)この点でも朝鮮人技術者は日帝の支配の産物というより、朝鮮人たちの能動的対応の帰結と考えることができる。(p222~3)

 しかし日本人と朝鮮人との民族別学歴構造を検討すると、とんでもない差別が横たわっていたことが分る。1944年5月の人口調査結果報告を見ると、日本人の73%は小学校初等科卒業以上の学歴を持っている。このうち不就学者16万人のうち14万人は11歳以下なので、実際の不就学者は2.9%、そして日本人の53%ほどは、小学校高等科卒業以上の学歴を持っていた。
 朝鮮人の不就学率は11歳以下を除いて54%、そして朝鮮人の小学校初等科以降の割合が著しく低くなるので、上級学校への進学はほとんど中断されていた。
 また、官公立専門学校はほとんど朝鮮人のための教育機関であったが、1916年から日本人生徒数が増加し始めて、1920年代半ばになると全体の在生徒数の3分の2は日本人が占めるようになる。大学予科や京城帝国大学の場合も、年度によって違うが、日本人と朝鮮人の2:1の割合がそのまま適用されている。(p224~5)

教育に関してはここまで、次は技術と技能について述べる。

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コメント

>朝鮮の近代教育は、甲午改革(1894年)以降から始まった。
 出オチっすなぁ。甲午改革を推し進めた徐光範、朴泳孝は日本に留学した親日派だ。この時点で日本の影響力ありありじゃねーかwもっとも、その二人の改革は清やロシア、そして李氏朝鮮自身に潰されるわけだが。

>1905年頃の国家的危機に直面して現れた愛国啓蒙運動
 その年は日本が韓国を保護国化した年。しかも幣原坦が参与として朝鮮の教育に強く介入して、日本の影響が出始めた時期でもあるぞ。
 結局のところ、教育改革をしたのは日本で学んだ朝鮮人か、日本人か、このどちらかしかありえない。朝鮮人が自発的に教育改革をする、ということはありえない。そういう思想を持たせないようにハングルを弾圧し、愚民政策を進めていたのが李氏朝鮮だからだ。

>書堂
これって両班専用の学校みたいなもんだ。あなた達の大嫌いな、支配者による支配者のための学校。しかも習字とか語学が主で、数学や科学とかは教えてない。そもそもそれが充実した教育機関なら、あんな識字率と教育状況になるわけないだろ……

>義務教育
マジな話すると、金がなかった。教師も足りなかった。前者はともかく、後者はどうにもならないから、これは物理的な問題。

>高い教育熱
この教育熱に火をつけたのが日本だ。そりゃ、勉強すれば日本みたいになれると知れば、力も入るってもんだろw

技術者に関して
>外国で勉強した人たち
その外国って日本が大半なんだが。

>生徒人数
 人口の差と下地を完全に無視している。
 当時の朝鮮が2000万人未満。一方日本は1910で大体5000万で1930でには6000万を超えている。また前述したように就学率に差がある上に、教育システムはどうしても日本の方が数歩先だから、学力面でも朝鮮人は厳しかった。その上での生徒数の比率が2:1は仕方のない数値だと思うが。当時は朝鮮も日本も同じ国なんだから、東大の中で首都圏在住の割合が三分の一だからって、差別がどうこうという話にはならない。


で、結局の所何とかして日本を悪く言おうとするからおかしくなる。
そりゃ日本だって完全無欠とは言えないし、黒い部分もある。しかしもう一度言うけど

李氏朝鮮がクズすぎる。

感謝しろとは言わないが、生活レベルと知識レベルが向上したことぐらいは認めてもいいだろうに。

投稿: ROM人 | 2013年7月 7日 (日) 21時02分

というか今気付いたが、最初にハングルの話を持ってきてるのに、結局最後までハングルの話無しで終わってるじゃねーかww

やっぱりあれか。
日本のハングル教育は左翼にとって都合が悪いからスルーかw

投稿: ROM人 | 2013年7月 7日 (日) 21時08分

この本にはハングルの話が、一切書いていないんですよ。引用のしようがないもんでねぇ~

投稿: あるみさん | 2013年7月 7日 (日) 21時32分

そりゃー「日本はハングル弾圧した!」て最初に言っておいて、後で
「弾圧してたのは李氏朝鮮でした」
「日本が編纂して教育に組み込みました」
が判明というのは、どうやっても日本に悪のイメージを植え付けるのは無理だからなw

投稿: ROM人 | 2013年7月 7日 (日) 22時07分

日本への留学については、「当時の知識人・青年たちにはアメリカが日帝下の被抑圧状態から脱することのできる1つの理想郷と考えられていたが、厳格な海外留学制限と官憲の監視のため仕方なく日本留学を選択した場合も多かった。」(p231)とあります。また、日本留学組からも、後の朝鮮独立運動に挺身するグループも現れております。

投稿: あるみさん | 2013年7月 9日 (火) 22時43分

だからそうやって問題をすり替える。

今の問題は、「朝鮮での教育制度は日本に留学した親日派徐光範、朴泳孝が中心」という点。

留学した奴が親日派かどうかは論点じゃない。

投稿: ROM人 | 2013年7月10日 (水) 00時09分

一応捕捉として。つっこみ。

日本、もしくは清以外への留学とかまず無理。隣国と言うことで、ある程度通訳や在清、在日のコミュニティが存在しているからこそ留学もできる。併合前はハングルじゃなくて漢文使ってたから、言語も清は勿論、日本ともある程度は通じた。

しかし英語圏となると、話は別。相当に勉強しないと無理だし、その相当に勉強する場所がそもそも朝鮮に存在しない。

尹致昊とか米国留学者はいるけど、彼らにしたって日本留学で勉強してから、アメリカにわたってるからな。

投稿: ROM人 | 2013年7月10日 (水) 00時52分

生徒数の比率に関する考察で、分母に日本の総人口を持ってくるのは、明らかに誤り…朝鮮における高等教育における「1:2」の不当性を示しているのだから…(朝鮮半島内にそんなに沢山の日本人がいたわけではないでしょ)
日本の総人口を分母にして「1:2」が妥当であるならば、日本国内の高等教育機関でも「1:2」の民族比率でないと説明がつかないでしょ。

投稿: あるみさん | 2013年7月11日 (木) 22時43分

無論人口だけが原因じゃない。あるみさんのいう通り、全国の帝大三分の一が朝鮮人とかありえない。
他の原因としては元々の教育格差があることも根幹にある。
教育ってのは何も学校だけじゃない、家庭でも行うことだ。江戸時代から農民が暇つぶしに和算やっていたりと、学業面での下地が大きい。

ただ単純に、朝鮮側の教育水準が日本に達していないってこと。そりゃ教師と金が無くて、義務教育すらできていない状況では学びに行くのは難しい。

僻地では義務教育を受けられなかった人々もいるのですから、その分高等教育に挑戦する人も減るでしょうし。

投稿: ROM人 | 2013年7月12日 (金) 00時37分

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