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開発と収奪の植民地朝鮮(その8)

朝鮮における技術者・技能者において見てみよう・・・基本的に筆者が読み込んだ文献では、1945年まで、管理技術者・熟練工=日本人労働者、自由労働者・非熟練工=朝鮮人といった構図は変わらなかった。とはいえ、「戦争」によって日本人管理者・熟練工がいなくなると、朝鮮人がそこに進出していったことは事実である。現に鉄道部門においては、「(解放後)朝鮮人従業員が短期間で混乱を克服して鉄道事業をそれなりに運営して行くことができたのは、彼らが2ヶ月余りにわたって渾身の限りをつくして日本人技術者と管理者から鉄道業務を主体的に引き受けたためであった。この程度でも鉄道業務を引き受けることができたのは、経験と技術を蓄積した朝鮮人中堅管理者と技術者が解放の時点である程度形成されていたからであった・・・(p230)」と、鄭在貞の朝鮮総督府鉄道局の朝鮮人労働者に関する研究が引用されている。とはいえ筆者は、解放前に形成された人的遺産が、解放後の韓国経済で大変貴重な大変重要な役割を果たしたという点では明白である。しかし工業化の時点で植民地時代に形成された人的遺産が重要な役割をしたといっても、それがまさに日帝時代の開発の産物だと速断することはできない。この人的資本は開発によって形成された側面もあるが、朝鮮人たちの積極的な自己開発努力によってなされた側面もあるだけでなく、解放前に形成された人的資本の中で、かなり多くのものが解放後には淘汰されたからである。(p230~231)としている。

 なによりも朝鮮人技術者・技能者のうち、大部分が技能者で、技術者は1942年に4000名余り、1943年に6000名余りにすぎず、技術者は主に事務所・商店分野に集中し、鉱工業分野ではその増加幅があまり大きくなかった。核心技術は日本人技術者が掌握していたわけだ。
 また、日帝時代末期の技能者は戦時体制化の切迫した要求によって急速に養成され、高いレベルにはなかった。1946年11月現在、朝鮮南部には約9000名の熟練労働者が存在していたことになっている。これらの熟練労働者の学歴を見れば、小学卒がほとんど7割に迫っており、中学卒以上は3割余りであるので、決して高いとはいえない。一方、この熟練労働者数を1943年の朝鮮人技能者数40万名と比較すれば、大きな格差がある。1943年の場合は、朝鮮全体の数字である一方、1946年は朝鮮南部だけの数字で、解放直後の産業生産が大きく萎縮したという点を勘案しても両者の間のこの大きな格差を説明するのは難しい。結局、1943年の技能者の中には1946年の熟練労働者範疇にも入れないほどの低い技能レベルの労働者が大部分であったと解釈する方が理にかなうだろう。(p234)ということだ。

 さらに戦後、鉱工業における特需がなくなり、多くの鉱山が廃鉱され、鉱工業部門では技術者・技能者が過剰になり、民需生産の部門では技術者が不足した。また、先ほど述べたように、解放後生産が壊滅したことも、日帝時代に形成された鉱工業部門の技術者や技能者が活動することのできる舞台がほとんど消えてしまったと言っても過言ではなかったのである。
 最期に、韓国で本格的に工業化が始まる1960年の時点で見た時、日帝下で形成された技術者・技能工の意義が相対的に大きく減少した一方、アメリカ留学、及び国内で輩出された技術者・技能者が徐々に大きな役割をするようになった。<表4-14>で見られるように、朝鮮戦争以降1960年まで約5000名の留学生が海外に出たが、そのうち9割ほどはアメリカに行き、また1953~1956年に3360人が留学するようになり、工業化が始まる時点で工業化に必要な高級人材を調達するために大きな役割を果たした。(p235~236)
としている。要するに、日帝時代の人的遺産は、ほとんど伝わらなかったのである。
ただし、他の研究成果から、1970年の時点でも、解放前に日本に留学した事がある人々が韓国社会で相変わらず重要な役割を果たしていたことが分る。(p237)とも結んでいる。 

次は第5章 不平等と差別の解説である。 

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コメント

>要するに、日帝時代の人的遺産は、ほとんど伝わらなかったのである。
そりゃ親日派を徹底して弾圧してりゃそうなるだろww
李承晩がどれだけの国民を政治犯として弾圧したと思ってるんだww

投稿: ROM人 | 2013年7月10日 (水) 00時12分

李承晩がどれだけの「親日派」を弾圧したのかは知りませんが、共産主義者や民族主義者を弾圧するにあたり、日帝が構築した弾圧機構をそのまま用いています…ここでは「親日派」は役に立ったハズ!歴代の軍事独裁政権(現大統領のおとっつぁんもそうです)も「親日派」「日帝弾圧機構」を使っています。だからノムヒョンの時代に「親日派」=「軍事独裁政権の手先」として指弾されたわけです。

投稿: あるみさん | 2013年7月11日 (木) 22時48分

言っていることの意味が理解不能。

つまり韓国の独裁者が日本の弾圧機構をそのまま用いたから、新日派が独裁政権の手先として指弾されたってこと?


俺には理解できん高度な理屈だw

そもそも政治犯の逮捕者の数を比べてみろよ。
日本が朝鮮統治時代の30年間で逮捕した政治犯の数を、何年で塗り替えたと思ってるんだ?

投稿: ROM人 | 2013年7月12日 (金) 00時46分

ROM人さんに質問です。では李承晩が何年で「日帝時代」を上回る「政治犯」を捕まえて、そのうち「日帝時代の技術・技能教育」を受けた者がどのくらい居るのでしょうか?(知ってるから堂々とコメントできるんでしょ)

投稿: あるみさん | 2013年7月12日 (金) 22時50分

いや、正確な数値は知らん。だが保導連盟事件で20万の被害者がいる。

これを日本が統治の35年間で行うには、毎年6千人の政治犯を収容しなければならない。三・一独立運動でさえ逮捕者7千5百人だからな。毎年このクラスの暴動が起きていないと無理なレベル。
しかも日本の場合死刑や無期懲役の判決なんて出していないが、あっちの場合は虐殺だしねー。

現に1940の共産主義者の逮捕者は700人に満たない。民族主義者に関しては200人以下だ。

また1940頃でも、朝鮮半島の刑務所収容人数は2万人程度。大正時代だと9000人とか。これを使って20万人を35年間とっかえひっかえ、というのはかなり無理がある。

投稿: ROM人 | 2013年7月13日 (土) 00時42分

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