「展望13号」榎原報告批判(後編)
で、昨日は榎原氏が「商品からの貨幣の生成が商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為であること」と書いていることが、観念論であり、マルクス主義から転倒」しているものであると書いた・・・ここには続きがある「したがってその廃絶はプロレタリアートの独裁によっては成し遂げられないこと(展望13号p165)」と続けている。
はははは
「プロ独」によって成さなければならなかったことは、「商品生産」の廃絶である…資本、賃金奴隷制度、そしてそれによる商品生産の廃絶を行うことが、ソ連のプロ独では完全に出来なかったからに他ならないものを、「本能的共同行為」なる言葉でごまかしているにすぎない。
実際、レーニンの行った「プロ独」では、工場委員会をそのまま政治・経済を扱う「生産協同組合」に変革・統合することが出来ず…というより、外国および反革命軍とたたかうための「戦時共産主義」にせざるを得なかった。もっとも、「戦時共産主義」では、プロレタリアート(赤軍)が農民から有無をいわさぬ「挑発」を行うことで成り立っていたのであり、そこには「商品生産」なるものはほとんど存在しなかったであろう。生活必需品の「交換」も、労働時間=もらえる量といった「労働証書制度」ではなく、上からの配給であったろう(ここで資本主義的な「賃金労働制度」は一旦崩壊している)…そう、商品と貨幣は、ほぼ廃絶状態にあったハズである。
だから「プロレタリアート独裁」が「商品・貨幣を廃絶できなかった」ということにはならない…その後のNEP政策で、意図的に「資本主義的」生産様式を復活させ、息継ぎをした・・・その後、スターリン主義がそれを意図的に固定化した(ここでプロ独は「社会主義のための手段」ではなくなり、スターリンの「独裁」のための機関となってしまう)ため、商品・貨幣の廃絶が出来なかっただけである。
榎原氏は、主客を転倒させてものを言っている・・・プロ独であろうがなかろうが、社会の生産様式を「商品生産」「賃労働」を止めさせ、「生産物」の所有が「生産者」にあるようにしなければならないのだ。榎原氏の論理展開では、決定的に「生産」「生産様式」という言葉が抜けている。
そして「生産様式」が歴史的なものであることをすっ飛ばしているから「貨幣は歴史的な一次点で形成され、それがすっと継続されているものではなく、現在の毎日の商品交換の課程で都度生産され続けていることが判明する」(p176)と述べている…貨幣は生産様式の「歴史的」な変遷によって出来たものである…p176では続けて「そしてこのように絶えず再生産され続けているものであるがゆえに、それの廃絶も可能であるが、しかし、それは法律や行政といった意思行為の枠外にあるのだ。」と、分かったような分からないことを言っている。「歴史的」に形成された「賃労働と資本」「貨幣と商品」は、歴史的に、すなわち人民の「法律」や「行政」でいくらでも廃絶することが出来る…配給制度を何と見るのか
貨幣や商品は「自然現象」でも「人類の本能」でも何でもない…それをあたかもそのようにとらえることに問題があるのだ。
なお、榎原論文についてはブログ「資本主義の終わり論」のここで、思いっきり批判されているので、そちらも参照して欲しい・・・私の戯言よりもよっぽど有意義である。なお、榎原澎報告の宝塚でのⅢ反資本主義の思想は、商品批判からはじまる の中の、投機・信用資本の歴史等の「信用資本主義批判」は、それほど間違っているわけではないことを付け加えておく…
問題は「展望」たる「マルクス主義」の理論機関紙が、先の「ネバダ・レポート」や今回の榎原論文を無批判・迎合的に掲載している体たらくにある…経済論文が「書けない」のは、人材不足のせいでもあろう…だったら政治論文に「特化」して、革共同時代の「スターリン主義的」あり方や、「民主主義の決定的不足」にもっとメスを入れ、「自党解体」まで提起できる「左翼に突き付けた刃」になってほしいものだと、私は思う
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コメント
これは、20世紀マルクス主義の、経済的土台についての二つの間違った見方の結果です。
一つは、主観主義(より正確には主観的意思主義)。
もう一つは、悪しき客観主義。
両者共、世界観における分裂症候群です。
そう、世界の構造性把握と歴史性把握が分裂している、非弁証法的世界観の帰結。
つまり、・・・・・・
書くより一度リアル対話したいですね。
投稿: バッジ@ネオ・トロツキスト | 2014年2月 5日 (水) 19時30分
うーん。。自分は何年も榎原さんの理論を勉強していますが、アホなので全然理解出来ていない、と自覚しています。が、長年の無駄(?)のせいか、たたかうあるみさんのご指摘の「間違い」(と私が思う、というのが正確ですが・・・。)も指摘できます。
榎原氏は、商品生産者が生産する商品が、商品という形態を取れる条件について述べています。つまり、商品というのは、端的には交換を前提に生産される労働生産物ですが、その労働生産物が交換出来る形態を取るということの条件について、述べています。宇野弘蔵は、それは商品所有者の欲望だ!と述べていますが、たたかうあるみさんも(そして革共同も)、それを踏襲しているようです。
自分自身も詳しくはまだ理解出来ていませんが、上記のような商品生産者の主観ではなく、商品交換という行為そのものに内在する客観的な論理(物象化)と、その論理に意思を宿した時(物象の人格化)に、反対にその論理が人格に与える影響(人格の物象化)の解明こそが、榎原さんの問題意識である、と思います。
プロ独はそして、歴史的に見ても、誤りを多く生み出していると思います。内ゲバにせよ、国際共産主義運動の分裂と対立にせよ、プロ独と、それが生み出す独裁に原因があると思います。議会制民主主義は、確かに欺瞞的で官僚支配を生み出しますが、それでもやはり「不参加」「ただの気分的な民意」という「外部」の存在を担保することで、様々なブレーキ(暴走すると逆に作用しますが)を設け、少なくとも自国民の大量死や粛清といった事態そのものは避けられていると思います。
問題は、新しい運動の形式や内容が、まだ十分ではないこと、さらに今現在求められている運動の課題が十分に共有されていないことだと思います。問題はある意味で具体的になりつつあると思いますが、それはまたの機会にでも。
長文失礼しました。おやすみなさい。
投稿: 高橋良平 | 2014年10月14日 (火) 23時57分