7月7日は何の日?
7月7日はタナボタ・・・いや七夕の日であるが、もう2つ忘れてはならないことがある。それは「盧溝橋事件」が起こり、日本の中国侵略戦争が本格化した日であり。「7・7告発」「7・7自己批判」が行われた日でもある。
「盧溝橋事件」は中国、北京(当時は北平…ペイピン)に派遣されていた日本軍が夜間演習を終えた最、どこからともなく銃弾が撃ち込まれ、日中両軍が衝突したもの・・・中国側は「第二次国共合作」により日本軍の侵略に対して徹底抗戦を始める・・・最終的に日本軍は100万もの軍隊を中国に派遣したが、広大な中国の大地と人民のドロ沼にはまり、抜け出せなくなってしまった・・・おそらく「太平洋戦争」がなくとも、ベトナムのアメリカ軍のように、最終的には負けていたであろう。この中国侵略戦争が開始された日だ。
もう一つ、「7・7告発」「7・7自己批判」というのは、入管法上程に反対する集会を1970年7月7日に、華僑青年闘争委員会主催で行われようとしていたのだが、それまで「いっしょに」闘っているハズの日本の革命的左翼があまりにも消極的・没主体的な態度であったため、7月5日の実行委員会の席から糾弾をつきつけて退場した。このことに対し、革共同のみが7月7日に党として自己批判を行ったものである。
「7・7告発、7・7自己批判はここを参照
われわれはこの「7・7告発」をどのように受けとめたのか。
一番大事なことは、被差別・被抑圧人民の糾弾にたいして、それをわれわれがめざすプロレタリア世界革命の根本にかかわる問題としてうけとめたことである。階級社会の廃絶を通して、人間の人間的解放をめざすわれわれが、真剣に必死に闘っていながらもなお、被差別・被抑圧人民の不信をぬぐいえていない現実を痛烈に自覚したことである。言いかえれば帝国主義本国のプロレタリアート、とりわけ共産主義者が、被抑圧民族人民・被差別人民の信頼をかちとりえないかぎり、プロレタリア世界革命は空語であると痛烈に感じとったことである。そうした痛切な受けとめを通して根底的自己批判をおこなったのである。
この「7・7告発」を通して、われわれは、在日人民やアジア人民の歴史と生活、その中での彼らの苦闘をまったく共有しえていない現実をつきつけられたのである。その中で、歴史と現実を知らないこと、知ろうとすらしなかったことを痛感したのである。したがって、「歴史と現実を知り」、「存在と闘いに学ぶ」ことをいっさいの出発点としたのである。「7・7思想」の核心問題は、こうした姿勢と立場に日本のプロレタリアートと共産主義者が立つということである。したがって「7・7思想」とは、その時々によって変更可能ななにがしかの「論」や「路線」ではなく、その立場と精神に他ならない。
日本帝国主義がくりひろげたアジアへの侵略戦争と植民地支配、それはアジア人民にいかなる苦しみと打撃をもたらしたのか。日本の労働者階級がこの侵略戦争を阻止できなかったにとどまらず、屈服し加担し先兵とさせられた事実。それゆえに日本の労働者人民へのアジア人民の不信が抜きがたく蓄積されていること。しかも戦後もなお植民地主義的支配が形を変えて継続し、在日人民にたいする差別・抑圧、分断・同化・追放の攻撃が加えられ、それが在日人民の生活と生存を脅かし、民族的尊厳を蹂躙しつづけていること。それにたいして、在日人民は存在をかけてこれと対峙しつづけていること。にもかかわらず、日本人民はそうした歴史と現実に向きあう点で極めて不充分であり、基本的に無知・無自覚でありつづけてきたのである。そうした日本人民の階級的現実が、革共同の「7・7発言」として端的にあらわれてしまったのである。われわれは在日人民による告発を通してしか、そうした現実を自覚しえなかったのである。こうした現実が日本の労働者階級人民の階級形成を著しく阻害していること。さらには在日人民、アジア人民との連帯・信頼を歴史的に断絶させてしまっていること。われわれは「7・7告発」をとおしてこうしたことを強烈に自覚したのである。
ここから、「存在と闘いに学ぶ」ということの大切さを自覚したのである。それは単に「闘いに学ぶ」ということにとどまらない。在日人民が在日人民として存在しつづけることそのものが、日帝にたいする闘いそのものであることをとらえかえしたのである。(引用終わり)
帝国主義段階、新自由主義社会で、まったいらな階級としての純粋なプロレタリアートなぞ存在せず、「抑圧」「被抑圧」の関係で「分断」されている。それを何もなしに「団結しよう」「連帯しよう」と言っても無理なのだ。
「被抑圧民」からはこう返されるであろう・・・「まずは踏んでいる足をどけなさい」と・・・
革共同の「精神」はこの「7・7自己批判」とともにあった。しかし現在「革共同中央派」は、「7月テーゼ」においてこれをかなぐり捨て、「単一のプロレタリアート」が権力を握れば、「差別・抑圧」は無くなる・・・そして反差別・緒戦線で闘う人間に「血債主義」とレッテルを張って「批判」し、「労働運動純化(動労千葉防衛)路線」に後退してしまっている。
墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。
血債はかならず同一物で返済されなければならない。支払いがおそければおそいほど、利息は増さねばならない。(魯迅 花なきバラの二より)
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コメント
毎度毎度いうが
貴方の言っているアジアってどこのアジアを指しているのかと。
あの三馬鹿国家を抜けば他の国との関係は良好だが。加えてそれらが三馬鹿のように「差別!軍拡反対!」とかわめいているって話も見たことない。
血で書かれた歴史、ねぇ。ルミノール反応も調べずに「赤黒いから血で書かれたに違いない!」と喚いて、看破された歴史がいくつあったことやら。
投稿: ROM人 | 2014年7月 8日 (火) 06時18分