「プロ独国家」に憲法はいるか?
さて「革命的友人」と「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」についての話題…
本のレビューでも書いたように、筆者、矢部宏冶氏はGHQが「押し付けた憲法」に対して①それを改悪する勢力②それを護持(ある意味墨守)する勢力 しかおらず、③それを良くする勢力・・・がいなかったことを問題としている。
ではここで「革命」を目指す勢力が、「より良い憲法」を作ることを目指すことが必要なのか?という疑問がわく…それに対し、私は、そんなことは日本共産党にでもまかしておけば良い…行き詰まった資本主義を打倒することこそ、今求められていることだ…とゆうような結論にした。
では「資本主義」を打倒した後、どうするのか…「レーニン主義的」にゆえば、「ブルジョワ独裁国家」を倒した後で、ブルジョワの持つ「私有財産(生産手段)」を強奪し、労働者民衆でつくる「生産協同組合」に以降するための「国家権力」・・・すなわち「プロレタリアート独裁」権力が生まれなければならない。その「権力」は、多数のプロレタリアートが、少数のブルジョワ階級を「抑圧」する「国家」である。
では、その「プロ独国家」には、「国家」を民衆が監視する「立憲主義的」憲法が必要ではないか?というのが私の考えであった。
ところが「革命的友人」は、「そんなものは、いらない」と言う…なぜか?
「プロ独国家(権力)」は、民衆が「革命」を追行していくための「機関」であり、やがて消滅するものである・・・そこに「憲法」という形で「権力構造」を固めてしまうと、民衆が進めてゆく革命を抑圧・阻害するものに転化しかねず、「国家の死滅」とゆう、共産主義そのものの目標に達しないからだ・・・ということであった。
居るのは常識的な法律・・・「人を殺してはならない」「泥棒をしてはならない」・・・程度でいいんだ・・・とのこと。
ま、とりあえず納得はできた…民衆が「権力」を取った時は、「憲法」のいらない世界になる…と。
ただし「相互批判・自己批判」の自由な「民主主義の作風」と、「権利章典」的なものが、「民衆がとった権力」内で共有されているという前提が必要であると思う。
もちろん、その「共有」は、ブルジョワとドンパチやる中で、民衆の間で自然に培われてゆくものなのだろう。逆にそれが「共有」されない「運動」や「党派」は、やがて「スターリン主義的」なものに変質し、「革命」なんぞできなくなるであろう。
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コメント
過渡的には国家も、国家を縛る憲法も要ると思います。
投稿: TAMO2 | 2015年2月16日 (月) 00時28分