自民党「憲法改正草案」を読んでみる(その3)
さて次は「権利章典」である第三章だ。ここで重要なのは第十二条で、現行憲法は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあるものが、草案では「…国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益および公の秩序に反してはならない。」と書かれていることだ。
「濫用」規定はそのままだが、「権利には義務と責任ガー」というところに、うさんくささがある。もちろん、例えばある人の「言論の自由」で別の人が傷ついた、名誉棄損された・・・というものに対して、「責任」が問われることがある・・・しかしそれは別途刑法や民放で制御すれば良いことだ。ここでは「公共の福祉のためにこれを利用する責任」が、「公益および公の秩序」にすり替わっていることだ。
「公共の福祉」については、個人個人の「権利」が衝突した場合、その「調整」をなすものとされている…それに対し「公益」や「公の秩序」の「定義」が成されていない・・・すなわちそれは「時の政権」が決めることとされている。現行憲法も草案も「不断の努力によって、これを保持」とあるが、「不断の努力」の範囲が時の政権によって制限されるということを意味する。
また、「不断の努力」とは、現行憲法では明示されていないものの「抵抗権」・・・すなわち国家や行政が「権利を侵害」しようとした時、民衆は「あらゆる努力」を払ってそれに「抵抗する権利がある」ということだが、草案はそこに「公益」や「公の秩序」を持ち込んで、これを封殺しようとしている・・・具体的な例を上げれば、現在「辺野古基地建設」に反対してジュワブ前」で座り込み、阻止行動を行うことは、「自民党草案」では「憲法違反」ということにされるのだ。
これは十三条にも「全て国民は、人として(現行憲法は「個人として」)。尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り(現行憲法は「公共の福祉に反しない限り)、立法その他の国政の上で、最大限に尊重(現行憲法は「最大の尊重」)されなければならない」と、「公益」や「公の秩序」のほうを上にし、「最大限」が「最大に」に格下げとなっている。
次、十五条の「公務員の選定」であるが、草案では3項に「公務員の選定を選挙で行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による」と付け加えられている。すなわち、「外国人参政権」は絶対に認めないという「宣言」だ…一部のネトウヨさん達は大喜びだろう…だが、「グローバル化(それが必ずしも「良いもの」であるかはともかく)が進み、日本国籍を有しない人も一市民として日本に長期滞在するようなことが、ドンドンと進んでゆかざるを得ない中、このようなアナクロな「国籍条項」は規定すべきではない。第一、地方公務委員を見てみよう…選挙では選ばれないが、ある自治体に努める公務員が、別の自治体に居住しているなんてことはあたりまえである。これを「拡大解釈」して、いわゆる「市民権」のある者が、そこの「奉仕者=公務員」を選ぶという、自然権的なものが、「日本国籍を持っているかどうか」で線引きされてしまうわけだ。
「権利章典」については他に、草案第十九条の二において「何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してなならない」という、個人情報保護規定が設けられている…ここは「進歩」だろう。(逆に「合法」に集めることを妨げるものでは無い…政府機関や民間企業が「合法的に個人情報を集める」ことは、今も可能なのだから)
あと「信教の自由」について草案では第二十条に「国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない」と規定されているものの、3項において「国及び地方公共団体その他公共団体は、特定の宗教のための教育その他宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を越えないものについては、この限りでない。」という文言が付け加えられている。前文の「伝統」の名の下に、神社仏閣で行われる「宗教行事」に国や公共団体が「参加」してゆく道を開くものだ。
だが、社会的儀礼や習俗的行為なぞ、どんどん変わっていくものである…ここでも判断は「時の政権」に任される…「神社仏閣」の行事参加を突破口に、戦争した時に、安心して国家のために死んでもらうための装置…すなわち「靖国神社」への国家護持的なものに道を開くものである。
第二十一条の「表現の自由」についても「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」と書きながら、2項で「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」と、また同じ文言が出ている…特に「結社」を認めないということは、「革命党」を認めないということである。
二十一条の二にはなぜか「国政上の行為に関する説明の責務」と称して、「国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」と書かれている・・・これは進歩的だが、安倍政権には言われたくないものだ。
草案の第二十四条には、ご丁寧にも「家族、婚姻等に関する基本原則」と書かれ、その第一項に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と書かれている。現行憲法の二十四条は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」という文言は、草案では第2項に押しやられている…まぁ、「家族」あっての「個人」という、固定的な考え方であり、かつ「選択制夫婦別姓制度」ですら、難癖をつけて排撃する連中が考えている「家族像」を押し付けるものだ。また、「家族は互いに助け合わなければならない」という文言は、ただでさえ日本の社会保障制度で貧弱な保育や介護等を、家族責任として押し付けるものである。
第二十五条の「生存権」であるが、実はここそのものはあまり変わっていない…ただ二十五条の二に「環境保全の責務」として「国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない」とある…これは公明党の「加憲論」で出てくる「環境権」である。では、これを作りたいのなら、安倍よ、今すぐ「辺野古基地建設」を止めることだそれをやならい「環境権」など、なんの説得力もない。
あと、二十五条の三で「在外国民の保護」を、四で「犯罪被害者等への配慮」が付け加えられている…四はともかく、三はこれを口実に「自衛権=対外戦争」をも引き出すものであるが、こんなものを無理やり「生存権」の中に突っ込んでいるところに、怪しさを感じるは私だけだろうかまた、公務員選挙で「国籍条項」が加えられているので、これらの「権利」についても、日本で市民生活を送る外国人を排除するものとして働くであろう…これは「国際的な人権保障」の潮流にも反する。
第二十六条で草案には、3「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」と、まぁまともなことを書き足しているが、これもOECD諸国の中で、教育に出す金が極端に少ない現状をほったらかしにしていた自民党・安倍政権に言われても、何の説得力も無い。
第二十八条は、現行憲法では「労働三権」…「団結権、団体交渉権、団体行動権」を認めるものであるが、草案では2項をつくり、公務員のそれを「前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない」と、明確に制限、否定している。
第二十九条は現行憲法も草案も「財産権の保障」であるが、現行憲法は②で「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」とあるものを、草案ではやはり「公益及び公の秩序」に変えられている。また、知的財産権について定められていることは、現代社会に合わせたものになっている。
後は裁判や刑事訴訟、刑罰についての記述となる…ここは大きな変化は無いが、第三十六条で現行憲法は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」が、草案では「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する」と、ほぼ同じ意味だが、少し弱い表現となっている。これは現行憲法の「訳文性」によるものであろうが、気になるところである。
以上、「権利章典」では、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変わったこと、「国籍条項」がついたこと、「家族」を定義づけ、押し込もうとしていること、公務員の労働三権に制限をつけたという「反動性」が明らかになったものである。
その他、二十五条の三は
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