革命派は「差別意識」なんかをどうやって解決するのか?
さて、先ほどの「引き取る行動」に関するエントリーで、私は「ポジショナリティー」を変えない…と宣言した。これは逆の意味でとると「沖縄に対する差別者」であることを止めない!と宣言したに等しい(特に「引き取る行動」をする人から見ればそうだろう)。では、「革命」を目指すものが、自らの「差別意識」をそのままにして良いのか?それでは「革命後」も差別が残るのではないか?ということになる。
これについて、革命的左翼の意見は、はっきりしている…「革命をしながら、乗り越える」というのが、その答えである。
ぶっちゃけた話、「革命」を行って新しい社会を作ったとしても、それを構成する人間は、古い「ブルジョワ社会」の意識をそのまま引きずっている・・・ブルジョワ社会でさえ、「封建時代」の古い意識を引きずったまま、未だにその延長上の差別・抑圧が引き継がれている。(もちろん、単に「封建制度」の「遺制」として残っているのではなく、資本主義的に「再編」されて引き継がれる…代表的なものが、女性に対する差別であり、日本では「部落差別」がそれにあたる)
そういった「古い意識」は、じつは「敵階級(ブルジョワジー)」とドンパチする中で、絶えず「点検」され、「相互批判」「自己批判」され、「止揚」していかなければならない。そうしないと、「ブルジョワジーの意識」に足をすくわれ、「革命戦線」は大きな痛手を受けるのだ。
逆に「ドンパチ」もやらないで、「差別意識」や「ブルジョワの古い思想」を打ち破ることは出来ない…静的に「私はこれから、意識、立ち位置を変える」と”考えても”、それは観念の世界にとどまる…いわば「宗教」のようなものにしかならない…救われるのは自分だけである。
何度も書くが「引き取る行動」は、沖縄・辺野古でドンパチをやってきた、あるいはやる人の中から出てきた「差別解消」のための「批判行動」なのだ。それゆえ「革命と無関係」に出てきたものでは無い…そもそも「安保・沖縄を考えない人」は、「引き取る行動」なんかやらない。
逆に、ドンパチが激しくなると、新たに「古い意識」を持ってドンパチに参加してくる人が出てくるが、ドンパチやる中で、ある程度自然に、「古い意識」がいつの間にか「新しい意識」に変わってくるものだ…「革命」のダイナミズムとは、そうゆうものである。
もちろん「権力を奪取する」と言った「革命の1シーン」が済んだら、全ての人が「革命的に意識が変わって」いるわけではない…やはり「差別意識」や「ブルジョワ的思考」は残るのだ…それらは粘り強く「相互批判・自己批判」の中で、解決されなければならない。
「相互批判・自己批判」のないまま、ある集団が「正しいとした思想」をもって、「これはブルジョワ思想だ」「これは差別思想だ」とレッテルを張り、排除していくやり方・・・これが「スターリン主義」の一つの政治手法である。実際、ロシア革命後においてこの種の誤りが繰り返され、「民族問題」や「過渡期(プロレタリアート独裁の時代から、共産主義社会へ向かう時代)における『ブルジョワ思想(思考)』」への対応を行ったため、革命ソ連はその輝きを失い、どうしようもない「スターリン主義国家」に転落・固定化されてしまったのだ。
その過程を「権力も取らないで」成し遂げたのが、いわゆるカクマル派であり、周回遅れでそうなったのが「革共同中央派」である。ドンパチやる中で「相互批判・自己批判」の作風を忘れ、ただひたすら己の「勢力増大」「権力(とは言ってもコップの中のものだが)維持」に走ったのだ。
「革共同中央派」が、いわゆる「7月テーゼ」を打ち出して「血債の思想」をかなぐり捨て、「労働者は差別なんかしない」=「だから全ての『運動』に、『労働者としての刻印』をせまる」という、トンでもない方針を打ち出した。そして当時の「全学連」が「広島差別事件」を起こす…これに対する「革共同中央派」の「自己批判」や「謝罪」は未だ行われていない…
ゆめゆめ、そうなってはいけない…その意味で「引き取る運動」を排撃するようなことをしてはいけないのである。
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