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革命に「設計」を持ち込むことは、人間を信頼していないヤツのやることである

 革命後の「社会」をこと細かく「設計」しておかないと、その「革命」を支持できないではなイカ?と考える「まとめちゃん」みたいな方々へ…

 「共産主義革命」とは本来、全ての民衆が参加して「あるべき社会」を共同で作っていくことなのである。何か「理想郷」のようなモデルがあって、そこに向かってまっしぐら…という「設計主義」では、必ずそれに「不満」をもつ人々が出て来る。

 だからその「共同性」を阻害しているもの…すなわち「賃労働と資本」の関係、「資本の増殖」のために「生産活動(…今や「金融資本」が社会の中心に踊り出ているから、資本は生産すらせず、ただただ「剰余価値の搾取」のみ行っているが)」を行う「資本制的生産様式」を、何らかの方法でぶっこわす…これが「革命」を進めるうえで必要になる。当然、資本家(もはや人格的な、資本家というものはほとんど存在し得ない…何億ドルという報酬を受け取っているどこそこ会社の「CEO」ですら、「資本家」ではなく、「資本」に操られた「傀儡」にすぎないのだが)が、「思想的に納得」して、資本制を止めるわけは絶対にない…そこに「暴力(というか「権力」)の行使が絶対に必要になるわけだ。

 その疎外物が無くなったら、人はそれぞれ自らの能力や好みに応じて、「社会」を造り上げてゆくことが出来るのだ…そのための「最低限ルール」が、いわば「共産主義社会」の原理・原則である…すなわち「生産協同組合方式による生産活動」「徹底した民主主義」である。そのアウトラインだけ決めておけば、「革命」はドンドン進むのである。

 もちろん、「ゴールポスト」など無い…進めば進むほど、社会や人間は穏やかでかつ自由に暮らせるのだから…

 そこに「ゴールポスト」を何らかの形で「設定する」という思想は、人間の可能性を信じないというものであり、「共産主義革命」を信望するものの取る態度ではない。

 話は少しずれるが、マルクス主義を「曲解」した第二インター(社会民主党)や、レーニンの革命を歪曲して引き継いだ第三インター(スターリン主義・共産党)は、社会主義・共産主義=主要産業の「国有化」という「設計図」を持ち込んだ。また、「共産主義」=「計画経済」という「設計図」も持ち込んだ…

 「国有化」という設計自体が、誤りであった…革命後、国家は「ブルジョワジーを抑圧」するためにのみ存在し、ブルジョワジーが「私有」する生産基盤を民衆の共同経営下にもちこめば、やがて「眠り込み」にはいり死滅する存在だからだ。
 『計画経済」もまた、誤りであった…確かに「資本主義社会」では、資本の増殖のため「過剰な生産力」を生み出す…その「過剰」ゆえに、恐慌や戦争が起こって(起こして)しまう…現在は、「資本が過剰」ゆえに行き場を失い、かつ「利子」「利潤」だけ要するから、労働者・被抑圧民衆からの搾取が酷くなって「格差」が広がる…もちろん、「戦争」や「バブル崩壊(恐慌)」という危機もある…だから「じゃぁ必要なものを必要なだけ生産すればよいのだ!」というところから「計画経済」という言葉が生まれたわけだ。
 もっとも、資本制社会において、個々の資本は「剰余物…売れ残り」が出ないよう「計画」を立てて「生産活動」をしてきたし、今もしている…それを「一つの国家」でやろうとしたのが、第三インターの編み出した「計画経済」である。
 しかし「計画経済」をまともに動かそうとすれば、どんな人がどこに住んでいて、どんな生産物がどれだけ必要か?という「計画を立てる人」=「官僚」が膨大に必要となる。また、生産主体…人間がホイホイ自由に移動してもらうと困るので、移動や居住地選択の自由を押さえつけなければならなくなった…これが「スターリン主義」破産の原因の一つである。

 マルクスは「資本論」の中で「これらの過剰は、次の社会(共産主義社会)にとってはなんでもないものである」と述べている…そう、過剰に生産したら、倉庫にでも置いておけばよいのだ。足りなくなりかけたら、また作ればよい…ヒマになったら、「過剰」に出来た生産物を消費しながら、芸術なり文化なりスポーツなりを楽しむことが出来る…「資本制社会」において、生産力はマルクスの時代よりはるかに向上している。「資本論」での例示では1労働日あたりの労働者の労働時間は、10時間であったが、いまや1日4時間、いやそれ以下の労働で、ほんとうに人間に必要なものを生産することは出来るであろう…あとはそれを享受する時間になるのである。

 もう一度言おう・・・共同性を阻害するものを取り除けば、人は自ずから社会を運営してゆくことが出来る・・・そこにがっちりとした「設計図」を持ち込むことは、そういった人間の能力や可能性を全く信頼していない輩のやることである…と。
 


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かくめいのための理論」カテゴリの記事

コメント

共同性を阻害するものを取り除けば、人は自ずから社会を運営してゆくことが出来る・・・そこにがっちりとした「設計図」を持ち込むことは、そういった人間の能力や可能性を全く信頼していない輩のやることである
とありますが、共同性を阻害するものを取り除くことが今現在非現実的なのではないですか?
また、共産主義とは全ての民衆が参加して…という部分も間違いなく理想論で、そんなことは不可能です。
また、その理想論は「共産主義革命こそ至上」という考え方に基づいており、その発想は共産主義以外の他の優れた可能性、つまり人間の能力や可能性を全く信頼していない輩の発想となるのではないですか?

世の中を作るのは官僚でも資本主義でも共産主義でもなく、私も含め愚かな大衆です。

投稿: 平行四辺形 | 2016年3月 4日 (金) 08時40分

あるみさんへ

ご自身の現状理解をわかりやすく解説いただきありがとうございました
どこが意見のちがいなのか何がお互いにすれ違っているのか考えました

みんなで良い社会をつくっていこうと言う考えに異論がある人はいないとおもいます
それぞれが個人で思い思いの幸福を追求する状態を目指しているわけではないことも確認しました
あるみさんが目指す社会はみながバラバラに活動しても自然に達成されるものではないですね

抽象的な絵から現実の物や制度を色々な人が共同でこしらえるには施工図が必要不可欠です
そこに議論の余地など無いとおもっています
ここから考えを深めてみました
最初から詳細を全部完成させてから物事が始まる事などないということは皆もよくわかり納得できる話です
逆に複雑な事を大勢の人が無計画で作り上げることも不可能なことだとおもいます

大きな目標を掲げて大勢の人を動かすにはそれを達成するためのやり方があるとおもいます
大プロジェクトを進行させるための手法は現実に存在しているものなのですから
最終目標のイメージ図だけで皆さんを動かそうとするのは無理な話だし
わかりやすく多くの人にプランを伝えることができないことも不味いことだとおもいます
社会をかえるのですから大衆が最終受益者かつ作り手なので
どのような段取りで誰が何を具体化させるのかの大本がしっかりしていなければダメで間違いなくコケるよなあ

と普通におもうことを上げてきたつもりですので
どこまで本気で活動しているのかで考える内容がかわるとおもいますので
これからの提案をたのしみにしています

投稿: まとめちゃん | 2016年3月 4日 (金) 09時23分

めんどうなので単純に一つおしえてください

●全ての民衆が参加して「あるべき社会」を共同で作っていくこと

このあるみさんの主張は計画やしくみが無い状態では絶対達成できないとおもうのだが
もしかして最初から全てを大衆の試行錯誤に懸けているのですか? 違いますよね?

投稿: まとめちゃん | 2016年3月 4日 (金) 13時06分

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