日支ブロックは、簡単に成立したわけではない
ちょっと古い新書を読み直してみるキャンペーンの第二弾!「アジア主義を問い直す」井上寿一 ちくま新書 2006年8月…もう10年前の論考である。自公政権の「アメリカ追従政策」の対抗軸として、「東アジア共同体」というものが模索されていた時代に書かれたもの。「東アジア共同体」を構築してゆく思想(もちろん現在は、世論調査でも「中国は信頼できない」という意見が多数を占めているから、「東アジア共同体」という構想自体、存在したのかどうか?というのが日本の大多数の意見であろう)・・・その中で、満州事変や日中戦争の最中に構想されていた「日満支の協同」構想がどれだけゆれ動いていたかどうか問い直した来た新書である。
石原莞爾は帝国主義者として「だいたい正しかった」 というエントリーでもこの新書は取り上げているが、どだい「満州」権益のみを日本帝国主義の全権益とすべく「ブロック化」しても、石原氏の考える「対米戦争≒世界最終戦争」は無理筋だったのだ。
なんせ、「軍事力」の主力である「石油資源」は欧米のメジャーに頼らざるを得なかったし、兵器の高度化に必要な「精密機械」は、アメリカからの「輸入」に頼らざるを得なかったのだから。(日帝の仏印進駐後、アメリカは経済制裁として精密機械の日本への輸出を禁止した。)
石原莞爾は当初、「満州」を関東軍によって完全に「領有」(植民地化)するつもりであったのだが、1922年に締結された「「九か国条約」等の制約もあり、本国では「領有化」はそれに反する…だから「独立国」という形にしよう…という方向に持って行った。最終的に石原もそれを飲まざるをえなくなり、それが「傀儡国家」満州国の誕生となったわけである。
また「満州国」の建国理念は、「五族協和・王道楽土」の建設ということであった。ただ「五族協和」とはいっても、当時の「満州国」の範囲においては「漢民族化」が相当進んでおり、満州最大の軍閥、張作霖が日帝の謀略により爆殺されて以降、その息子の張学良は蒋介石政権に従うことを決定している。張学良および蒋介石政権にとって、日本の「満蒙権益」は当然、自国に戻されるべきものであり、当然「反日」的行動が満州(当時は「満蒙権益と呼ばれていた)が活発になる。
それを一挙に打破するため、石原莞爾らはクーデター的に軍事行動を起こし、「満蒙」を占領するわけであるが、対米関係を考慮した日本政府により「領有」をあきらめ、「独陸国家」化を飲むことになる。
また「満蒙」全地域を領有、もしくは勢力下すれば、必ずソ連との直接対峙が問題になってくる。
「満州事変」自体、東北三省のみならず、長城線を越えて「熱河省」まで戦闘は拡大してゆくのだが、日程政治委員会はあくまでも「米英」の権益を犯さず、米国からの「経済制裁」はなんとしてでも避けたいと考えていたのである。この辺を「拡大解釈」して、日帝(天皇)は対米戦争を望んでいなかった「平和主義者」である…との考えが蔓延している…彼らが考えていたのは「満蒙権益」を維持しつつ、英帝や米帝とはことを起こさない…というのが本音だったようだ。
で、日中全面戦争にまで発展した「日満支」ブロック構想であるが、近衛声明で「国民政府を相手にせず」と称したあとでも、「トラウトマン工作」などの「和平交渉」が模索された。しかし日本が中国の領土を「侵略・占領」したままでの「和平」なぞ、到底中国側は認めるハズがない。石橋湛山や尾崎秀美のように、中国の「ナショナリズム」を認め、「特殊権益」を放棄する…という考えは、主流にならなかった。
ま、とりあえずこの時代において、少なくとも東アジアでは「直接領有(植民地化)」というブロック化は成立しなかったわけだ。だから「傀儡」満州国をつくったり、国民党政府から「汪兆銘」を離脱させて「傀儡政権」をつくったりと、なかなか日帝国主義も右往左往していたわけである。
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