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戦後日本の接待矛盾がなぜ生まれたか?

日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか? の続きのレビュー…
 

矢部氏はこの本の序章で「日本社会に存在する大きなねじれ」としてA:「史上最大の軍事力をもち、世界中に出撃して違法な先制攻撃をくり返す在日米軍」B:「いっさいの軍事力をもたないことを定めた日本国憲法9条2項」の共存であると説いている。これが「戦後日本に存在する『絶対的な矛盾』」(p152小見出し)として存在しているわけだ。

 なぜこんな矛盾が存在するようになったか…これに大きくかかわったのが、日本を独立させると同時に、米軍基地は配備できる「安保条約」の締結に大きく…それのみならず、戦後「冷戦体制」で各国と次々に「反共軍事同盟」を結んでいった…ジョン・フォスター・ダレスである。本書の「主人公」と言っていい人物である。
 
 ダレスが何をしたか見てゆく前に、日本の「独立構想」と「安全保障」についてどんな方針があったか見てみよう。
 
①マッカーサー:日本の「非武装中立」+沖縄の「軍事要塞化」
 
②アメリカ国務省:NATOのような集団防衛条約
 
③アメリカ国防省:早期独立には絶対反対 ありえるとすれば軍事面での占領は継続する「部分講和」構想 (p141

 マッカーサーは日本を徹底的に非武装化し、東アジア…ウラジオストックからシンガポールまで…の「共産勢力」には沖縄に強力な空軍をおいておけば大丈夫だと楽観視していた。他方、国務省は日本の「再軍備」も前提とした「集団防衛」、国防省はせっかく「占領」した日本における軍事的有利さを手放したくない…と考えていたわけだ。
 
 マッカーサーの構想をもう少し詳しく見てみると、単なる「楽観論」ではなく、第二次大戦後の新しい国際平和を守る理念…国際連合による安全保障…を考えていたようだ。なぜならマッカーサーが日本で憲法草案の執筆に着手した19463月は、ロンドンで国連軍創設のための第1回会議が始まった日であり、マッカーサーが示した日本国憲法の基本原則には「すべての軍事力を放棄した日本の防衛は「いまや世界を動かしつつある崇高な理念にゆだねられる」と書かれていた」(p143)のである。9条2項はここから出ているし、日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言は、具体的には安全保障は「国連(軍)」によって保たれる…と解釈すべきだろう。

これはアメリカの戦争指導者、ルーズベルト大統領らの構想である。すなわち「連合国」を中心とした世界の枠組みで「戦争そのものを違法化」する。その枠食みを破る「平和に対する脅威」や「侵略行為」が存在するか安全保障理事会で決定し、存在した場合「暫定措置(国連憲章第40条)」「勧告(39条)」「非軍事的措置(41条)」で対処し、それでも状況が改善されない場合、国連軍などを使って軍事攻撃を行い(42条)袋だたきにすることで、平和が守られるというものである。ちなみに各国に認められている「自衛権」というのは「国連(軍)」が何らかの制裁措置・軍事行動を起こすまでの「つなぎ」の措置としてしか認められていない。
 
 では「国連軍構想」がなぜうまく行かなかったか?国連軍に必要な兵力は、国連加盟国と安保理がむすぶ「特別協定」にもとづいて提供され(43条)、その軍事行動は「五大国」の参謀総長をメンバーとする軍事参謀委員会(47条)のもと、安保理が決定する(46条)となっているわけだが、このうち43条「兵力の提供」に係わる「特別協定」が、米ソ間の基本構想の対立により、まったく進展しなかったからである。従って現在でも本当の意味での「国連軍」は存在しない。
 
 次に②のNATOのような集団防衛条約を結ぶことについて…これは①のマッカーサー案と真っ向から対立する。せっかく作った「日本国憲法」を早々に改正する必要があるし、対日講和条約をどうするか?というために来日したダレスも「アメリカがNATO諸国に対して持つような「兄弟愛」を、日本とのあいだに持つことは困難だと、かなり否定的だった」(p147)のであるが、1951年1月の大統領命令により、その実現に向けて努力することになる。
 
 しかしオーストラリアやニュージーランドは大戦中の記憶から(日本軍はオーストラリアの対岸、ニューギニアまで侵略に来た)、日本と同盟国になることを拒否。イギリスも自国が参加できないこの構想は拒否したため、このプランは実現しなかった。
 
 ただ、このプランの特徴として、メンバーの一員である日本が占領終結・独立後、再び侵略的にならないか?というフィリピン、オーストラリア、ニュージーランド等の近隣諸国の懸念に配慮したものだということが挙げられている。トルーマン大統領は「この取り決めは、外部からの侵略に共同で立ちむかうとともに、加盟国の一国、たとえば日本がふたたび侵略的になった場合は、その攻撃にも共同で立ちむかうという二重の目的をもつことになる」(1951年1月9日)と明言していた(p149)…この時期の日本の独立に向けた安全保障の構想には「日本のための安全保障」と、「日本に対する(周辺諸国の)安全保障」という、二つの側面を持っていたのである。だから「旧安保条約」に「日本軍の指揮権」にこだわり続けたのも「日本がふたたび軍事的脅威にならないよう、完全なコントロール下においておきたい」(p150)という目的もあったのだ。
 
 ③は、米軍基地が使えなくなる日本の独立、平和条約の締結には絶対反対という立場である。ちょうど「朝鮮戦争」の最中でもあり、戦争追行に占領地である日本の米軍基地(さらには日本の工業力がもつ補給基地、兵站基地としての役割)は絶対離したくなかったのであろう。当初は次のような「政治と経済については日本とのあいだに『正常化協定』を結ぶが、軍事面では占領体制をそのまま継続する」(バターワース極東担当国務次官補からアチソン国務長官宛の報告書/1950年1月18日)(p152)という基本方針が示されていたのである。
 
 ①も②もダメ…③で行こう…となった背景には、やはり1950年6月25日に勃発した「朝鮮戦争」の影響が大きい。ダレスもマッカーサーも「北朝鮮が南進して攻めて来ることなぞあり得ない」と確信しており(1949年から米軍は朝鮮半島に多数のスパイを送り込んでおり、情報として北の侵攻を予測する情報が数多く寄せられていたにもかかわらず…である。完全に「油断」していたわけだ)…侵攻した北朝鮮軍は一気に韓国側を釜山周辺まで追い詰めた。ここで持ちこたえられたのは、ひとえに日本が米軍の軍事・兵站基地になってその機能をフル回転させていたからである。

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コメント

理解しやすい解説ですね
(あるみさんの地の頭の良さがよくわかります)

分析の追加
オーストラリアとニュージーランドが日本と協調できなかったのは当然で当時白人至上主義全盛の国には無理筋
フィリピンも現存する対日協力組織の主力が地主以外の農民かつ共産勢力との内戦含みの状況では政治的に選択できない

戦争の誤算についてですが
政治的要求に武力行使を常套手段とする国の意思決定が
周辺国の油断を利用するのは当然のことだとおもう
つまり
戦争を招く一要因には間違いなく武力防衛に鈍感な周辺国の存在がある
はなから話し合いによる解決をオマケと考える国には力による対抗を厭わない政治が絶対必要でそれが隷属以外の
戦争を防ぐ知恵だとおもう

投稿: まとめちゃん | 2016年8月 7日 (日) 10時07分

>政治的要求に武力行使を常套手段とする国の意思決定が 周辺国の油断を利用するのは当然のことだとおもう 

 戦後史でいえば、「パナマとかキューバとかエルサルバドルとか、平時から軍備を重視していなければ自国の独立と平和は守れなかった」教訓って話ですかね。
 別の道はなかったのかな。

投稿: kuroneko | 2016年8月 7日 (日) 19時31分

この本のレビューは、まだ続きます。

投稿: あるみさん | 2016年8月 7日 (日) 21時28分

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