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ナチスの「手口」と緊急事態条項…ナチス独裁の成立

ナチスの「手口」と緊急事態条項(長谷部恭男 石田勇治 集英社新書)を読んだ。憲法学者とドイツ近現代史専門家の対談形式本である。憲法改正に関して麻生太郎氏が「あの(ナチスの)手口、学んだらどうかね」(2013年7月29日)を批判したものである。
_0001_2 まず巷で思われているように、ナチスは決してドイツ国民から絶大な支持をえて政権についたわけではない。ヒトラーが首相になる前、1932年11月の国会議員選挙では、ナチスの議席は全議席の33.1%、連立を組む予定の国家人民党と合わせても4割ちょっとしか議員はいなかった。当時のワイマール共和国の選挙制度は、ほぼ完全な比例代表制であったから、議席数はそのまま国民の支持率を反映している。あたかもナチスが「国民の支持」を得て政権についたという「神話」は、実はナチスのプロパガンダの結果、出来上がったものなのだ。
 そのナチスが政権を握り、独裁権力を握る過程で重要な役割を果たしたのが、ワイマール憲法の第48条に規定された「大統領緊急措置権」である。これが自民党改憲草案の中にある「緊急事態条項」に相当するものだ。では「大統領緊急措置権」が、どのように使われていったのかを見てみよう。

 ワイマール共和国は直接選挙によって選ばれた大統領と、同じく選挙で選ばれた議員による国会が互いに牽制しながら政治を行う「二元代表制」もしくは「半大統領制」と言われるものであった。この体制は何も珍しいものではなく、現在でもフランス第五共和制を始め、韓国、台湾、ロシアと多くの国々で採用されている。
 ワイマール共和国での大統領の権限は①首相・閣僚の任命権(第53条)②国会の解散権(第25条)そして③非常時の緊急措置権(第48条)が規定されていた。ここで1929年の世界恐慌が起こり、ドイツ経済は大きな打撃を受ける。この時の首相、ブリューニングは1930年7月、増税とデフレを基調とする財政再建案を国会に提出するが、否決(当然「ケインズ政策」なるものは存在しなかった)…これをヒンデンブルク大統領が大統領緊急令として公布されることになる。もちろん国会は反発し、社会民主党は大統領令の廃止を動議として提出し可決されたが、それに対抗して国会が解散され、大統領令は若干の修正を経たうえで再度公布されるのである。
 この後9月の選挙では、ナチス党は18.3%、共産党も13.1%となる。で、ナチスも共産党も「ワイマール共和国を認めない」というイデオロギーに基づいて政治を行っているので、国会審議がたびたび止まるようになる。その結果、国会を通過する法案も激減した。1930年は98件もの法案が通過しているが、31年は34件、32年は5件となる。一方で大統領緊急令による「法律」は、30年には5件だったものが31年には44件、32年には66件にまで増えたのだ。このように大統領の権限が強くなっていったので、この時期の内閣を「大統領内閣」と呼ぶ。
 1932年6月、パーペンが首相に任命される。7月の国会議員選挙でナチスが37.3%と躍進、共産党も14.3%となる。ここまで来ると大統領緊急令も議会で否決される可能性ある。内閣不信任を恐れたパーペンは選挙後もなかなか議会を開かず、9月12日に召集された国会は冒頭に解散されてしまう。この際、パーペンらブルジョワジーの一部首脳の中に、ワイマール憲法を停止して「新憲法」を制定し、危機を乗り切ろうとする、事実上のクーデター計画もあったらしい。
 その後、11月に選挙が行われ、翌1月30日にヒトラーが首相に任命される…保守の目的は①議会制民主主義を終わらせ②共産主義勢力を粉砕し③ドイツ再軍備を進める…というもので、ヒトラーの政権構想とマッチしたのである。ただヒトラーはあまりにもデタラメ(「我が闘争」に書いてあることを読めば、デタラメさは良く分かる)な人間であることは分かっていたため、外からコントロールできると考えていたようだ。
 首相に就任したヒトラーの「道具」は、①大統領緊急令②親衛隊と突撃隊③大衆宣伝組織 である。②と③はナチス独特のものと考えられているが、大統領緊急令はワイマール憲法に基づくものである。で、2月27日「国会炎上事件」が起こる。これはナチスの自作自演であったのだが、当時は共産党の仕業であるとされた。ここでヒトラーは「国家と国民を防衛するための大統領緊急令」を出し、共産党の弾圧と地方政治(州レベルでナチスが弱いところがあった)への介入が進められたのである。
 ヒトラーは33年3月5日に選挙を設定しており、国会炎上事件を受けてナチスの得票率は43.9%になった(それでも4割強であることに注意)…共産党の弾圧を終えたヒトラーは、悪名高き「授権法」(全権委任法)を制定しようとする。これは政府に立法権を与え、それが憲法に違反していても良いとするものだ。実はワイマール共和国では、1923年に天文学的インフレが起こった際、経済分野に限った「授権法」が成立している。ただしこれは24年までの時限立法であった。「授権法」成立のためには、憲法改正と同じ国会議員の2/3以上が出席し、そのうちの2/3以上の賛成がなければならない…が、共産党議員の逮捕で母数を減らし、かつ議院運営規則を、議長が認めない理由で欠席する議員は出席扱いにするというふうに変更することで、ヒトラーは「授権法」を通したのである。この後ユダヤ人排撃や障害者抹殺などのナチスイデオロギーを実行する、ナチ法が次々と成立することになる。

 ナチス独裁が成立するまでに、様々な要因や条件が存在するわけであるが、ワイマール共和国末期に起きた「政治的混乱」を、大統領緊急令…緊急事態条項で乗り切っていこうとしたことにも、その原因があるということが分かるだろう(続く)

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