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幕末にできた神武陵

 建国記念の日ネタ、続き…
 建国記念の日の元、紀元節は「辛酉(しんゆう)革命説」を拠り所に定められたのだそうな。これは「辛酉(かのととり)」の年には大きな変革が起こるというもの…辛酉は60年に一度、それが21回繰り返された1260年に、さらに大きな変革が起こるのだそうな。聖徳太子(厩皇子)の時代ぐらいにはこの思想が入っていたらしく、推古大王の即位から1260年前を、「神武天皇」即位としたらしい。推古即位が601年だから、神武紀元は紀元前660年ということになる。

 さて「天皇」が居たのであれば、天皇陵があるハズ…仁徳を名乗る「天皇」の墓とされるヤツは、堺市の百舌鳥古墳群にある大山陵という前方後円墳で、全長が486mもあるで、初代の「天皇陵」は
 「神武天皇」の埋葬地は一応、記紀にも記述はあるのだが、それがどこであるかは室町時代には分からなくなっていた。江戸時代になると歴史の好きなヤツが、それがどこであるか探し出したくなるわけだ。実際、国学者なんかが記紀の記述からあちこちの古墳を「○○天皇陵である」と認定しだしたのも、この時代である。
 で、記紀の記述を基にした「神武陵」の候補地が2カ所あった。ひとつは畝傍山の北東山麓にある丸山古墳、もうひとつは、その北東に300mほど離れたミサンザイ…田んぼの中に小さな塚があったらしい。ただ丸山古墳は被差別部落である洞の集落に隣接していたので、ミサンザイのほうが「神武陵」とされたのだ。
 1862年、ミサンザイは大改修され、「神武陵」として整備された。孝明天皇が攘夷の祈願をするためである。幕末に急遽、でっち上げられたものだと言っても良い。なおこの時、洞の部落は勅使を迎えるためにムシロで覆われたという。
 明治以降も「整備」は続けられ、「墳墓」の形も八角形になったり、円墳になったりと様変わりしながら、周辺には巨木も植えられた。洞の部落も1917年から20年にかけての拡幅工事で、移転させられてしまう。

 なお「神武天皇」とやらが実在したのか…紀元前660年に戻れば弥生時代であり、「神武天皇」は127歳まで生きたことになっている、そんなヤツは実在しないとなるのだが、モデルとなる人物はいたのではないか…大和朝廷の大王は、先祖は九州、日向の国から流れて来た…というだけ。さらに言うと、三国志の呉の遺臣みたいなヤツが、日本列島に流れ着いた。九州の北部は、魏(呉が滅んだときは、晋)と友好関係にあった倭国が支配しているので、南部の日向に落ち着いたが、それでも安心できないので、瀬戸内海を通って、畿内に来た。それが「神武東征」伝説の元話であろう。

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