明治維新をdisろう!…その1
「未来253」号に「明治維新150年キャンペーンのうそ 先進的な憲法構想を抹殺」という記事がある。8月8日に「戦争あかん!ロックアクションが主催する講演会 」の内容を紹介するもので、明治維新は反革命!と断罪している。具体的には、幕末期の欧米列強の「外圧」に抗し、「無能な封建支配」を続けていた江戸幕府を打倒し、「近代化」への道を歩み始めた「明治維新」…というのはウソであるということだ。
講演は拓殖大学教授の関良基氏によるもの…関氏は幕末の信州上田藩士、赤松小三郎に着目し、「赤松小三郎ともう一つの明治維新―テロに葬られた立憲主義の夢」(作品社 2016年)を著している…で、そのレジメも手に入れたから、おおよそ講演の内容も把握した。そこで、このレジメや関氏の主張も踏まえながら、明治維新をdisってみよう…というのをやってみる。
ここで、なぜ明治維新「批判」ではなく、disるだけなのかということであるが、数多くの明治維新批判のメインストリーム…「明治維新」が「近代化」と引き換えに、天皇中心の政治体制を作り、北海道、琉球、台湾、朝鮮などへの侵略を進めて行った政体をつくったことを批判することは簡単だが、それを急ぐあまり「全否定」もできないでしょ…というもの、さらに言えば、関氏が持ち上げる赤松氏が構想した政体、議会制民主主義が、なんの暴力も、テロリズムもなしに幕末に成立するわけないでしょ…という意趣返しでもある。
ここで、なぜ明治維新「批判」ではなく、disるだけなのかということであるが、数多くの明治維新批判のメインストリーム…「明治維新」が「近代化」と引き換えに、天皇中心の政治体制を作り、北海道、琉球、台湾、朝鮮などへの侵略を進めて行った政体をつくったことを批判することは簡単だが、それを急ぐあまり「全否定」もできないでしょ…というもの、さらに言えば、関氏が持ち上げる赤松氏が構想した政体、議会制民主主義が、なんの暴力も、テロリズムもなしに幕末に成立するわけないでしょ…という意趣返しでもある。
ただ、先に「無能な封建支配」を続けていた江戸幕府…と書いた。これを打倒したことはスバラシイ!あるいは最低必要だったのでは?という話がある。だが、少なくとも幕末の対外政策において、江戸幕府は決して「無能」ではなく、むしろまっとうであった。これは関氏のレジメにもあるし、その元ネタである「幕末・維新(シリーズ日本近現代史①)」(井上勝生 岩波新書2006年)を読んでも明らかである。
幕末にペリーがやってきて、開国…その後、アメリカと日米修好通商条約を結び、同様な条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ぶことになる。この条約が「不平等条約」で、日本の独立を脅かすトンでもないものだった、幕府は「無能」だったので、このような条約を押し付けられたのだ…というのがこれまでの通説だ。
ところが、幕末に外交交渉を行った役人たちの能力は非常に高く、ペリーに対しても言うべきことはちゃんと言っている。日米修好通商条約は、関税率が20%と高く(よく「関税自主権がない」と言われているが、一定の「協定関税」で固定されていたということである)、アヘンは貿易の禁制品目に指定されるなど、決して日本が一方的に不利なものでもなかった。「治外法権(領事裁判権)」も、外国人は居留地とその周辺にしか住めない等の制約とバーター的なものであったと解釈できる。外国人は居留地外での商売は認められないから、これは日本の産業を「保護」することにもつながっている。
この「安政条約」は、後に長州が「攘夷」を叫び、下関で四か国艦隊と戦闘することで改悪され、関税率が5%と清国やインド並に引き下げられたのだそうな。こっちが「不平等条約」の始まりらしい。
とにかく、開国で貿易が開始された。岩波新書「幕末・維新(シリーズ日本近現代史)」によれば「1859(安政6)年6月、横浜と長崎、箱館の3港で自由貿易が始まった。日本の輸出超過、つまり貿易黒字で始まる。はじめて丸1年を経た翌年も、輸出471万ドル、輸入166万ドルとやはり輸出が多かった。七年後の65(慶応元)年には、輸出1849万ドル、輸入1514万ドルで、一転、輸入が急増した。輸入はその後も増え、維新直前の67年には、輸入2167万ドル、一方、輸出は1212万ドルとやや停滞するが、その後は次第に増加の傾向をたどる。このように、67年から日本の輸入がやや超過に転じたが、貿易はおおむね順調に急転した。とくに貿易黒字に転じた欧米側にとって、予想を上回る順調な貿易であった。」(p109)とある。なお関氏によれば、1865年に貿易収支が逆転したのは、その前に改定された「不平等条約」がきっかけだとしている。
日本が輸出したのは生糸とお茶であり、輸入は木綿製品だ…生糸の輸出によって、それを売り込む商人に資本が蓄積した一方、木綿の栽培は縮小、消滅に向かう。ただし綿織物産業は明治維新後、輸入綿糸によって勃興した所も出てきた。また国際水準に比べ著しく低い金銀交換比率により、当初は金が国外流出したが、幕府が改鋳を行ったため金貨rの流出は止まった…ただし物価は高騰した…開港による経済の混乱は、実際のところそれほどでもなく、「従来のように貿易の開始を、在来産業が壊滅させられ、社会に『不安と混乱』が巻き起こったとみるのは一面的に過ぎる。貿易初期について見ても、生糸売り込み商人の盛んな活動に代表されるように、貿易への参加が広範にみられ、それが日本の独立の真に広大な基盤になった。」(p113)とのことである。
わざわざ「尊王攘夷」なんぞ叫ばなくてもよかったということだろう。
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幕末にペリーがやってきて、開国…その後、アメリカと日米修好通商条約を結び、同様な条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ぶことになる。この条約が「不平等条約」で、日本の独立を脅かすトンでもないものだった、幕府は「無能」だったので、このような条約を押し付けられたのだ…というのがこれまでの通説だ。
ところが、幕末に外交交渉を行った役人たちの能力は非常に高く、ペリーに対しても言うべきことはちゃんと言っている。日米修好通商条約は、関税率が20%と高く(よく「関税自主権がない」と言われているが、一定の「協定関税」で固定されていたということである)、アヘンは貿易の禁制品目に指定されるなど、決して日本が一方的に不利なものでもなかった。「治外法権(領事裁判権)」も、外国人は居留地とその周辺にしか住めない等の制約とバーター的なものであったと解釈できる。外国人は居留地外での商売は認められないから、これは日本の産業を「保護」することにもつながっている。
この「安政条約」は、後に長州が「攘夷」を叫び、下関で四か国艦隊と戦闘することで改悪され、関税率が5%と清国やインド並に引き下げられたのだそうな。こっちが「不平等条約」の始まりらしい。
とにかく、開国で貿易が開始された。岩波新書「幕末・維新(シリーズ日本近現代史)」によれば「1859(安政6)年6月、横浜と長崎、箱館の3港で自由貿易が始まった。日本の輸出超過、つまり貿易黒字で始まる。はじめて丸1年を経た翌年も、輸出471万ドル、輸入166万ドルとやはり輸出が多かった。七年後の65(慶応元)年には、輸出1849万ドル、輸入1514万ドルで、一転、輸入が急増した。輸入はその後も増え、維新直前の67年には、輸入2167万ドル、一方、輸出は1212万ドルとやや停滞するが、その後は次第に増加の傾向をたどる。このように、67年から日本の輸入がやや超過に転じたが、貿易はおおむね順調に急転した。とくに貿易黒字に転じた欧米側にとって、予想を上回る順調な貿易であった。」(p109)とある。なお関氏によれば、1865年に貿易収支が逆転したのは、その前に改定された「不平等条約」がきっかけだとしている。
日本が輸出したのは生糸とお茶であり、輸入は木綿製品だ…生糸の輸出によって、それを売り込む商人に資本が蓄積した一方、木綿の栽培は縮小、消滅に向かう。ただし綿織物産業は明治維新後、輸入綿糸によって勃興した所も出てきた。また国際水準に比べ著しく低い金銀交換比率により、当初は金が国外流出したが、幕府が改鋳を行ったため金貨rの流出は止まった…ただし物価は高騰した…開港による経済の混乱は、実際のところそれほどでもなく、「従来のように貿易の開始を、在来産業が壊滅させられ、社会に『不安と混乱』が巻き起こったとみるのは一面的に過ぎる。貿易初期について見ても、生糸売り込み商人の盛んな活動に代表されるように、貿易への参加が広範にみられ、それが日本の独立の真に広大な基盤になった。」(p113)とのことである。
わざわざ「尊王攘夷」なんぞ叫ばなくてもよかったということだろう。
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