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明治維新をdisろう…その6「公儀政体論」は成り立ったか?

 そろそろこのシリーズも一応の「まとめ」みたいなことをしておかなければならない。その1 のところで、「、関氏が持ち上げる赤松氏が構想した政体、議会制民主主義が、なんの暴力も、テロリズムもなしに幕末に成立するわけないでしょ…という意趣返し」である。

 幕末において、欧米流の議会制度を取り入れて政治をしようという考え方を「公議政体論」と呼ぶ。提唱する人によって温度差があるのだが、徳川将軍家を元首とした上でその下に諸侯会議を置くというものから、公家・諸侯による上院と、庶民も含めた下院を組織しよう(赤松のそれは下院を普通選挙で選ぼうという画期的なものだ)というものまである。いずれにしても「諸侯」すなわち大名が「議会」の構成員として参加することが想定されている。

 諸侯による会議で物事を決めようとする事例が、幕末で2回存在した。ひとつは1893年(文久3年)の年末から数ヶ月行われた「参与会議」であり、もうひとつは1867年5月の「四候会議」である。「参与会議」は薩摩と会津・徳川が組んで行われた8月18日の政変で長州勢力を京都から駆逐した後、長州の処分と横浜の鎖港(攘夷の実行)をどうするか?という点について、薩摩藩主の父島津久光、越前藩前藩主松平慶永、宇和島藩前藩主伊達宗城、土佐藩前藩主山内豊信、徳川慶喜一橋徳川家当主・将軍後見職、松平容保会津藩主・京都守護職の6名が「朝廷参与」として任命され発足した。「四候会議」は第二次長州征伐が幕府側の敗北に終わり、また14代将軍家茂の死後、すったもんだのあげく徳川慶喜が15代将軍にやっと就任した後に、長州の処分(幕府との戦争に勝利したとはいえ、まだ「朝敵」扱いのまま)と兵庫開港についてどうするか?という点について、島津久光、松平慶永、伊達宗城、山内豊重(容堂)らで話し合ったもので、正式な機関ではないが、徳川幕府に対する諮問機関的なものとして発足した。
 いづれも長続きしていない…「参与会議」は横浜鎖港をめぐって島津久光と一ツ橋慶喜が激しく対立し、三か月ほどで崩壊した。「四候会議」は徳川慶喜も関与することになるのだが、やっぱり久光と慶喜の対立により一か月で破綻してしまう。「公議政体論」の前段となる「諸侯会議」の事例が、2回失敗しているのだ。
 失敗の理由としては様々あるだろうが、いずれにしても「会議」の参加者の身分が「諸侯」すなわち大名家の代表ということであれば、それぞれの「お家の事情」を反映させざるを得ない。島津久光なら島津家の、一ツ橋(徳川)慶喜なら、徳川家の都合が優先される。封建諸侯が領地や民衆支配のあり方などをそのままに「国の大事を決めますよ~」と会議に参加しても、実りの多いものにはならない。
 薩長による「武力倒幕」構想が具体化する中、徳川慶喜は「大政奉還」で幕府権力を朝廷に返上する。幕府を畳んでしまえば「討幕」されることはない、朝廷には政権担当能力はないので、いずれ政権は徳川に帰って来る。政権が「宙ぶらりん」であっても「公議政体論」による「諸侯会議」でヘゲモニーは握れるハズ…という徳川家にとって乾坤一擲の手である。徳川の領地400万石はそのままだし、幕府も軍制改革を行い、独自の「幕府陸軍」を持っていた。加えて榎本武明が率いる、開陽丸を持つ海軍もある…
 「大政奉還」後の、薩長による鳥羽伏見の戦いからはじまる戊辰戦争にはなんら「大義」なぞないのであるが、薩長がクーデターも起こさず、「公儀政体論」で政権運営をしたところで、別の形の徳川独裁が続いたであろう。ただ、「公儀政体論」を導入することで、諸侯とその家臣クラス、さらには下級武士や豪農・豪商階級が政治参加する道は開ける。その中でいずれ「徳川独裁」や、封建的な領地や民衆支配方法に対する不平不満が広がり、なんらかの形で「武力による解決」→「革命」に至る可能性は高かったのではないだろうか
 薩長の武力倒幕を批判(批難)し、公儀政体論を重要視する人の中には、武力倒幕を批判するあまり「武力」を使うことも否定したがる人もいるだろう。だが「公儀政体論」をそのまま適用すれば、「公論」でもって日本が近代化していくというものでもない。いずれ何ら彼形で、「武力革命」を行うことになったであろうと思うが、どうか

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