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明治維新をdisろう…その4、吉田松陰生き方編

 明治維新を「批判」する言説の中で、「勤王の志士というのは、テロリストじゃないか」というのがある。テロリストが、明治新政府をつくった←テロはダメでしょ←明治新政府ってアカンやん…という論理構成なのだが。いや、テロ、暴力一般を全否定して、時の政権を打倒し、体制を変革することは不可能でしょ

 逆に右側、体制側から維新を「評価」する側も、そこに至るまでどれだけ凄まじい暴力のやり取りがあったかということを抜きにしている。「維新」なんて政党名をつけているヤツらが典型的だ。坂本龍馬たんは… 幕府権力からみれば「過激派」であり、常に体制側(江戸幕府)から命を狙われる「覚悟」をもって活動していたハズだ。現代の「維新」なんて、体制側には絶対暴力もふるわないクセに、公務員や弱者に「改革」と称してキバを向いて来るから、たまったものではない。

それはともかく、その「テロリスト」の親玉、思想的指導者が、長州の吉田松陰ということになるらしい。この人に触れずして、明治維新を語ってもしょうがないので、吉田松陰について触れてみる。
_0001 元ネタは、こちら…FOR BIGINNERS吉田松陰(文/三浦実 イラスト/貝原浩 1982年第一版)当然、本書は松陰を肯定的に紹介している。

 本書の最初のほうに「それにしても松陰ほど評価が別れ、それでいながら左翼にも右翼にも信奉者もつ人物は日本史のなかでは稀有といっていいだろう。」「しかし松陰がユニークな存在として歴史にあるのは先見性によってではない。彼の生きざまが幕末に活躍した志士の誰よりも、世界の革命家の誰よりも『政治家』的資質に欠けた革命家だったという特異性によってでもある」(p20)とある。
 良く知られているように、松陰は外国事情を知るべく、アメリカに密航しようとした。ペリーが二回目に来た時(1854年)、アメリカ船に弟子とともに乗り込み、アメリカに連れていって欲しいと頼み込んだのだ…このへんの行動力はスゴイ…で、断られるのだが、翌日、下田奉行所に「自首」しちゃうのである。もうこのへんで訳が分からん当面の「外国事情を知る」…そのためには、何度でも「密航」を試みるか、別の合法的な?手段を探すか、どちらにしても「自分を大切にして下さい」としか言いようがない。この密出国事件のおかげで囚われの人となり、長州に送還、「野山獄」に隔離同然押し込められることになる。 
 徳富蘇峰の「吉田松陰」の中で、蘇峰は「彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり、彼の一代は失敗の一代なり。」と記している。本書でも「やることなすこと失敗続き」(p130)と紹介されている。野山獄から出されて松下村塾を主催してから、彼の思想は過激になり、早々と「幕閣の暗殺」→「討幕」を目指し、構想するのだが、空理空論、地に足がついていない。「理論と情熱が先行して現実認識が甘すぎるのだ」(p131)で、老中襲撃の武器を周布正之助(藩の要人である)に援助して欲しいと願い出る。そんなモノ、かなえられるハズもない。1858年の暮れには再び「野山獄」に押し込められることになる。獄中でも倒幕計画をたて、松下村塾の弟子たちにその実行を迫るが反対される。「僕とは所見が違うなり、その分かれる所は僕は忠義をするつもり、諸友は功業を為すつもり」と、松陰は弟子たちと決別する。
 時代は「安政の大獄」の真っただ中である。1869年4月、幕府は吉田松陰の償還を命じた。容疑は梁川星厳や梅田雲浜といった、攘夷を唱える国学者との関係である。7月に幕府の評定所において、梅田雲浜との関係や、幕府を誹謗した落とし文について聞かれた。松陰は梅田と謀議をしたこともないし、落とし文なども関係なかった。このまま黙っていれば何事もなかったハズなのだが、彼は幕府の役人に対し、自分のやってきた計画について問われもしないのに語りだした…老中暗殺計画や倒幕計画を、打倒対象である幕府の役人にしゃべっちゃったのである。もちろんこれらの「計画」は松陰の頭の中でほぼ止まっているようなもので、何ら具体的な形、「未遂」ですらなっていないのだが、こりゃぁ幕府も捨ててはおけない…そのまま牢に留め置かれ、12月に処刑されることになる。
 「安政の大獄」とは幕府に歯向かう人たちを弾圧したものと捉えられているが、より詳しくみれば将軍継嗣問題…病弱で子どものいない13代家定の後に、一橋慶喜をたてるか、紀州の徳川慶福(後の家茂)をたてるかで争いがあり、一橋擁立グループが敗北…その後も「一橋派」がいろいろ朝廷を通じて工作等をするものだから、それに対抗して井伊直弼が「大弾圧」をしたものである。松陰は心情的には「一橋派」に近かったかも知れないが、べつに一橋慶喜擁立運動をしたわけではない。梅田雲浜とも謀議しておらず、「落とし文」とも関係がないならば、ほぼ幕府からは”おとがめなし”だったハズ。まったくAFOなことで命を落としているのだが、別な見方をすれば、非常に(BAKAがつくほど)正直な人間であったと言えよう。どっかの(彼を尊敬すると自称している)首相とは大違いじゃないか
こういう「失敗だらけだが、正直な」吉田松陰ってのも魅力だろうな。なお、幕府が松陰を刑死させたことが、最終的に彼の弟子たちを「討幕」に向かわせたとも言える。もし松陰がちょっとまともになって、幕府から殺されなかったら、歴史は違っていたかも知れない。

なお松陰の思想についての検討は別途行う。

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