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明治維新をdisろう…その3、植民地化の危機はあったか?

 

その2 で長州の周布正之助や木戸孝允らが、はじめは「開国」で動いており、横浜貿易への参入を試みたり、「航海遠路策」を引っ提げて登場したり…というようなことを書いた。その長州がなぜ「尊王攘夷」の急先鋒になったか
 単純に「孝明天皇が、攘夷の意向だった」からとしか、言いようがない。

 その2で書いたように、幕府が大名や朝廷などから意見を聞いて、対外政策等を進めようとした。大名・武家は「開国やむなし」となるのだが、京都にこもって実態経済を運営していない、朝廷・公家は違った。「異国をいれるとは何事じゃ、打ち払え」というわけ。少し後の話になるが、1863年、前年に薩摩が起こした「生麦事件」の賠償支払いが決まった時、孝明天皇は「震怒」し、自筆の勅書を幕府に発する。そこには「皇祖神に対したてまつり、申し訳これなく、」「たとえ皇国、一端、黒土になりそうろうとも、開港交易は決して好まず」と書かれていたそうな。いやぁ~皇祖神に申し訳ないから、たとえ国土が”黒土(焼野原)”になってもいいんで攘夷をしろと言ってるわけだ。

 当時の”常識”として、天皇、朝廷を「ないがしろ」にすることは許されない…という意識があたりまえのようにあり、天皇の意向を「忖度」するほどエライということになる。加えて長州は1858年に「朝廷に忠節、幕府に信義、祖宗に孝道」という綱領を決めている。そうなると天皇の意向をくんで「攘夷」したほうがエエんじゃね?そうすれば京都政局における地位も確保できるし…ということで、1862年7月、京都三条河原町の藩邸における御前会議(藩主の前で行う会議)で、「破約攘夷」攘夷決行を藩是と決定したのである。

 ただ藩是を「攘夷決行」にできるのは、単に「天皇の意向」だけでは無理で、それなりに「世論」の後押しも必要だ…で、この時代は、列強によるアジア侵略が進められていた時代でもあり、幕府も含め、武士階級の有力な人たちは1840年の「アヘン戦争」について情報を得ていたし、同時代には「アロー戦争(1856年)」から天津条約、インドにおいては「インド大反乱(セポイの乱 1857年)」からムガール帝国の滅亡…ということが起こっている。欧米列強の「開国要求」が、そのまま「植民地化」に向かうのではないか?と危機感を覚えた人も多くいたであろう。そういうことも背景に「攘夷論」というのは広がってゆく。
 明治維新を「評価」する考え方として、この欧米列強からの「植民地化」圧力が、「攘夷論」を生み、そのエネルギーが「討幕」から中央集権的な近代国家成立へと導いたとする。実際、「攘夷」を行って「植民地化」に抵抗、対抗するためには、軍備を近代化せねばならず、長州もふくめ多くの藩が「軍制改革」を行って「西洋銃陣」を取り入れようとした…だが「西洋銃陣」は、同じ銃を持った均質な兵士の人数をそろえることが基本であり、身分、階級の複雑な武士階級をそのままにした上で導入してもうまくいかない。そうゆう「封建的身分制度」をぶち壊し、粉砕する必要があった…その原動力として「尊王攘夷」運動が果たした役割は大きいだろう。

_0001  だが、幕末期の「植民地化の危機」について、後付けになるのではあるが、列強は日本を植民地化する意図も能力も無かった…というのがホントのところらしい。岩波新書の「幕末・維新」によれば、「生麦事件」後の外国人居留地で起きた「即時報復」論に対しても、「しかし、イギリス代理公使ニール(オールコック公使は帰国中)は、『日本と開戦することに等しい」と拒否し、海軍キーパー提督にいたっては、問題に関与することも断った(『一外交官の見た明治維新』)。イギリス外交部は日本に対して慎重であったし、香港を本部にする、極東のイギリス海軍は外交部以上に慎重であった。」(p113)そうな。この後、倍書金支払いをイギリス海軍の力で勝ち取るよう、本国外務省から訓令が来ても「しかし、海軍のキューパー提督は、慎重であった。日本の三港の安全を同時に保証する戦力はイギリス海軍には「とうていない」(キューパー)のである。こうして、日本現地のイギリス側の本音は、日本との戦争はなんとしても避けるというものであった。」(p114)そうな。

 さらに書けば、1861年にロシア軍艦が対馬の芋浦崎に来航し、勝手に兵舎を建設したあげく、対馬藩に永久租借を要求する事件があった。これについて
「ロシア軍艦の行動は、箱館のロシア領事も知らなかった海軍独走によるもので、明白な条約違反以外のなにものでもなかった。事件が「植民地化の危機」論争で必ず引用されるのは、日本に圧倒的な影響をもっていたイギリス公使オールコックが、「もし、露艦が、同島(対馬)から退去を拒む場合は、英国自身、これを占領すべきである」と言明し、イギリスが「日本占領」の意図を示したし、戦前の文部省維新史料編纂会編『維新史』で説明されてきたからである。
 実は、イギリス東アジア艦隊司令官ホープは、オールコックの言明に賛成しなかった。司令長官は、日本の開港場が中立港として利用可能であれば、経費も防衛費も要らないのであり、「日本の領域のどんな一部の一時占領でさえ」得策ではない、という見解であった。イギリス海軍は、中国の開港場を占領したために、経費と防衛費負担に苦しんでもいた。
 オールコックの対馬占領意見も、ロシアが退去しないのであればというロシアへの「対抗処置」であり、また、その目的は「それ(対馬)は、中国の港とわれわれの巨大な貿易の大きな保護手段となるでしょう。そしていつでも、北京の宮廷でのいかなる裏切り行為に対しても絶えざる威嚇となるでしょう」というように、日本での権益獲得のためではなく、巨大な中国権益保護のためなのである。それをも軍事作戦を統括する海軍当局が認めなったわけである。」(p117~118)

 また時代が「倒幕」段階になった時も、イギリスは局外中立を守っていたし、幕府側に加担していたとされるフランスも、実際のところベトナムへの侵略と、欧州で台頭するプロシア(ドイツ)への対応に重点を置かざるを得なかったという実情であったそうな。

 だから、結果的に「尊王攘夷運動」というのは、外国勢力に対する「過剰反応」であったともいえる。だが、当時の人たちはそんな細かな事情はまず分からないし、知ることもできなかった。あまり「後付けの理屈」をもって、当時の運動や理念が間違っていたということは、やってはいかんだろう。そうゆう意味で、明治維新「批判」ではなく、「disる」で止めている…ということもあるのだ。

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