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明治維新をdisろう…その5、吉田松陰思想編

 さて、吉田松陰の思想についてみてみよう。

 「勤王の志士」なんて、天皇がエライ!としか考えてない、民衆のことなんか考えていないんじゃ~!!!という「偏見」というか、時代制約と「武士階級」にいたことの限界性を考えれば、しょーがないなぁ~という点は前提としながら、「じゃぁ、吉田松陰はどうなの?」というところの考察だ。
 ネタ本は「FOR BIGINNERS 吉田松陰」である(80年代に松陰評価の立場で書かれたものだから、その後の研究、その他による別の評価もあるだろう…ということを念頭においてね。)

 1851年12月、江戸に遊学にでていた21歳の松陰は宮部鼎蔵(後の肥後勤皇党の代表的人物で、1864年の池田谷事件で負傷、自刃)と東北を視察する旅に出た。(長州藩はこの旅の”許可”をしていなかったため、松陰はこの時「脱藩」したことになる。)
 「ふたりは白河、会津、新潟、そして佐渡へ渡った。初めて踏んだ東北の地で、松陰は「その山水は、吟人墨客の観に適すといえども、その農桑の業においては困苦もまた如何ぞや」、と農民と農民のおかれた過酷な農事状況に目を向け、佐渡では囚徒や無頼の徒が働く金山の坑内に「衣を脱ぎ一短弊衣を着、縄を以って帯となし」という鉱夫と変わらない姿で地底深く入り、その現場をみた印象を「……おおむね四十人ばかり昼夜更番す。強壮にして力あるものと雖も十年に至れば羸弱(体が弱る)用に適せず。気息奄々あるいは死に至る、誠に憐れむべきなり」と怒り、涙で記している。
 当時の武士で見学のために坑内に入ったのは彼だけだろうし、劣悪な環境と過酷な支配と賃金の安さを指摘した武士も彼だけだろう。」(p48~49)
 「士たる者は三民(農工商)の業なくして三民の上に立ち、任君(君主)の下におり、君意を奉じて民のために災害渦乱を防ぎ、財政相たすけるをもって職とせり。然るに今の士たる者、民の膏血をしぼり、君の俸禄を盗み、この理を思わざるは実に天下の賊民と言うべし。」(p51)

_0001  てなことが書かれている…少なくとも、政治は民衆のために行うもので、当時の政治はそうなってない
と考えていたことは事実だろう。その「理想」のための「思想」として、「天皇を中心とした政治」という…幕藩体制下ではある意味「革命的」だった…尊王思想ということだ。
 彼の「攘夷思想」は以下のようなものだったそうな。
「鎖国はもとより苟偸(一時のがれ)の計にして末世の弊政(悪政)なり」と姑息固陋な攘夷主義者を指弾し、「……万国を航海つかまつり、知見を開き、富国強兵の大策相立ち候よう仕りたき事に御座候」(『続愚論』)という開明主義者でさえある。ただ阿片戦争などの事実から松陰は西欧諸国を無法な侵略者とみていたのだが、それがペリーの恫喝外交によってその正体を確認した。これに屈して開国することは民族の自立、自決、自由を失う亡国の道だと彼は考えていた。
 その渦中にあって戦おうとしない者は「その罪、逆賊より百等よりも重きなり」というのが松陰の攘夷論である。(p75)
 なぁ~んだ、「開国」にもちゃんと意識を向けていたわけだ…なるほど、彼の弟子たちが攘夷はムリだと悟れば、開国にすぐさま舵を切れるのも良く分かる。
 さらには、期限をきっているもの、非戦・軍縮も提案している。ペリーと条約を結ぶ前は「攘夷戦争」を声高に叫んでいたのだが、
「西洋夷と兵を交うるが如きは十年の外に非ざれば決して事なし」(『獄舎問答』)と、10年に年限を区切ったにしろ戦争反対というふうに180度変貌。そして軍備についても
「余の策する所は、武備の冗費を省き膏沢(恩恵)を民に下さんとあり、四窮無告(恵まれない人に)の者は王制の先にする所。西洋夷さえ貧院、病院、幼院、聾唖院などを設け、匹夫匹婦(平凡な男女)もその所を得ざる者なきが如し、いわんや吾が神国の御宝(農民)にし犬馬土芥の如くして可なんや……」(同上)。

と、時代の潮流に逆らって縮小論を展開、その金を人民にまわせと主張(p93)
 全然民衆のことを考えなかった天皇主義者…というわけではない。松陰を「テロリストの親玉」などとくさして、維新をdisたつもりになっても、具体的にみるとそうとは言えない…というわけだ。
 アジア侵略思想について…松陰を語る、批判する上で必ずでてくるのが、彼の思想が後のアジア侵略に結びついた、という指摘である。(この視点は、先の引用本にはまったく触れられていない)具体的には「幽囚録」にある次の記述である。
 今急に武備を修め、艦ほぼ具わり砲ほぼ足らば、すなわち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じてカムサッカ・オロッコを奪ひ、琉球を諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂栄の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし

 たしかに、後の近代日本が歩むアジア侵略のススメ!みたいなことを書いている。
 実は、薩摩の島津斉彬も同じようなことを書いている…「大陸出撃策」というものだ。ただ、これを紹介しているのが、林房雄の「大東亜戦争肯定論」であり、ネットでは島津斉彬自体がどのように書いているのか?ということがイマイチよく分からない。内容的には、日本の諸侯を三手にわけて、「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州諸藩は安南、咬留巴(カルパ)、爪哇(ジャワ)、印度「に進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹(シベリア)、満州を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南支那海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる」というものだ。日本の大名を三手に分けて侵攻しようとしている分、松陰のそれよりも具体的であるし、「英仏の東漸をくいとめる」とは、一種の「積極的攘夷論」でもあろう。
 同時代の吉田松陰と島津斉彬が似たような構想を持っていた…ということは、別に誰か「元ネタ」を考えた人間がいるか、似たような構想が思い浮かぶぐらい、当時の思想的背景があったとみるべきだ。「攘夷論」「開国論」を問わず、当時の人々がどのような「対外政策」案を持っていたのか?もう少しいろいろ調べてみる必要がある。
 開国論者で「尊王攘夷ナンセンス!」と考えていた「幕府側」の人、福沢諭吉は維新後に「脱亜論」を著すなど、「アジア侵略思想」を裏打ちする思想家になるのだが、諭吉が幕末時に松陰の「幽囚録」や斉彬の「大陸出撃策」を読んだとすると、それについて、どう考えたかなんてすごく知りたいテーマだ。

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