「キングダム」で解く中国大陸の謎(その2)
安定した周王朝は紀元前771年、西の異民族「犬戎(けんじゅう)」によって12代周王が殺害されたことによって動乱の時代に入る。周は拠点を東に移し「東周」と名乗るが、その権威は凋落した。これが「春秋時代」の始まりだ。この時期、中国には300近い邑(ゆう)がひしめいていたが、次第にその淘汰が進んでいくとともに、力のある諸侯は独自に勢力を伸ばすようになる。これが「覇者」だ。彼らが掲げたのが「尊王攘夷」すなわち、周王室を尊び、夷(異民族)をうち払うというものである。
先ほど「生産力が低いので宗族でまとまらないと農作業なんかできない」などと書いた…核家族で農作業をしても十分な量が収穫できない、大規模に農業を行ったほうが生産量は多くなる。だから複数の一族が一緒に集落を営んでいたわけだが、この複数の一族が軋轢を起こさないために「祖先神信仰」が共有され、氏族性の秩序が保たれている必要がある。そういった秩序の一つに「本家」のほうが「分家」よりも地位が高いというのがある。複数の一族が協力して農作業を行う、集落を営むと書くと一見すばらしいことのようでもあるが、本家・分家の身分制度が絶対である「差別」「抑圧」の体系、秩序の中にいるわけだ。そして生産力が少ないので、その秩序から外れると飢え死にするしかない。
ところが春秋時代が進むと、農業における技術革新が進む…具体的には鉄の農具の大量生産と「牛犂耕(ぎゅうりこう)」である。鉄の犂を牛にひかせて深く耕すことで生産力がアップする。そうすると、分家の者が本家の下に甘んじていなくてもよい状況が生まれてくる。家族ごとに「自立」することが可能になって来るのだ。そうすると、「氏族制」…本家・分家の身分制度…が揺らぎ始める。
同様のことが支配階級の中に起きてくる…裕福な人間が支持され、権力が集まる。君主が家臣にとってかわられる「下剋上」が起こって来るようになる。今の山東半島あたりを治めていた「斉」では紀元前481年、田氏がクーデターを起こし、紀元前386年に王が呂氏から田氏に変わっている。春秋時代の初めに中原を治めていた「晋」も名門氏族の趙氏、魏氏、韓氏が勢力を伸ばして独立するというようなことも起こっている。この独立が認められたB.C.403年から先を「戦国時代」と呼ぶことになる。
とはいえ、氏族制そのものは1000年以上にわたって当時の人びとに染みついていた「道徳」でもあり、それを完全に破壊することは、各諸侯が世襲で支配している根拠も失われることになる。それでも生産力の向上により氏族制の解体が進めば、歴史学者たちは「歴史が穏当に進行したならば、統一は紀元0~200年年頃に起きるのが自然だった」(p14)とみているそうだ。それが現実には紀元前221年に秦が統一を行うことになる…それは何故か?
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