沖縄戦から見た辺野古の今
昨日、PLP会館で行われた「STOP!辺野古新基地建設!大阪アクション5周年の集い 沖縄戦から見た辺野古の今 ―牛島司令官はなぜ住民を巻き添えにしたのか?―」に参加してきた。講師は牛島貞満さん、沖縄戦の第32軍司令官であった牛島満中将の孫にあたる方である。
14時に集会開始、まず主催者あいさつとしてジュゴン保護キャンペーンセンターの松島さんがあいさつ。辺野古の現状や沖縄県が起こした裁判等について触れた。第二の沖縄戦が準備されているといえる中で、もういちど沖縄戦とは何だったのか?ということを考えたいとのこと。
つづいて松島さんからの紹介の後、牛島さんが登壇。元教員ということで、非常にさっぱりした感じの方である。大阪のノリに私がついていけるか不安はあるが、よろしくお願いしますと始められた。
まず沖縄戦の概要について、そして住民から見た沖縄戦ということで、自ら聞き取りを行った安里要江さんの証言映像や、沖縄戦の映像(ちなみに日本軍は戦争の初期は映像や写真で戦争の記録を残していたものの、負けがこんでくるとそれどころではなくなり、沖縄戦の記録映像、写真はすべて米軍からのものであるそうな)なんかで説明された。
「鉄の暴風」というのは、文字通り砲弾の破片がビュンビュン飛んでくる…牛島さんは本物の「砲弾の破片」を持ってきて、聴衆に回した…それが下の写真。
私の手と比べても、そんなに大きな物ではないのだが、すごく重い!こんなのが飛んでくるのだ。もし当たればひとたまりもないという事が実感できる。
安里さんたち、沖縄戦で戦火に巻き込まれ逃げ惑った人たちにとって、日本軍、軍隊は結局、住民を守らなかった。では日本軍は何のために沖縄に来たのか?
つづいて牛島さんは、祖父、牛島満司令官がどんな人であったか?沖縄の人びとからどのように思われていたのかということについて語った。
家族にとって①子ども好き②怒らず優しい③お酒が弱く、料理が好き…という人だった。特に最後の「料理が好き」というのは、男子厨房に入らずの時代の軍人としては特異なものだろう。(酒が弱いのは、牛島さんにも引き継がれているそうな)
沖縄で直接、牛島司令官にあった人に聞いてみても、優しい人であった、宿舎の近くで子どもと遊んでくれたというような証言が得られるそうな。そうゆう「普通の人」が、最終的に沖縄の人びとに対してどうであったのか?
もうひとつ、司令官というのはどうゆう人か?前線において作戦を「決定する人」であり(作戦を立案するのは参謀だが、それを採用するのは司令官)また戦争(戦闘)を始め、終わらせる権限をもった人である。
沖縄戦とは何か?という事については、本ブログの読者では自明のことであるが、本土決戦のための時間稼ぎであり、国体(天皇制)を守るためのものであった。実際、沖縄戦をやっている時に本土決戦のための「松代大本営」建設を進めていたのである。
本土(皇土)を守るための防波堤だったのである。だから大本営は第32軍に対し、持久戦をやるよう命令していた。もっとも第32軍の中では、米軍が上陸したら積極的に攻勢に出たい!と考える(知波単魂?満載な)将校も多かったらしい。また戦闘の所詮で米軍に北飛行場(読谷補助飛行場)中飛行場(嘉手納飛行場)を取られたため、大本営も「攻勢に出よ」との命令を出し、実際4月8日と5月4日に攻勢に出ている。これで日本軍は兵力の2/3(約6万4000人)を失い、米軍が首里の司令部に迫ってくる。ただ兵力は減ったものの、武器弾薬・食糧はまだあり、首里も周辺の陣地も健在である…ここで頑張っても1か月ぐらい持ちそうだ…
ここで牛島さんから問題…自分だったら、どちらの作戦をとるか?
①首里でそのまま戦う
②南部に下がって戦う(南部撤退)
もちろん、南部に下がれは避難した住民を巻き込むことになる…多くの聴衆は①を選んだ。②を選んだ人に牛島さんが理由を尋ねたら、持久戦をやるのであれば南部でゲリラ戦をやったほうがいいからということだ(ちなみに答えた人は韓国から来た兵役経験者らしい…なんかすごい人が講演会に来ている。他、沖縄戦参加者である100歳!の方もおられた)
牛島さんも②は軍中心の考え方で、住民のことを考えればあり得ない作戦であると述べられた。重要なことはこの「南部撤退」は大本営の命令ではないので、他の選択肢はなかったのか?と考えることも可能だ。実際、第32軍の幹部たちは「米軍は文明国の軍隊だから(住民は)捕虜になっても大丈夫だろう」というような判断もしていた。住民を巻き込んで戦闘を継続することは必要なかったのだ。
だが日本軍は5月22日の作戦会議で「南部撤退」を決定する…ちなみに南部撤退が「成功」したのは、たまたま梅雨の大雨で米軍の攻撃が鈍ったためだそうな。これ以降、住民が巻き込まれて亡くなるケースが続出する。先の安里さんも、5月には家族で避難を続けながらも、なんとか死者を出さずに済んでいたのが、6月に入ると次つぎと家族を亡くしていくことになる。
さらに追い詰められて6月18日、摩文仁司令部壕で最後の命令が出される…「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」(生くべしと言っているが、これは天皇のために死ねと言っているのである)…ではこの命令が出てから、沖縄戦が終わったのはいつか?
①6月22日または23日(牛島満の命日、沖縄県慰霊の日)
②8月15日(大日本帝国がポツダム宣言を受け入れたことを天皇が国民にラジオ発表した日)
③8月15日より後
答えは、③…日本が連合国に降伏文書調印した9月2日より後の、9月7日に嘉手納で米軍と日本軍との間で停戦した日が、実質沖縄戦が「終了」した日になる。なぜなら司令官が戦闘を中止し、武装解除せよと「命令」しない限り、兵士は闘い続けなければならない…無意味な「切り込み突撃」が続いたのである。「本土」は降伏できたが、沖縄は降伏できなかったのだ。
人間的に「優しい」牛島司令官も、住民を巻き添えにする南部撤退を決定し、降伏・武装解除の命令も出さずに「自決」したため、多くの沖縄県民の犠牲が出たとしか言いようがない。また司令官も時代の人だから「秋待たで 枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らむ」(秋を待たないで枯れてしまう沖縄島の青草=若者たちの命は、天皇中心の国の春によみがえるであろう)なんて辞世の句を詠んでいた。犠牲になった若者も、本土決戦をやって皇国の春が来ればよみがえるだろうということだ。
牛島さんはこの後、「南部撤退」について自衛隊関係者がどのように評価しているか…首里で「決戦」していれば、あとあとまで遺恨を残すような数々の悲劇も起きずに済んだ、住民の気持ちは収まらない、まさに生きた歴史の反省材料ではないか…というような言葉を紹介した後に、今の自衛隊は「国民を守る」のが任務なのか?国民保護計画は自治体が作成することになっている。国民を守るのは地方自治体であり、「国を守る」=「国民の命と暮らしを守る」ではなかったことを明白にしたのが沖縄戦であると訴えた。
そして「お題」の―沖縄戦から見た辺野古―について。狭い沖縄に米軍基地が集中しているにも関わらず、選挙や県民投票で示された民意を無視して、辺野古新基地建設が進められている。米軍基地があれば沖縄は安全だと言う人もいるが、海外での武力行使を前提としている海兵隊が沖縄県民を守ることがあるのか?とまとめられた。
牛島さんの講演の後、10分ほど休憩してカンパのお願い、そして「辺野古派遣サポート基金」「しないさせない戦争協力関西ネット―ワーク」「ジュゴン保護キャンペーンセンター」「日本基督教団大阪教区社会委員会」「9条改悪阻止!共同行動」からそれぞれ集会のお知らせ、イベントへの賛同・資金協力の依頼があった。
16時半ごろ、集会終了…参加は160名であった。
その後、PLP会館前から、デモでありますっ!
天神橋筋にでて北上し、天六の交差点で左折して中崎町を経て、梅田へ…OSビル前で流れ解散となった。
その後、有志で牛島さんを囲んで交流会が持たれた。
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