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「神武」はどこから来たか?

 先日のブログ記事で、日本列島は7世紀後半まで「倭国」と「近畿天皇家」王朝が並立していた…と書いた。倭国は中国・福建省あたりから日本に進出し、国家をつくった集団である。では、ヤマト王権を造ったのはどうゆう人たちか?

 ハイ、それは「みんな大好き三国志」に出てくる、呉の残党です!
 「三国志」のおさらいをしておくと…漢の皇帝から禅譲を受けて、魏の曹丕(曹操の息子)が皇帝になったのが220年、その翌年に劉備が蜀の皇帝となる。その翌年には呉の孫権が「独立」を宣言して、三国鼎立の時代になる。孫権が帝位についたのは229年で、「呉帝国」がはじまるわけだ。
 その後、蜀は263年に魏に降伏し、三国鼎立は終了する。ただその2年後の265年に、魏の曹氏が司馬氏に禅譲して、晋が起こる。その晋が呉を滅ぼしたのが、280年である。この時の呉の皇帝は4代目…孫権は7人の息子がいたのだが、長男、次男は孫健在位中に若くして亡くなり、三男・四男で帝位を争うことになる。三国志でおなじみの重臣たちも二派にわかれて争う始末。とうとう孫権は末子を跡継ぎにするのだが、ほどなく退位させられ、六男の孫休が三代目になる。孫休は264年、在位六年で病死・その息子が跡継ぎにならず、孫権の三男の孫和の息子、孫晧が四代目となる。この孫晧は評判は悪く、酒食におぼれ、極刑を頻繁に用いる「三国一の残虐な君主」だったそうな。まあそれはそれとして…
 呉が滅びるにあたり残党が海に漕ぎ出し、日本列島のほうに逃げてきたわけだ。その時に王族(孫休の息子あたり)を抱えていたならば、その名は孫ということになる。
 長江河口あたりから東中国海をまっすぐ東にいけば、天草、熊本あたりに到着する。ところで北九州は倭国の領域だ…倭国は魏志倭人伝にみられるよう、魏に朝貢している。魏の後を継いだ晋にも「晋書」武帝紀に266年に朝貢してきたという記録がある。そう、北九州、倭国は敵国、晋に朝貢している倭国なのだ…くわばらくわばら…
 ところで、彼らはあらかじめ日本・東方に逃亡するため先遣隊を派遣していたらしい。彼らの案内により上陸した孫さんご一行は、阿蘇山を突っ切って日向に抜けることになる。そこから瀬戸内を東進し(その過程で北部九州のほうに行き、倭国の勢力圏だったから引き返した)近畿まで向かう…大阪平野に「抵抗勢力」が居たので、熊野をぐるっと回って大和盆地にたどり着いた。これが「天孫降臨」「神武東征」のお話なのである!ちなみに「抵抗勢力」とは、百舌・古市古墳群をつくった連中、百済から渡って来た王朝なんだろう。
 「天降臨」ですからね…呉から逃げてきたことをすっかり隠し、肥の国と日向の境、高千穂に至った時から書いている!(逆にそれ以前のことは書けない、ひた隠しにする)そう、天皇は「孫」氏なのだ!

おまけ…天皇が「孫」氏だったら、奴の跡継ぎがいなくなったら、もうソフトバンクのあの人を天皇ということにしてもいいんじゃないか?

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