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植村邦彦講演集会(前編)

 昨日PLP会館で行われた「2020年をどう見るか」植村邦彦さん講演集会に参加してきた。司会者、主催者あいさつから、もともと「2020年をどう見るか」と題してグローバリズムや新自由主義、さらにはトランプ大統領率いるアメリカの政治状況やイラン・中東情勢などについて考えるつもりであったのが、植村さんに講演をお願いしたところ、「資本主義の終りをどう生きるか」という題目が返って来たとのこと。
 植村さんははじめに主催者側の初めの意図に沿って、トランプや安倍は右翼・ナショナリズムを掲げているにもかかわらず、国民統合ということを考えなくなった。グローバリズムや新自由主義は安倍やトランプのような人間がそれなりに大きな国のリーダーになっているのかということに関連しているのだが、今回はそういった政治向けの話ではないということを念押された。そして大量のレジュメ原稿に沿って話を始められた。まず過労死・過労自殺した人が残した言葉を引きながら、80年代後半の人は自分がしんどいことの原因を社会構造に惹き付けて考えていたことに対し、2000年代には「自己責任」であるかのように捉えていることが紹介された。この自己責任論・新自由主義は70年代末にレーガンが言い出したことだが、日本では経済同友会などが90年代に刷り込んだものだ。新自由主義は企業活動の自由であるが、これが全ての人の自由であるかのようにされていると批判した後「隠された奴隷制」についての説明がなされた。マルクスは賃金労働制度を「隠された奴隷制」と呼んでいる。そして「資本主義的生産様式の矛盾」について、「実際には、生産に投下されている資本の補填のかなりの部分は、不生産的諸階級(地主・貴族など)の消費能力にかかっている」「あらゆる現実の恐慌の究極の根拠は依然として常に大衆の貧困なのであり、それに対して、資本主義的生産様式は、あたかも社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのごとく生産諸力を発展させようとする衝動を有しているのである」(岡崎次郎訳「資本論」第3巻、「全集」第25巻、1967年、618-619頁)などを引いて、生産力と生産関係の矛盾というよりも、システムとしての過剰生産・過少消費が資本主義の矛盾であると説いた。
 そして「資本主義はどう終わるのか」(ウォルフガング・ストレーク 村澤真保呂・信友健志訳 河出書房新社 2017年)から「現代の資本主義が…その内的な矛盾によって崩壊しつつある」(24頁)を引いて、資本主義が終わることがもはや前提となっていることを説いた。マルクス主義者は資本主義に対する代わりの「新たなより良い社会」を準備した後に資本主義を革命によって終わらせることを考えていたが、そんなものを準備しなくても資本主義は終わりを迎えるのだ。そして「現在の資本主義システムは、すくなくとも五つの症状―低迷する経済成長、オリガーキー〔少数者独裁制〕、公共領域の窮乏化〔社会福祉予算の削減と民営化〕、腐敗〔巨大企業や政府の違法・脱法行為〕そして国際的な無秩序化―に苦しめられており、それらの症状を治療する手立ては見つからない。資本主義の最近までの歴史をふりかえれば、これから資本主義は長期にわたって苦しみながら朽ちていく、ということが予測される。今後、ますます衝突と不安定化、不確実化が広がり、「正常なアクシデント」が着実に繰り返されていくだろう」(104頁)ずいぶん暗い見通しであるが、現在、トランプ政権下のアメリカや安倍政権下の日本で起こっている事を言い表している。ちなみに「正常なアクシデント」とは、原発や航空機と言った巨大で複雑なシステムが、ちょっとしたヒューマンエラーで重大な結果を生むことを指しているのだそうな。
 こうなると抵抗の手段は、逃げることだ…山地民、逃亡者、避難民…だらだら仕事、密漁、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習欠勤、不法占拠、逃散…逃避によって同じ目的が達せられるならば、あえて反乱を企てて射殺される危険をおかす必要があろうか?資本主義がほっておいても崩壊するのであれば、一生懸命「打倒!」する必要はない。ただ災厄から逃げればよいわけだ。ネグリとハートは「政治的文脈においては、階級闘争は脱出の形をとる」(水嶋一憲監訳「コモンウェルス―<帝国>を越える革命論」NHKブックス、2012年 244-245頁)と書いているが、逃げる場所は、ネグリらがいう「the common」切り開いた新たな政治的空間なのだろうか?
 それでは私たちはどうしたらいいのか?デービット・クレバーは「コミュニズム」は「いま現在のうちに存在しているなにかであり、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するもの」「あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれているのだ」(酒井隆史監訳『負債論―貨幣と暴力の5000年』以文社、2016年、142-143頁)まるで、アナルコ・コミュニズムのような言動を引いたのちに「まずはできることからやりましょう!」ということで、協働型組合ビジネスモデルを紹介される。「古いシステムの内部に新しいシステムの諸要素を小さな単位で築くことは間違いなく可能だからだ。協同組合、信用組合、ピアネットワーク、非管理型の〔顧客自身が管理運営する〕事業、平行するサブカルチャー経済の中には、それらの諸要素がすでに存在している。私たちは、これらを風変わりな実験だと見るのをやめたほうがいい。私たちは、18世紀に資本主義が小作人を農地から追い出し、あるいは手工業を破壊したのと同じくらい力強い規制を用いて、これらの活動を推進しなければならない。」(ポールマンソン 佐々とも訳『ポストキャピタリズム―資本主義以後の世界』東洋経済新報社、2017年248頁)そう、ごちゃごちゃ言わずに「逃げ場所」にもなる協働型ビジネスモデルをこつこつ、足元からつくっておけばよいのだ。(続く)

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