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「れいわ現象」の正体(その2)

「れいわ現象」の正体のレビューの続き…哲学者で早稲田大学人間科学部の森岡正博教授は、「新選組」が重度の障がい者2人を候補者として擁立したことも取り上げ「(山本太郎氏のメッセージは)思想運動をしてきた人びとが細々と言ってきたことが政治の文脈に乗ったという印象があります。1970年代の『青い芝の会』の運動あたりからずっと言われてきて、それを思想家や学者たちが受けとめて言い続けてきたことがまさにこれですよ。つまり、人間の属性で生きる死ぬを決めるなということですね」(p153)と述べた後、マイノリティーが発するメッセージは、単にいま置かれている状況を改善されなければならないというものだけではないと展開する。障害者は確かに「生きづらい」けれど、それを見据えることが出来る…だが健常者はどうだろうか?健常者の方が自分でで自分をつらくしてないか?
_0001_20200324160301  「マジョリティーの側に立っている人たちは、れいわのお二人(注:木村議員と船後議員)を見たら、自分はああじゃなくてよかった。自分はああじゃなくてよかった。自分は二本足で歩けてよかったと思ってしまうことがあると思いますよ。実はその考え方こそが自分を縛っていることに気がつくべきです。ああじゃなくてよかったということを維持していくために、どのくらいのリソースを我々が自分のために使っているかということを考えてみてもいい、自分で自分に枠をはめてませんか、という話です」(p156~157)もちろん、こういった話は二層構造になっていて、表の層は「生きづらいから状況を改善して欲しい」という主張だが、その裏の層にはマジョリティーが感じていない喜びがある…ただ「喜びがある」からといって、そのままでいいというわけではない。 
それをふまえ二重の層…社会正義の実現と、人生をどう生きるか?…をつないで、すべての人が充実した人生を送れるようにするには「根源的な安心感」がキーワードになるとしている。「根源的な安心感とは、たとえわたしがどんな人間であれ、ここにいて構わないし、誰からもそのことによって責められない、という風にすべての人が心底思えるということ。もしそういう風に人びとが心から思えるのであれば、ある意味、お金とか物資とか、いろんなことは格差があったって構わないとまで思いますね。根源的な安心感を基礎に置くような考え方で社会を運営する。そのときに社会正義の追及と生きる意味の追求がつながるのかなと思っています」(p159)と述べる。単に「生産性で人の生き死をきめてはいけない、そのような価値感ではない価値観で社会を動かしていこう!」ということから一歩踏み出した概念が「根源的な安心感」なのだろう。
そして「どんな人でも生きていていいんだというのは、れいわ新選組の山本太郎さんのメッセージですよね。根源的な安心感という考え方にとても近いことを彼は言っているように見える。どうゆう根拠、背景があって言っているのかはちょっと分からないですけど。こういったメッセージを出したのは別に彼らだけじゃなくて、今までもいろんな政党の人が当然言っています。けれども、既成政党はやっぱりバックでサポートしている既得権益の団体の縛りをどうしても強く受けてしまうから、そのメッセージがストレートに届ききらなかったんじゃないかと思います」(p160~161)と、「新選組」が組織をバックにした政党ではないことも有利に働いているとしている。だから「新選組」がそれなりにかちっとした政党になれば、また同じことになるのではないかと危惧されている。(つづく)

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