学問・資格

放射能被害は、見えにくい

 「東京五輪がもたらす危険ーいまそこにある放射能と健康被害」(東京五輪の危険を訴える市民の会編 緑風出版2019年9月)を読んだ。編集者は渡辺悦司さんである。
第1部 東京五輪の危険を警告して発言する科学者・医師・市民
第2部 東京五輪での被曝が危険なこれだけの根拠
第3部 避難者たちが体験した被曝影響と症状
_0001_20200124201701 の3部構成となっており、1部はどちらかというと各執筆者等の危機感と、被曝を強要する日本政府他に対する「闘争宣言」。第3部は三田茂医師や渡辺悦司さんの分析の他、避難者の証言がなどがあって興味深いものだ。科学的な被害のメカニズムや数の推計は、第2部に記載されている。
 というわけで、第2部から福島原発事故の影響がどのぐらいあるのか?という説明や、放出された放射能汚染の度合いはどのくらいか?ということを読み取るわけだが、これがなかなか分かりづらい…それでも、こんな表現が成されている。
 第2部の第1章 福島事故の放射能放出量(渡辺悦司)には
 広島原爆の放出放射能と比較すると、大気中放出量はセシウム137ベースでおよそ600発分であり、上に述べたように最近の研究(日本学術会議2014,UNSCEAR2017報告)では、そのうちのおよそ27%が日本の陸土に降下したと推定されているので、160発分程度が日本の陸土に沈着した計算になる。(p89)
 とある。広島原爆の160発分の放射能汚染とは凄まじいものだとなんとか”理解”できるが、一方、別のページ(第1部になるが)には
 例えば、最も問題になっているセシウムは、福島事故から出た量は、おそらく50㎏ぐらい、それが、今では、ほとんど地球の北半球全域に分散している。(p70)とある。たった50㎏しかない物質が、すごく広く浅く飛びまわっているというのだ!感覚的に全然!分からない!
 では福島原発事故で放出された放射能により、どれだけの人に被害が出るか?という前に、日本政府が「安全だ」「帰還せよ」と言っている放射能レベルでどのくらいの被害が出るのか?第5章 原発事故健康影響「全否定」論の新展開とその自滅的本質(渡辺悦司)で、ICRP(国際放射線防護委員会)・UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)・BEIR(電離放射線の生物学的影響に関する米国科学アカデミー委員会)などのリスクモデルでも、致死線量以下の被曝一般について、とりわけ低線量被曝について「がん」「遺伝的影響」のリスクを、放射線被曝によるリスクとして認めていること、そしてそれは日本政府傘下の研究機関。放射線医学総合研究所の文書が公式に認めていることを紹介した上で
 そこでは、10万人が0.1Gy(100mSv)を被曝した場合(すなわち集団線量1万人・Sv)、がん(固形がんと血液がんの合計)による致死リスクを、最小でICRP2007年報告の最小426から最大でUNSCER2000年報告の1460と記載している。つまり、同表によれば、リスク係数は1万人・Svの被曝あたり426~1460件の生涯期間における過剰がん死である。(p125)と紹介している。
 これはどうゆうことを意味するのか?10万人が100mSv被曝すると、426~1460人が「過剰に死ぬ」ということだ。そして帰還政策について次のように述べている。
 日本政府は、20mSv/y以下の地域への住民の帰還と居住を認める方針である。つまり、避難解除地域に5年間居住すれば、帰還した住民は。政府自身が、被曝影響が「ある」とする100mSv(上記の0.1Gy)の被曝をすることになる。20mSv/y地域に帰還する住民の数をおよそ10万人と仮定しよう。これはそれほど現実からかけ離れた仮定ではない。上記の放医研の表に2通り100万人が100mSvを被曝する例と一致する。
 そうすると、5年間の被曝に対して、426人~1460人の追加的な(過剰な)がん死が生涯期間(50年間)を通じて生じることになる。50年間では減衰を考慮してこの6倍(10倍ではなく)、約2560人~8760人の犠牲が出る想定になる。(p127)
 もちとん渡辺氏はこれは「低い」想定であるとしており、これを批判しているわけだが、同時に「安全だ」「帰還せよ」と言っている政府の機関が過剰に死ぬこと、被害が出ることを認めていると論じているわけだ。
 で、50年間で10万人のうち、2560人から8760人が過剰に死ぬ…ということを、乱暴に1年に均せば51.2人~175.2人となる。どなんだろう、10万人の人間集団の中で死亡する人間の数が、年間50~175人増加することは、統計上うまく現れるのか?また、放射能による障害はおそらく年が経つほど増える…だから初期のうちは増えない、過剰死は初期のうちはほとんど出ないということが考えられる…そうすると、余計に「統計上」は現れないであろう。被害があっても、科学的(統計学的)に「無いもの」とされてしまうのだ!?だから放射能被害は。見えにくいということが分かる。
 しかし、「過剰死」にあたった人にとっては、年間50~175人のうちに入ってしまった人にとっては、放射線被曝がなかったら(原発事故がなかったら)死ななくて済んだわけだ。そして年間50~175人に、誰が当たるのかは全く分からない、ロシアンルーレットみたいなものである。ロシアンルーレットをいつもやっていて、誰かが確実に死ぬ現場になんか、誰も行きたくないだろう。誰も「過剰に」死にたくも、病気もしたくない…だから放射能がばら撒かれたところから避難する権利は、誰もが持っているのである。

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「神武」はどこから来たか?

 先日のブログ記事で、日本列島は7世紀後半まで「倭国」と「近畿天皇家」王朝が並立していた…と書いた。倭国は中国・福建省あたりから日本に進出し、国家をつくった集団である。では、ヤマト王権を造ったのはどうゆう人たちか?

 ハイ、それは「みんな大好き三国志」に出てくる、呉の残党です!
 「三国志」のおさらいをしておくと…漢の皇帝から禅譲を受けて、魏の曹丕(曹操の息子)が皇帝になったのが220年、その翌年に劉備が蜀の皇帝となる。その翌年には呉の孫権が「独立」を宣言して、三国鼎立の時代になる。孫権が帝位についたのは229年で、「呉帝国」がはじまるわけだ。
 その後、蜀は263年に魏に降伏し、三国鼎立は終了する。ただその2年後の265年に、魏の曹氏が司馬氏に禅譲して、晋が起こる。その晋が呉を滅ぼしたのが、280年である。この時の呉の皇帝は4代目…孫権は7人の息子がいたのだが、長男、次男は孫健在位中に若くして亡くなり、三男・四男で帝位を争うことになる。三国志でおなじみの重臣たちも二派にわかれて争う始末。とうとう孫権は末子を跡継ぎにするのだが、ほどなく退位させられ、六男の孫休が三代目になる。孫休は264年、在位六年で病死・その息子が跡継ぎにならず、孫権の三男の孫和の息子、孫晧が四代目となる。この孫晧は評判は悪く、酒食におぼれ、極刑を頻繁に用いる「三国一の残虐な君主」だったそうな。まあそれはそれとして…
 呉が滅びるにあたり残党が海に漕ぎ出し、日本列島のほうに逃げてきたわけだ。その時に王族(孫休の息子あたり)を抱えていたならば、その名は孫ということになる。
 長江河口あたりから東中国海をまっすぐ東にいけば、天草、熊本あたりに到着する。ところで北九州は倭国の領域だ…倭国は魏志倭人伝にみられるよう、魏に朝貢している。魏の後を継いだ晋にも「晋書」武帝紀に266年に朝貢してきたという記録がある。そう、北九州、倭国は敵国、晋に朝貢している倭国なのだ…くわばらくわばら…
 ところで、彼らはあらかじめ日本・東方に逃亡するため先遣隊を派遣していたらしい。彼らの案内により上陸した孫さんご一行は、阿蘇山を突っ切って日向に抜けることになる。そこから瀬戸内を東進し(その過程で北部九州のほうに行き、倭国の勢力圏だったから引き返した)近畿まで向かう…大阪平野に「抵抗勢力」が居たので、熊野をぐるっと回って大和盆地にたどり着いた。これが「天孫降臨」「神武東征」のお話なのである!ちなみに「抵抗勢力」とは、百舌・古市古墳群をつくった連中、百済から渡って来た王朝なんだろう。
 「天降臨」ですからね…呉から逃げてきたことをすっかり隠し、肥の国と日向の境、高千穂に至った時から書いている!(逆にそれ以前のことは書けない、ひた隠しにする)そう、天皇は「孫」氏なのだ!

おまけ…天皇が「孫」氏だったら、奴の跡継ぎがいなくなったら、もうソフトバンクのあの人を天皇ということにしてもいいんじゃないか?

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2000年にわたる一つの王朝なんかないぞ!

 暴言大臣、麻生太郎がまたやらかした…毎日新聞webより麻生氏「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」 批判呼ぶ可能性
 麻生太郎副総理兼財務相は13日、地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で、「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べた。「アイヌ民族支援法」はアイヌを「先住民族」としており、日本が単一民族国家と受け取られかねない発言は批判を呼ぶ可能性がある。(以下略)

 後に「おわび、訂正する」とか言ってるのだが、あきれてものが言えない。現「日本国」の領域には、近代国民国家成立時に北海道のアイヌ民族が住むところを編入したし、琉球王朝という別の「王朝」を滅ぼして領域化している。このことだけでも「同じ民族が、一つの王朝」なんてことはあり得ない(さらに言うと、植民地支配・アジア侵略の過程で朝鮮、中国その他アジアの「他民族」が暮らしている)
 だが古代の大昔から「同じ一つの王朝」が続いてきた、というフィクションから、麻生も始め多くの人々が脱却できていないところがある。「単一王朝が2000年も続いたスゲ~ェ国!」論は、すぐに他民族・他集団への差別・排外主義にもつながるものであり、ゆえに天皇制批判はこれまで信じられている日本古代史を相対化するところも取り組まないといけないのだ。

 近畿一帯の有力な豪族であった天皇家(便宜上「近畿天皇家」とよぶ)が東北以外の日本列島の大部分を支配し「日本」という国号を使い出したのが7世紀末から8世紀の初め頃…一応、ここから日本列島では「一つの王朝」が続くことになる。だが列島にはそれまで近畿天皇家とは違う王朝が存在した。それが「倭国」である。倭国の中心は北九州で、中国・朝鮮にも近い。この王朝が中国から冊封を受け、また朝鮮半島にある新羅・百済なんかと国交していたわけだ。「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼は倭国の女王である。
 だが倭国は、7世紀の唐帝国の勃興とそれに平行する新羅による朝鮮半島統一過程の東アジアの変動において没落・滅亡の道を進む…具体的には663年「白村江の戦い」において唐・新羅連合軍に大敗し、滅亡しちゃうのだ。この白村江の戦い、近畿天皇家がわざわざ朝鮮半島まで出兵したように捉えられているが、実は戦争の主体は北九州にあった倭国で、近畿天皇家は倭国の要請を受け出兵したにすぎないのである。
 倭国が衰退・滅亡した後、日本列島の支配は近畿天皇家のヘゲモニー下に移る。近畿天皇家は内部の権力争い…壬申の乱…を経て体制を固め、唐の律令制度を取り入れた中央集権国家として出発するのである。
 とはいえ先ほども書いたように、近畿天皇家が白村江の戦いの主体であったかのように、さらにいうと、ず~っと近畿天皇家が近畿から日本全国を支配していた、「倭国」も近畿天皇家が名乗っていた国号に過ぎず、7世紀末に近畿天皇家が倭国を「日本国」に変えたのだ…ということが信じられているのは何故か?
 それは近畿天皇家が倭国の存在や歴史を徹底的に「なかったこと」にしたからだ。彼らが作った歴史書「古事記」「日本書紀」においても、倭国の存在はひた隠し、あたかも近畿天皇家の歴史のように改竄して記述したからに他ならない。それでも最初に作った歴史書「古事記」は、素直に読めば倭国の存在が分かるので「禁書」扱いであり、本文が再発見されるのは室町時代のことである。
 「古事記」や「日本書紀」に書いてあることが一応正しい…という前提で考古学の発掘物等も解釈されてきたので、近畿天皇家がず~っと日本列島を支配していたという「史観」は、なかなかゆるがない。考古学の発掘物といえば、先般大阪で「世界遺産」に認定された百舌鳥・古市古墳群について、ここの巨大古墳の主は「百済系」の王族ではないか?と考えられる。百済から来たヤツが、あのあたりを支配していたのだ。決して大和の国に昔住み着いた「神武」の子孫ではない。出雲や吉備に「王朝」のようなものがあって、それがヤマト王権=近畿天皇家の支配を認めるようになったとかいう話だけでなく、ヤマト王権の「内部」でも王朝・王権が並立していた可能性がある。そうした王朝・王権をひっくるめて、近畿天皇家の一族として無理矢理つなげてしまったため、初代「神武」というヤツは今から2680年もの大昔!弥生時代までさかのぼってしまったのだろう。
 最も王権・王朝が「並立」していたとはいえ、古墳をバンバン作っていた4~5世紀ごろの日本列島なんて当時の中国から見たら、国家組織もへったくれもないチョボちょぼの集団があちこちにいただけ…各王権の「支配」もかっちりしたものではなく、飛び飛びの、あるいは入り組んだ領域を相互に支配していたようなものだったのだろう。唯一、使いをよこしてくるのは北九州の「倭国」のみ、それも当時の中国は南北朝に分裂状態だったから、記録にもロクに残らず「謎」化しているわけだ。

 とはいえ近畿天皇家がず~っと日本列島を支配していたというフィクションは、打ち破らないといけない。7世紀以前は列島に王権・王朝が並立していたという仮定・仮説のもとに、考古学の出土物なんかを見直していく必要があるだろう。

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もっと放射能を恐れよう!

 ここ1~2年「ゴーウエスト」の集会に参加したりや関係者の話を聞いて、改めて放射能(正確には「放射性物質」と書くべきだが、日本語では放射性物質≒放射能という用法が確立しているので、こう記述する)の恐ろしさ、そして原発事故で放出された放射能による健康被害があることを認識した。
 ある意味、このブログ記事でも、放射能汚染に対するたたかい、取り組みについてはいささか冷淡であったと思う。放射能汚染瓦礫の広域処分、焼却処分や、除染土・汚染土の”有効利用”と称する処分問題についても、それに抗する取り組みや発信が非常に少ない…このことは反省せねばならない。
 改めて確認すると、福島第一原発事故では大量の放射能が拡散されたこと、そしてそれは原発周辺のみならず、東北一円から関東・東京を汚染したこと、空間線量は低くても、汚染物質が土壌や水源地の泥の中などにいまだ残留したり、空気中を飛びまわっている事(「セシウムボール 」というガラス質…水にも酸にもアルカリにも溶けない…微小な物質となって漂っている)そして、そういった汚染物質がほんの微量でも体内に入ると、内部被ばくによって様々な疾患…様々なガンを始め、血液疾患や免疫力低下による様々な病気、脳・神経系の病気(気力減退、いわゆる「ぶらぶら病」も含む)を発症する。ただし、そういった内部被ばくは、汚染物質を取り込むか否か、あるいは取り込んだとしても発症するかしないかは人それぞれ、個人差が大変大きい。だが、荒っぽい集計によっても、原発事故後日本全国で急性白血病が急増 していることは分かる。たとえ東京や福島被災地で多くの人がそれなりに健康で暮らしていたとしても、放射能による健康被害はあるのだ!
 先日の集会で、水泳の池江璃花子選手の白血病は、原発事故の影響であることは明らかとされた。幸い、彼女は先日退院することが出来たが、大切なことは病気になってから医療を受けて治ることではなく(もちろん医療の権利も大事)、病気にならないこと、余計な被ばくをしないことであり、そのため最大の毒物、放射能が放出されたのであれば、文句なしにそこから避難する権利ある!そして放射能については、どんなに低い値であっても確実に遺伝子レベルで細胞を破壊し、病気の基になる。他の毒物と違い「しきい値」はない。だから絶対にそれを撒き散らしてはいけない。
 そしていったん撒き散らされたら、出来るだけ集めて集中的に管理する。それを移動させたり、薄めて拡散するということはしてはならない!汚染土などは1カ所に集めてコンクリートで封印し、その場で半永久的に管理する。フレコンパックに詰めたまま野積みして、水害等で流されるなどもっての他だ!汚染水も然り、ずっとタンクに溜めておく。タンクが老朽化すれば新しい物をつくって移し替えるのだ。決して遠方に持って行って焼却したり、道路盛土や公園等で再利用したり、海に流したりしてはならない。もちろん、これだけの管理をやろうとすれば莫大なお金がかるが、それは事故を起こした東電と原発を進めた国が出さなければならない。

 西日本で原発が再稼働されてしまったのは、一つにはこうした放射能汚染ほや健康被害についての認識が甘く「他人事」だったからではないか?2012年、関西で汚染瓦礫を持ってきて焼却処分する件で、脱原発運動の中から反対運動は起こったが、それでも押し切られてしまった。そして今、橋下「おおさか維新」は、安全が証明されたら、汚染水を大阪湾に流そうなどと言う。こんな連中が行政のトップに立っているのだ。
 改めて、脱原発・再稼働反対運動の中に、反被ばく、反放射能、そして避難者や被ばくによる健康被害者を位置づけ、ともに闘うことを誓う。すべての原発を廃炉に!放射能のない世の中をつくろう!

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辺野古ではまともなコンクリートを打つ気がない!

 辺野古の新基地建設現場では、繰り返し生コン車が何十台もいっぺんに入って来る。また先週はずっと天気が悪かった…私はコンクリートを練ったり打ったりする技術でメシを食って来たので、そのへんのことについて書く。
 まず、基本的に雨が降っている時にコンクリートを打設してはいけない。コンクリートを練り混ぜる時は、セメント・水・砂・砂利その他の量をきっちり計量してから練り混ぜる。水の量はコンクリートの施工性の他、強度や耐久性に関わるので重要なファクターである。雨の中でコンクリート打設をすると、その水の量が変化する恐れがあるからだ。よって、原則として雨が降っている時はコンクリートの打設をしない。ただし、屋根がある、シートで被う等の対策をして、打設現場で雨水の進入を防ぐことが出来るのであれば、その限りではない。また少々の雨ならばコンクリート打設をしても問題がなさそうであるが、その目安は「人間が傘をささずに我慢できるかどうか」である。すなわち、傘が必要なぐらいの雨が降るのであれば、コンクリート打設は中止する必要があるのだ。
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 11月18日の朝、生コン車が40台ぐらい来て、シュワブゲート内に入っていった。昼は35台来た。すなわち施工業者はこれだけのコンクリートを打設するにあたり、打設時間中は「傘が必要になる」程の雨は降らないと「予想」したと考えられる。生コン車が沢山来るということは、そんなに激しい雨が降らないという天気予報代わりになるのだが、この日はけっこうな雨が降った…施工業者の「天気予報」は見事に外れたのである。

 さて、生コン車が40台来れば、合計のコンクリートの量はどのくらいになるか?今、普通の生コン車はおおむね4.5㎥のコンクリートを積んでいる(厳密にいうと、コンクリートの質量は2.3t/㎥を目安とするので、2.3×4.5=10.35tとなり、10t積みトラックでは過積載となる…そのため、4.25㎥とか、4㎥しか積んでいない可能性もある)であるから生コン車40台では、4.5×40=180㎥となる。
 一方、コンクリートを打設するスピードは、ポンプ車の台数や作業員の人数等にもよるが時間あたりおおむね60㎥ぐらいが限度である。だから180㎥のコンクリートを全部打設するには単純計算で3時間はかかる。ところがコンクリートには練り始めから打設終了までの時間が定められており、例えばJIS A 5308レディーミクストコンクリート には、9.4運搬b)において
 生産者が練混ぜを開始してから運搬車が荷卸し地点に到着するまでの時間とし、その時間は1.5時間以内とする。ただし、購入者と協議のうえ,運搬時間の限度を変更することができる。
 とあるし、土木学会コンクリート標準示方書【施工編】には
 7.2 練り混ぜから打ち終わりまでの時間
 練り混ぜてから打ち終わるまでの時間は、外気温が25℃以下のときで2時間以内、25℃をこえる時で1.5時間以内を標準とする。これらの時間を越えて打ち込む場合には、あらかじめコンクリートが所要の品質を確保できることを確認した上で、時間の限度を定めなければならない。
 とある。このへんのことは、コンクリートを扱う技術者にとっては基本中の基本だ。
 180㎥ものコンクリートをいっぺんに持ってきても、終わりの方は規定内の時間に打設することはとうてい難しい。上記2つの基準についても規定時間の限度は「協議」や「確認」の上変更できることになっているが、それも無制限ではあるまい。本当はコンクリートを大量に打設する場合、コンクリートはその都度持ってくるのがセオリーであり、一ぺんに大量に持ってくることが邪道なのである。
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 写真は18日昼の搬入時、「第二ゲート」バス停付近に32台目の生コン車を確認したもの。
 実はシュワブの現場には「定置生コンプラント」がつくられていて、抗議行動で生コン車が来られない、時間オーバーになるリスクに対応しているハズなのだが、なぜかその定置プラントは使われず?わざわざ市中から生コンを買って持ってくるということをやっている。定置プラントを使えば「生コン業界」が儲からないからだろうか?
 現場でどんなコンクリートの打設をしているのかは定かでないが、いずれにせよ元請け、大成建設やその下請けのコンクリート打設業者はロクなコンクリートを打っていない、いいコンクリートを打設する技術も能力も気力もないことが伺える。こ奴らは私にとっては打倒対象だぜ!そのことが実地で判明したことも、今回の辺野古現地での収穫でもあった(^^)

 おまけ…前にも書いたが、抗議行動の現場では生コン車のことを「ミキサー車」と呼んでいる。建設業界でない一般の人はそう呼んでいるのだが、生コン車には「ミキシング(練り混ぜ)」する能力は無い。やっているのは「アジテ―ト(攪拌)」である。だから生コン車は正確には「トラックアジテータ」と呼ぶし、業界では「アジテータ(車)」「アジ車」なんて呼び方をする。この呼び方は一般的ではないので、本ブログでは「生コン車」と呼ぶ。

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グレダ・トゥンベリさんは家でなくてもいいからお勉強しなさい!

 国連で「地球温暖化対策サミット」なるものをやっているそうだ…小泉進次郎環境大臣がAFOなことを述べたようなのだが、巷の話題はなんといってもスウェーデンの16歳の「環境問題活動家」グレタ・トゥンベリさんの「活躍 」だろうな…地球温暖化に対し、強力な対応(二酸化炭素削減)をするように大人たちに求める、そのため、学校休んでデモをする、世界中の若者たちも巻き込んでやっているのだが。
 なんども表明しているとおり、私は「人間活動によって排出される二酸化炭素の増大により、地球が温暖化している」という仮説にはまったく同意できないし、温暖化対策と称する「二酸化炭素削減」策も、怪しいモノばかり…と考えている。もう一度整理して述べてみよう。

 ①「中世温暖期」ってのがあって、その時は現在より1℃程度、地球の気温は高かった。北極海の氷も少なく、グリーンランドでもバイキングの「入植」が行われたのだ。日本では平安時代の貴族文化が栄えた時代でもある。その後「寒冷化」して、産業革命前あたりは「小氷期」でアホみたいに寒かった…だから今は産業革命以前よりも気温が高くなるの。
② 大気中の二酸化炭素の量と気温はたしかに「同期」しているが、どちらかというと気温上昇が先にあって、二酸化炭素の増はあとからついてきている観測データがある。これは他の何らかの原因によって気温が上昇し、それが原因で(具体的には海水温上昇により二酸化炭素の溶解度が小さくなる)二酸化炭素濃度が上昇していると考える方が説明がつく。
_0001_20190925224701 ③産業革命期以降に人間活動によって放出された二酸化炭素の「半分程度が蓄積されている」とされているのだが、そもそも人間が放出する以上に地球環境内で二酸化炭素のやり取り(大気⇔海洋など)が行われている。計算してみると、大気中の二酸化炭素濃度390ppmのうち、人為的に放出された二酸化炭素の寄与率は3.6%、産業革命以降の増加に寄与する率は13%にしかすぎない。だから人間活動による二酸化炭素放出量をゼロにしても、大気中の二酸化炭素濃度は376ppm程度にしか減少しない。
④「温暖化現象」は中世温暖期の存在からも示されるよう、自然現象である。また「温室効果ガス」で最も影響が大きいのは「水蒸気」である…人間がジタバタ動いたところで、地球の気象は止められない!
⑤でもって「温暖化対策」であげられる二酸化炭素削減…具体的には「再生可能エネルギー」による「電力」の生産、ならびに電化促進(ガソリン車をEVに変えるとか)があるのだが、工業化社会を前提としてこのような政策…エネルギーを電力に頼り、かつ広範囲に広がり不安定な太陽光や風力と言った「再生可能エネルギー」利用促進することは、別途「化石燃料」をより無駄に燃焼させることにつながる(日本で太陽光発電を促進するため、安い太陽光電池を中国で大量生産すると、確実に中国で太陽光電池生産のため大量の化石燃料を使うことになる)…だから、下手な「温暖化対策」をすれば、かえって化石燃料の使用増大、二酸化炭素量の増大をまねく。素直に「火力発電」とガソリン車の燃費向上をやってるほうが良い(大規模石炭火力は、石炭産出地域における別の環境問題があるので止めるべき)のだ。

 とまぁ、こんな感じ…ソースは、献本してもらった「検証温暖化」

 やっぱり彼女は、家でなくてもいいから、高校で習う物理とちょっとした歴史をちゃんとお勉強する必要があるな。
 あと、世界の若者たちも、「気候変動に対処せよ!」といったことに無駄なエネルギーをつかわないことを望む…君たちの抗議・デモの対象はそこではない!

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「検証温暖化」を献本してもらいました

 去年の今頃はメチャメチャ暑かったが、今年はまだ梅雨も明けておらず、ずいぶんマシだ。それでも蒸し暑い…
 さて暑い夏といえば、地球温暖化、温暖化対策といえば、二酸化炭素排出量削減…政府は、企業は、政治家は、温暖化対策に取り組め!という人びとの声も強い。実際、先のG20大阪サミットにあたって、市民団体が各国首脳に温暖化対策に取り組めとアピールしたり(こうゆうのって、若い学生なんかがよく参加してたりする)、G20に反対する側も、温暖化対策、気候変動対策に取り組めとアピールしたりする。
 地球の気温が産業革命以降、急速に上昇している…というのは観測上あるものの、実は産業革命以前の地球が「小氷期」にあって寒すぎた…というのが実際である。そして第二次大戦後、産業の復興により二酸化炭素排出量は増えたにもかかわらず、気温は低下傾向を示した…70年代後半には「地球は寒冷化し、氷期に向かう」なんてことが真剣に語られていたのである。
 このように地球温暖化とその原因としての、人為的に排出された二酸化炭素が大気中に溜まって温室効果を起こしているから…ということをず~っと批判してきたサイト環境問題を考える (本ブログ横の地球アイコンをクリックしても開くよ)の管理者、近藤邦明さんから、このたび「検証温暖化 20世紀の温暖化の実像を探る」を献本していただきました。
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HPより
2019年7月10日発売
シリーズ[環境問題を考える]5
検証温暖化
20世紀の温暖化の実像を探る
(269頁 ¥2,500)
不知火書房 TEL 092-781-6962
      FAX 092-791-7161

 本ホームページで行ってきた『人為的CO2地球温暖化仮説』の妥当性を検証する議論の内容をまとめた書籍を刊行することになりました。
 本書では、先入観を持たずに初等中等教育において理科教育を受けた平均的な日本人の知識に基づいて、20世紀に観測された気温変動の実像を明らかにすることを目的にまとめたものです。
 人為的CO2地球温暖化仮説を支持する東京大学IR3S/TIGS叢書No.1「地球温暖化懐疑論批判」や国立環境研究所のホームページの解説なども紹介しながら、客観的な事実によって「20世紀温暖化の実像」を浮き彫りにします。

 初等中等教育において理科教育を受けた平均的な日本人の知識に基づいて…とあるので、基本的に読みやすい本ではあるのだが、それでも「理科教育」で出てくる数式が並んでおり、解説には時間がかかろう。ざっくり言うと、産業革命以降、人為的に排出されたCO2が大気中に半分ぐらい蓄積して、それが温室効果を起こして温暖化している…という理論は間違っている❗ということなどをきちんと証明している。
 こういった理論は「(温暖化)懐疑論」としてひとくくりにトンデモ扱いされ、まともな温暖化批判に対して天下の東京大学の先生であろう者がトンチンカンな反論をしていることに気が付かないお粗末な現状を撃つ本でもある。
 著者の近藤さんとは何回かメールのやり取りもしている…長年、自信のホームページで、地球温暖化とその対策(二酸化炭素削減)の虚妄性について発信してこられたのだが、いつまでたっても正論が浸透せず(それどころか正論を排除したり、データをいじくったりすることも”温暖化業界”はやっている)、地球温暖化とその対策を巡る世論は誤った方向にドンドン進んだままである。私のような「過疎ブログ」の管理人にまで本書を2冊も献本していただくというありがたい行為も、なんとかこの間違った世論、方法を正して欲しいという気持ちの表れであろう。
(正直、高価な本を2冊もいただいたので1冊、有効な譲渡先はないだろうか…前進社関西支社ではアカンだろうが、社会運動情報・阪神 さんなんかどないだろう?)

 また本のこまかなレビューも、おっつけやっていきたい…今事情があって、菅孝之の「天皇制と闘うとはどういうことか」(彩流社 2019年4月)を読み進めているので忙しいのだが…
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 話をG20反対集会における、インドネシアの石炭火力発電開発に反対するための論理は、石炭火力発電所が二s中単組を大量に放出するからではなく、石炭火力発電、石炭採掘等に伴う開発行為そのものが、そこに住む人々の暮らしや生活環境を破壊するから…ということでなくてはならないのである。

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「キングダム」で解く中国大陸の謎(その7 番外編)

 さて6回にわたって「始皇帝 中華統一の思想『キングダム』で解く中国大陸の謎」(渡邉義浩 集英社新書 2019年4月)をみてきたが、要するに中国が「統一」されているのは、秦が法家の思想で富国強兵を行うことで氏族制度が解体されたのち、儒家の思想と法家の思想をドッキングさせた漢帝国の体制が中国人にマッチしていたので、後の王朝もそれをモデルに国家体制をつくったため…ということになる。

 ただそれだと、思想、考え方というものが上部構造(統一国家)を規定しているということになって、マルクス主義的なものの見方としては面白くない。
 著者は「銃・病原菌・鉄」の作者である進化生物学者、生物地理学者のジャレド・ダイアモンドを始めとする多くの人が、中国が統一されているのは自然環境にある、最初に統一王国が生まれた中原には山脈もなく、広大な平野が広がり、黄河や長江といった大河が広がっている…東西南北の交易が盛んで軍隊の移動も容易だったからだという考え方を紹介した後、これを否定している。
 なぜなら統一中国の領域は決して平らなところだけではないからだ。中原においてすら山がちな地形も多く、また過去に中国を統一した王朝もことごとく、中原以外の山岳地帯も含めたエリアも領域におさめているからだ。
 そうすると、中国統一を支えた「下部構造」とは、まさに東西南北の交易…それを可能にする生産力…でなないだろうか?

 著者は本書に「戦国時代の『グローバル経済』」というコラム欄を設け、戦国時代に商業が発展した旨を記述している。
 戦国時代に入ると、各国とも国内で生産する物品や他国からの流入品に課税し、財政の強化を図った。戦乱の世は技術革新を促し、経済活動を活発にしていく。斉の臨淄、趙の邯鄲、楚の郢、秦の咸陽などが経済の中心地として栄えていった。
 また、戦国時代には国を越えて投機や遠距離貿易を行う大商人、現代でいえば「グローバル企業」も登場した。彼らの大規模投機にって穀物価格は乱高下を繰り返し、庶民が苦しめられる一方、市場を巧みに操る者が巨万の富を得ていく。実際、孔子の弟子のひとりが、学問の傍らで投機により富を蓄えている。一説によると、定職を持たず諸国を巡っていた時代の孔子を、その弟子が経済的に支えていたという。(中略)
 大商人たちは通貨の違いや国境の壁を、商業を妨げる障害と考えるようになっていく。グローバル企業が国家を経済活動の障壁と考えるのは、今も昔も変わらない。七国統一の気運は、経済の側面からも高まりつつあったのである。(p82~83)
 で、一旦統一すると、発展した商業はその統一中国を基盤にますます発展するし、統一を前提としたルールで商売を続けるわけだから、商業=経済がその後も中国が統一を続けることを要求することになる。
 はなしはこれで終わらない…ではなぜローマ帝国は再び統一せず、ヨーロッパは分裂したままなのか?
 実は、ヨーロッパなんてすごく生産力が低かったのである。
 ローマが統一して「全ての道はローマに通ず」状態になっても、ローマ帝国の軍事力で、例えば金銀なんかを大量にローマが蓄え、それで地中海世界、ヨーロッパ中の品物を手に入れようとしても…肝心の「商品」、すなわち交換するモノが生産できなければ、商業は発展しない…結局、各地で自活していく生き方のヨーロッパ型封建社会に分裂してしまうわけだ。
 中国ではそうならなかった…中国の生産力でもって商品、交換するモノがふんだんに生産できた。だから商業も下火にならず、統一が続いたというわけである。

 おまけ…中国も氏族制度が解体し、家族単位の独立自営農民ができてその上に皇帝・官僚機構が君臨するという単純な形態をず~っと続けてきたわけではない。実際、漢帝国が衰退して、みんな大好き三国志の時代になるのは、一旦成立した自営農民も時代が進むにつれ貧富の格差が生まれ、結局豪農なんかに統合されていく過程が出来たからである。そうして勢力をつけた連中が、地域の有力者になっていく。その親玉が、曹操や劉備といった三国志に登場する人物になっていくのである。
 要するにまた農民層の分解が、発展した生産力の下で起こったのだ…これにどう折り合いをつけるのかで「混乱」したのが、漢の後の魏晋南北朝370年間の分裂時代だったのだろう。そして中国は再び「統一」し、隋・唐の時代になる。分裂の原因となる地域の有力者を取り込むのに、唐が用意したのが「科挙」である…試験によって官僚を登用するのだ…といった「質の転換」が隋・唐帝国で行われているハズなのだが、その辺は著者の渡邉氏は本書では触れていない。まぁ、やると本が分厚くなるし、「キングダム」の時代から外れるからね。なお渡邉氏の専門は古代中国思想史で、「三国志 演義から正史、そして史実へ」(中公新書)という本も出しているようだから、その辺を読むと中国が古代から中世へどう変わっていったか理解できるのカモしれない。

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キングダムで解く中国大陸の謎(その6)

 中国が統一され続けている理由を筆者は、王朝が交代し新国家を樹立してもても、漢の時代に成立した「古典中国モデル」が参照され続けた結果であるとしている。では「古典中国モデル」のイデオロギーとは何か?見てみよう。

 古典中国モデルの特徴は、①大一統、②華夷秩序③天子 であるそうな。
① 大一統とは、中国は分裂していてはならず、統一されていなければならないという意識のこと。これは「安全保障」上の意識でもあって、要するに分裂していては異民族が中華に攻めてきた時に打ち払えない…だから統一している必要があるということだ。漢帝国も当初の「郡国制」で半分封建制が残っていた時期に匈奴に攻め込まれ、屈辱的な講和を行っている。その後、郡国制を解消して中央集権国家が出来た段階で大々的に匈奴を「討伐」している。分裂していれば異民族が攻め込んでくるという「恐怖」に裏打ちされたものと言えよう。(ちなみに辛亥革命後、様々な「軍閥」が割拠している時期にも日帝の侵略を受けている)
② 華夷秩序とは、大一統の範囲を決めるもので、具体的には儒教・漢字文化を持つものを「中華」とし、持たないものを「夷狄(いてき)」として、中華を上位に置く世界観のこと。漢字を使い儒教的価値観を持っているならば、異民族であっても「中華」になれるので、後に漢民族は異民族による支配を受け入れる根拠にもなるものである。
③天子とは、周王朝における王の権威付けのために現れる概念で、「天」という抽象的な存在でもって「王は『天』から地上の支配を認められた、天の子」という物語である。これを漢代の儒家が皇帝の権威づけのために、皇帝号と天子号をドッキングさせたのだ。皇帝の力の源泉は、人間を越えた存在「天」にあるとしたのである。
 こうして、漢の初代皇帝・劉邦は、後から天命が降った「天子」だったことにされた。皇帝が死んだら、皇帝の嫡長子が天に即位を報告し、承認されることで、新皇帝も天子となる。そう考えることで、本来、儒家とは無関係だった皇帝号を、天子号と結びつけた。(中略)
 武帝の時代には、儒家の董仲舒が「皇帝=天子の支配を、天が正統化する論理」をさらに精緻なものにした。天は徳のある人物に対して天命を与えて天子とするが、天子が悪政を行ったときは災害を起こして戒める、というのがその説である。(天人相関説)
 つまり皇帝が「権威を持った天子」であるためには、儒家的価値観に基づいた政治を行わなければならないということだ。皇帝に「仁政」の枠をはめたのである。(中略)
 おそらく漢の初期、支配者層は困っていたのではないだろうか。中央集権型の統治を行わなければ異民族に侵略されてしまうが、法家を公式イデオロギーに採用しても長続きしないことがわかっている。そこで、一時的に「ゆるやかな法家・道家」である黄老思想を採用したが、これは統治について揺るぎない指針を与えるものではない。
 そうしたときに、昔からある制度や慣習を認めながら、統一と中央集権を肯定する論理を飲みこんだ儒家が登場する。それがあまりにも中国人にフィットしていたために、漢は長期政権になったのである。(p191~192)
 で、漢が約400年続いた後、みんな大好き三国志の時代をへて、一事晋が中国を統一するも南北朝時代という分裂時代が280年続く。南北朝の末期には北周という、周にならった封建制の国家もできるのだが、儒教の「理想」国家は現実の国家の規範にはならず、中央集権型の隋帝国が統一を行う。ただ隋は鮮卑と漢民族が融合した異民族系国家であったため、仏教を国教とした(だから倭国は隋に使いをやって仏教を学んだのである)が中国人には受け入れられず、30年足らずで滅びる。その後を引き継いだ唐帝国が、大一統・華夷秩序・天子を「古典」として復活させたのである。唐帝国は300年近く続き、広大な領土と絶大な影響力を及ぼしたのはご存じのとおりである。で、五代十国の54年の分裂をへて、宋が統一…「古典中国モデル」採用…この繰り返しとなる。(元、モンゴル帝国は異民族による世界帝国であり、別の統治手法を用いたのだが、その代わり元は中国人からほとんど徴税することが出来ず、財政基盤は塩の専売であったそうな。)
筆者は「中国人は国が混乱し新たな政体を打ち立てる必要に迫られたときにも、参照すべきモデルを持っていた。たとえなにか問題が起きても、自分たちの作りだした儒教文化に立ち戻れば打開できる、そのような絶対的な信頼があったのである。」(p195)と述べている。そして現代中国、中国共産党もかつて儒教を旧い中国の象徴と見なして攻撃したものの、1980年代からゆるやかな見直しが始まり、積極的に儒教研究者に資金を援助し、中国各地に孔子廟を建て、海外には「孔子学院」という教育機関を輸出している状況を「西洋とは異なる中国独自の思想体系として、かつての儒家と同じように、ときの政府の正統化を願っているのかもしれない。」(p197)と説く。そして「中国は古代の統一帝国がずっと続いていた不思議な国だと述べたが、本質的には現代でも変わっていないのかもしれない。まさしく稀有な国だとう思いを、これまでにも増して、私は強めている」(p198)と結んでいる。

結論が出た…ので、(その7 番外編)に続く

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「キングダム」で解く中国大陸の謎(その5)

 ではここで、中国を統一しつづけた「儒家」と「法家」の思想についてみてみよう。「儒家思想」は紀元前551年に生まれた孔子が始めたもの。氏族制度が解体しかけ「下剋上」も起こってくる中で、秩序を立て直し、封建制を再構築するため「仁」や「孝」といった昔からの社会規範、道徳観や慣習を言語化し、体系づけたもので、孔子の存命中はあまり高い評価は得られなかったが、孔子の孫弟子あたりから各国に浸透し始める。
 孔子の弟子の代から儒家は各国の政権中枢に入り始め、戦国時代中期には、諸子百家の中でもっとも影響力を持つようになった。これも儒家の思想が昔からある制度や慣習と適合的で、なおかつそれらを正統化する思想であることが大きい。
 たとえば、儒家は父と父方の祖先をとくに敬うように説く。これは中国の氏族制が父系だからだ。富裕層は一夫多妻だったため、母系社会になると誰が本家なのかわからなくなってしまう。儒家はそこで、父が偉いのだ、と正統化する。
 さらに、親を愛するように君主を愛せ、と主張し、君主への忠誠心を作り出すことにも加担する。家長にとっても、地方のローカル支配者にとっても、国の支配層にとっても、自らの地位が保全される思想ゆえ都合が良い。(p144~145)
 ただ儒家思想には、中国を統一してしまおうという考え方はさらさらない。中国を統一したのは「信賞必罰」で氏族制度を解体しつくした「法家思想」なのだが、この厳しい法家思想の背景には、「道教」のもと道家思想が根底にあるということだそうな。「老荘思想」という、一見、人為を排してなぁ~んにもしないの(「無為」)がエエ!?という「道家思想」が背景にあるとは驚きだが、こう筆者は展開する。
 現世のことを扱う思想が多い諸子百家の中で、道家は例外的な「宇宙論」だ。「道」とは世界の構成原理であり、宇宙や社会を成り立たせている原則を指す。「これ以上消すことができないもの」としてのXを道と呼んでいるわけだ。(p147)
 法家では、君主が無限の権力を発揮できるのは、君主が「道」の体現者であるからと考える。したがって君主は絶対者であり、宇宙の主催者だということになる。ゆえに君主によって施行される法は、無制限のものとなることが許されるのだ。(p150)
 ひぇぇ~そうゆうことだったの…実際に法家思想を体現し、中国を統一した秦王に対し、李斯が王の称号を改めるよう上奏した。神話的な帝王の称号である天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)のうち、最も尊い「泰皇」を李斯は進めたが、政は泰の文字を抜いて帝を入れ「皇帝」とした。
 泰皇とは原始道家の概念で、宇宙を支配する泰一神(たいいつしん)のことである。つまり、泰皇を名乗ることは、現世の君主が宇宙を支配する絶対神になることを意味している。また王自身が選んだ「帝」とは、「上帝」という人格を持たない絶対神で、これも宇宙万物の総宰者という意味を持つ。
 李斯は法家ではなく道家の思想に基づいて、秦王に新たな称号を上奏したことになる。これも法家の根拠になっているのが道家だからだ。道家が目に見えない世界の構成要素から発想する思想である以上、法家が現実を無視して世界のあるべき姿を志向するのも当然のことなのである。(p150~151)
_0001_20190625172301  といことで、法家思想の背景に道家思想があるという、けっこう驚きの状況が理解いただけたであろうか…なるほど、中国統一後、始皇帝が「不老不死」にこだわったのも、道家思想の影響、背景があったからだと納得がいくものである。
 ただ法家思想は厳しすぎるだけでなく、正統性の根拠がはっきりしない(目に見えない「道」に基づく)ということが、国を統治するという点においては欠点となる。始皇帝は自分の子孫が二世皇帝、三世皇帝と続けていくこととしたが、なぜ皇帝の子孫が皇帝に成れるのか?という疑問に法家は答えられない(「法で決めたから」としか言いようがない)別の言い方をすれば、権力があっても、権威がない…という状況である。
 そこで再登場するのが、儒家思想である…既存の秩序を保守するのにはうってつけ。父系の「本家」を尊びましょう…というのはそのまま、皇帝の世襲も正統化してくれる。そして儒家思想のほうも、現実に合わせてバージョンアップしていくことが出来た。原理原則に拘泥する道家思想(ただし何が「道」なのかは誰にも分からない)法家思想とは違うのだ。実際、孔子の後150年後ぐらいの孟子は、孔子が認めなかった「下剋上」をあっさり認めてしまう…世の中「下剋上」が当たり前になっていたからだ…ただし、そのための理論は再構築した。「仁政」「民本思想(王道政治)」そして「易姓革命」である。また漢の時代になってからも
 たとえば景帝の父の文帝は、専横をふるった呂后(劉邦の正妻)を打倒する際にほとんど活躍しなかった。それでも即位できたのは、文帝の実母の一族が弱体で、外戚が力を持つ心配がなかったからだ。そのような即位の正統性に乏しい文帝に対して、儒家は、「母は子をもって尊し(子供が偉くなれば母親の地位も上がる)」として、それまでになかった考えを後づけして経典に加え、母の出自が卑しい文帝の即位を正統化した。儒家は社会の流れを見て思想を変化させ、ときの権力者に近づき、正統化の論理を提供したのである。(p176)
 漢以降の中国の統治思想は、儒家思想に戻った…ただし、いったん法家思想による統一を経て、法家思想も取り入れ、バージョンアップした思想である。儒家思想はやがて「儒教」として確立されるのである。 

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