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「キングダム」で解く中国大陸の謎(その2)

 安定した周王朝は紀元前771年、西の異民族「犬戎(けんじゅう)」によって12代周王が殺害されたことによって動乱の時代に入る。周は拠点を東に移し「東周」と名乗るが、その権威は凋落した。これが「春秋時代」の始まりだ。この時期、中国には300近い邑(ゆう)がひしめいていたが、次第にその淘汰が進んでいくとともに、力のある諸侯は独自に勢力を伸ばすようになる。これが「覇者」だ。彼らが掲げたのが「尊王攘夷」すなわち、周王室を尊び、夷(異民族)をうち払うというものである。
 先ほど「生産力が低いので宗族でまとまらないと農作業なんかできない」などと書いた…核家族で農作業をしても十分な量が収穫できない、大規模に農業を行ったほうが生産量は多くなる。だから複数の一族が一緒に集落を営んでいたわけだが、この複数の一族が軋轢を起こさないために「祖先神信仰」が共有され、氏族性の秩序が保たれている必要がある。そういった秩序の一つに「本家」のほうが「分家」よりも地位が高いというのがある。複数の一族が協力して農作業を行う、集落を営むと書くと一見すばらしいことのようでもあるが、本家・分家の身分制度が絶対である「差別」「抑圧」の体系、秩序の中にいるわけだ。そして生産力が少ないので、その秩序から外れると飢え死にするしかない。
 ところが春秋時代が進むと、農業における技術革新が進む…具体的には鉄の農具の大量生産と「牛犂耕(ぎゅうりこう)」である。鉄の犂を牛にひかせて深く耕すことで生産力がアップする。そうすると、分家の者が本家の下に甘んじていなくてもよい状況が生まれてくる。家族ごとに「自立」することが可能になって来るのだ。そうすると、「氏族制」…本家・分家の身分制度…が揺らぎ始める。
_0001_11  同様のことが支配階級の中に起きてくる…裕福な人間が支持され、権力が集まる。君主が家臣にとってかわられる「下剋上」が起こって来るようになる。今の山東半島あたりを治めていた「斉」では紀元前481年、田氏がクーデターを起こし、紀元前386年に王が呂氏から田氏に変わっている。春秋時代の初めに中原を治めていた「晋」も名門氏族の趙氏、魏氏、韓氏が勢力を伸ばして独立するというようなことも起こっている。この独立が認められたB.C.403年から先を「戦国時代」と呼ぶことになる。
 とはいえ、氏族制そのものは1000年以上にわたって当時の人びとに染みついていた「道徳」でもあり、それを完全に破壊することは、各諸侯が世襲で支配している根拠も失われることになる。それでも生産力の向上により氏族制の解体が進めば、歴史学者たちは「歴史が穏当に進行したならば、統一は紀元0~200年年頃に起きるのが自然だった」(p14)とみているそうだ。それが現実には紀元前221年に秦が統一を行うことになる…それは何故か?

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『キングダム』で解く中国大陸の謎(その1)

 始皇帝 中華統一の思想 『キングダム』で解く中国大陸の謎(渡邉義浩 集英社新書 2019年四月)を読んでみた。「キングダム」というのは週刊ヤングジャンプで2006年から連載されている原泰久氏の漫画であり、中国の春秋戦国時代末期が舞台となっている。主人公の武人、信(実在の秦の大将軍、李信がモデルとされている)が、後の秦の始皇帝となる王、政とともに活躍する物語で、秦の中国統一過程が描かれてい_0001_11 る(連載中なので当然、統一はまだ先だ)人気があるのでTVアニメや実写化もされている作品だ。本書はこれを紐解く形で、なぜ中国が統一されているのか?ということを説くものだ。
 私は中国に行ったことはないが、広大な中国は実に多様であるそうな。住んでいる人の体格や容貌も、気候も、文化風習も違い、言語も違うそうだ。中国はヨーロッパのように、いくつも国があってもおかしくない…そんな地域なのに、秦が統一してから魏晋南北朝の370年間、五代十国の54年を除けば、基本的に統一された状態にある。これは歴史をみても非常に大変なことで、例えばローマ帝国は崩壊後、2度と再興しなかったし、インド半島を大部分平定したマウリヤ朝(B.C。317年~B.C.180年)も、その分裂後インドの統一は近代まで成し遂げられなかったのである。広大で多様な中国がずっと統一されているその淵源は、初の統一帝国・秦にあると本書では主張している。

 ではなぜ秦が中国を統一することが出来たか?それを見る前に、統一される前の中国の状況をみてみよう…古代中国社会は、宗族…父方の血縁によって結びついた集団で、共通の祖先を祀り、ともに生活を行う(「宗族」自体は中国社会に今も残っている)を単位として農耕を行っていた。生産力が低いので宗族でまとまらないと農作業なんかが出来ない。そんな宗族を「入れ子」にしたような支配体制、筆者は「マトリョーショカ型のピラミッド構造」と呼んでいる「氏族性社会」が古代王朝「周」の支配である。ちなみに周はある一定のエリアを面的に支配していたわけではなく、邑(ゆう)という城壁で囲まれた「都市国家」を支配していただけである。邑のような点どうしが結びついていたのが、殷・周王朝であり、このような国家形態を「邑制国家」と呼ぶ。邑の外は基本的に支配が及ばず、王と関係なく暮らす人びとがいたわけだ。 _00012
 周王が直接治めていたのは鎬京(こうけい)という特定の邑のみで、それ以外の邑は「諸侯」が統治する。周王は諸侯を各国の「君主」としてそれぞれの領土の自治を認める一方、一定の税を周に送り、有事には軍隊を引き連れて周王朝を守ることを求めた…これが古代中国の「封建制」だ。ただし諸侯をそのままにしておけば自立してしまう…そこで「宗族」の関係を利用する。具体的には周王が自分の氏族の娘たちを諸侯に嫁がせ、血縁関係になるのである。また各諸侯も自分の国の重臣に対して、自分の一族の娘を嫁がせる、諸侯をトップとする宗族を形成していた。古代中国は、君主が一元的にある地域を支配できていたわけではない。君主は諸侯に、諸侯はさらに下の豪族・有力者に支配を「丸投げ」していた…これが「マトリョーショカ型のピラミッド構造」と呼ばれる「氏族制社会」である。そんな「国家群」が、中原とよばれる黄河文明の中心地、さらには南方の揚子江文明の中心地までなんとなく広がっていたのが古代中国である。
(図はp180にあるもの…中国が統一されていないのは、紀元220年からの魏晋南北朝時代と、907年から960年の五代十国時代のみ…どちらも白抜き)

続く

 

 

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松尾理論の問題点(その4)…未来社会はどうする?

 「そろそろ左派は…」本批判の最後。そろそろこの本とのおつきあいも一段落させたい。彼の未来社会への変革は、漸進的なものであると考えているようだ。
 だから、どっかでカタストロフが起こって、それで劇的に社会システムが変わるっていうのではなくて、目の前で、そういう次の社会システムにつながるような、階級的な抑圧関係のないような生産関係をつくっていきましょう、っていう話になると思うんです。最近、マルクスの展望した将来社会は「アソシエーション」と呼ぶのが流行っていますが、まずは草の根から、地べたの個々人の手の届く範囲から、アソシエーション的人間関係をつくっていくということです。
 具体的には、従業者や利用者に主権がある協同組合なり民主的なNPOなりのつながりあいが発展していくとか、あるいは普通の資本主義関係の中でも、労働組合とかが発言力を強めていって階級的な支配関係を変えていくっていうね。そんな感じの、日頃の日常の生産のあり方を身の回りから変えていく取り組みが拡がって言って…っていうイメージの社会変革論なんです。資本主義体制を根本的に変える上部構造の革命は、100年後か200年後か、土台の変革が十分成熟したあとにくるという展望になります。(p282)

_00011_2   ケインズ政策によって、資本主義の成長が需要・供給の差がありつつもダラダラと続く…図のようなイメージでおれば、上記のような「革命論」になるのもやむを得ない…革命は、我が身が生きている間には起こらない(だろう)…サンダースにしろ、オカシオ・コルテスにしろ、コービンにしろそう考えているだろう。薔薇マークキャンペーン に賛同する左派の皆さんの多くもそうだろう…60~70年代に「自分の目の黒いうちに革命やるんだ!」と決意して、革命的なんちゃら同盟ほにゃらら派なんぞに結集した方々とは違うわけだ。
 だから、革命的なんちゃら同盟的な方が「松尾匡は革命を彼岸に追い払っている!」と批判・非難することはやむを得ないにしろ、おそらく批判は交錯しない。

 それはともかく…これまで述べてきたとおり、ケインズ政策によって資本主義・帝国主義の矛盾は解決されない(だからヒトラーは「ケインズ政策」をやりつつ、世界大戦に突入した)し、リーマンショックのような金融危機も防げない。だから「斬新的」に進む準備をしつつも、急進革命の準備はしておかなければならない。はやい話が「アソシエーション(あえてこの言葉を使う)」を準備しつつある組織…NPOだろうが労働組合だろうが協同組合だろうが…は、階級的な支配関係を変えていきながら、生産・管理を自らの手で行っていかなければならないし、その準備をしておかなkればならない。なぜなら危機で資本主義がクラッシュした時、現世界で生産をつかさどっている「ハズ」の資本家どもは、逃亡するからだ。

 一方、松尾氏はこうも述べている。
 でも、不況下だと仮にそういう労働者協同組合みたいなものができたとしても、経営が苦しくなって簡単に「ブラック協同組合」になってしまうんですよ。だから、社会を変えていくといっても、やっぱりまず目の前の不況をなんとかするということを考えなければいけないと思います。
 この「ブラック協同組合」(労働条件等が悪質な企業・経営とかを「ブラックなんとか…」と表現することの是非はさておき)の話は、本当にシャレにならない。(生産)協同組合運動をやっても、運営が民主的でなく、かつそこで働く人がだれも幸せにならない…こんなのが「左派」が運営するヤツでもちょこちょこみられて破綻する、信用も無くすってのが、本当にある。「協同組合」が生き延びるためには、国・行政からお金を引っ張ってこなければならないことも多々あって、そのための財源は「ケインズ政策」で引っ張って来るしかないわけだ。

以上、松尾匡流・息継ぎ政策の紹介と批判は終わり!

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松尾理論の問題点(その3)…資本Gにお金はまわさない

 松尾匡「ケインズ」理論への批判…ただしここらへんは、松尾氏が言っていることに対する批判ではなく、言っていないから問題だということ。
 「そろそろ左派は…」本において、北田氏が述べている 『資本論』の有名な「G-W-G’」という議論ですね。「G」が貨幣で「W」が商品、「G’」が自己増殖して増えた貨幣だという一般式。(p275)あたり。ま、なぜデフレになるか?論のところだ。松尾氏は、ケインズの一般理論の体系と言うのは、『雇用、利子および貨幣の一般理論」というタイトルで、叙述の順番もほぼそのとおりなんですけど、「雇用の原因は利子、利子の原因は貨幣」という順番になっています。それで最後の原因は「貨幣」なんだということになるわけです。(p275)と展開され、貨幣のもつ「流動性」を選好する…要するにお金で持っていると、資本として使える…そうすると増殖するので、人びとがお金を貯め込むようになる…それが不況・デフレの原因である。この記事 でも似たようなことを書いたが、展開は中途半端だ。その中途半端さは、マルクスにちょっと触れながら、マルクスを全然語っていないことによる。
 貨幣・お金を「資本として使うと、増殖する」のは、労働者を働かせてその剰余価値を搾取するから出来ることである。それがG-W-G’サイクルだ。さらには自分で生産に関与しない、労働者を働かせないで、利子だけ稼ごうとする金融資本が現れる…これはG-G’サイクルである。そして増やすためには、ただ持っているだけではダメで、資本として投下されなければならない…銀行に預金して貸し出す、あるいは株式を購入するといった行為が必要となる。このへんの説明を松尾氏は省いているので、非常に「中途半端」なオモシロくない論になってしまう。

 単に政府部門が需要を創出して「インフレ」にしようとすれば、インフレに対する期待が上がり、将来は貨幣価値が目減りするとみんなが考える…だから人々は「お金」で持っておこうとはせず、モノを買うのでデフレは解消する…とケインズ政策では考えるし、松尾氏もそのように述べている。
 だがケインズ政策、あるいは薔薇マークキャンペーン政策をより「革命的」に捉える、あるいは展開しようとするならば、資本にお金はまわさない…という視点が必要である。この記事のおまけでも書いた通り、G-W-G’あるいはG-G’の最初のGに、お金・通貨を供給しないこと…これが利子を取ることで世界中を暴れまわる資本を規制する一つの方法なのだ。_0001_10

 需要不足で資本にお金が回らないから、政府部門が需要をつくりましょうというのは、最終的に資本にお金が行くので「規制」にはならないし、資本への「救済策」でもあるのだが、アベノミクスの最初の矢…異次元金融緩和…だけではダメな理由がある。それは中央銀行に国債を引き受けさせて作ったお金は、ほっておけば直接最初のGに回るからである。だから意図的に「人民のために」使わないとアカンのだ。
 加えて、富裕層から搾取・収奪する政策が大切なのは、富裕層がお金を持っていると、スグに投資・投機にお金が回る…直接最初のGにお金が回ってしまう。だから富裕層から「お金」を取り上げ、民衆のあいだで回すようにすることが必要となる。これは文字通り階級闘争である。

 松尾氏にはそういう視点がないので、マルクスの説明が中途半端となってしまうのである。本書のページ数等も含めた限界なのだろうが、せっかくG-W-G’式がでてきたのであれば、G-G’式も出して、生産もなにもせず利子だけ求める金融資本が基軸になっている社会を問題視し、それをぶっ飛ばす政策として(たとえ息継ぎ政策であったとしても)ケインズや薔薇マークを打ち出さないとアカンのである。

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松尾理論の問題点(その2)…マルクスは過不足を問題視していない?

 松尾匡「ケインズ」理論への批判…「そろそろ左派は…」本の最後のほうで松尾氏はマルクスを持ち出してこう述べている。
_0001_9  マルクスは「再生産表式」とかで、生産物を「生産手段」と「消費財」って二種類にまとめて、それぞれの需給一致条件を考えると言う話もありますが、あの式は「両財の超過需要の和がゼロ」になるようになっています。つまり、生産手段部門で超過需要が出ていたら、消費財部門でちょうど同じだけ超過供給が出る。だからあの世界では財の均衡条件式は、二部門想定しているのに1本しかない。これはいわゆる「セイ法則」なんですよ。(p273)
 「セイ法則」とは、要するに「作ったモノは全て売れる(貨幣に転化する)」という古典経済学の(したがって古典経済学を批判するマルクス経済学でも)前提であり、ケインズ的な見方をすれば「それはおかしいですよ」と批判されるシロモノなのだが、ここではこれについて述べない。
 問題は松尾氏が「再生産表式」について何も分かっていない(あるいは知っていてちゃんと説明していない?)ことである。
 資本主義の終わり論2最新記事で詳しく展開されているが、マルクスは部門Ⅰ(生産手段)と部門Ⅱ(消費財)に分けたのは、部門Ⅰと部門Ⅱの生産物が交換できないから、分けて考える必要があるとしたためである。そして部門Ⅰ、部門Ⅱ間での過剰・過少について考察している。「両財の超過需要の和がゼロ」になるからOK…でとまっているわけでなく、ちゃんと過大・過少になる場合について考察している。
 具体的に見て行くと…
 生産物の価値W=C(原材料の価値)+V(労賃)+M(剰余価値)
 部門ⅠのV+Mが、部門ⅡのCになる
 だから、部門Ⅰ(V+M)と部門ⅡCの交換を比較してみる。ケースとしては
 ①Ⅰ(V+M)>ⅡC 拡大再生産
 ②Ⅰ(V+M)=ⅡC 単純再生産
 ③Ⅰ(v+M)<ⅡC 過剰生産…これで破綻する

 である。
 マルクスがちゃぁ~んと、過大・過少を考えて「資本主義は行きづまる」と証明していることがネグレクトされているのである。

 もちろんマルクスの言っている過剰生産と、ケインズの言っている過剰生産はリクツが違う…マルクスは生産したものの部門間で不均衡がおこることが問題であるのに対し、ケインズは相対的に需要が不足(供給力が過剰)になって生産物が貨幣に転化されないため、経済が回らないことが問題であるとしている。「セイ法則」が成り立つかどうか?という違いもある。
 松尾氏はこの後で
 ただ、マルクス自体が恐慌を知らなかったわけではなくて、もちろん十分知っているわけですね。広い意味でのマルクスの政治経済学の中では、もちろん総需要不足の不況の存在とかは意識はされているんですが、経済理論として体系的に論じられてはいない。(p279)
 マルクスの時代、総需要不足が起こるとたちまち「恐慌」に陥って、工場はつぶれ労働者は街頭に放り出され、路頭に迷う状況になった。ただ工場がつぶれることで生産力が一旦オシャカになるため、総需要不足がすぐに解消され、また景気拡大局面に戻るのだ。だから「総需要不足」を理論づける必要はなかったとも言える。ただそこから逆読みして、マルクスが恐慌や「大量失業」についてあまり考えていなかったような書きぶり(「資本の有機的構成」が高まることで失業者が発生する云々…p279あたり)はいただけないのである。

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松尾理論の問題点(その1)…ヒトラーは防げない

 薔薇マークキャンペーンや「そろそろ左派は…」の理論は、あくまでも資本主義社会を維持した上でよりよい社会を構築しようとする「息継ぎ政策」である。だからマルクスやレーニンをちゃんと学んだ左翼からは、いろいろ批判・ツッコミもある…これからそこのところを展開する。
 松尾匡氏らの提案するケインズ政策…不況期に財政出動して需要を作り出し、好況期はそれを止め、「引き締め政策」を採るというのは、あくまでも資本主義社会がそのまま継続していくという前提に基づいている。
_00011_1 いわば左の図が永遠に続いて行く…ということが前提とされている。
 しかし資本主義社会は永遠ではない。過去に何度も恐慌を起こしている。つい10年前にもリーマンショックという恐慌が起き、多くの労働者が職を失い、路頭に迷った。それどころか、発展した資本主義…帝国主義はお互いにつぶし合う「争闘戦」を行う…90年代日本の「失われた10年」は、冷戦に勝利したアメリカ帝国主義による日本に対する争闘戦の結果でもある。それどころか2度も「帝国主義戦争」たる世界大戦を引き起こしている。
 こうした「資本主義の危機」「資本主義の矛盾」は、単なる需要不足では説明がつかないし、需要を増やせばなんとかなるというものでもない。「利子」を要求して世界中を駆け巡る資本そのものを規制(これが革命だ)しない限り、解決不可能なものである。

 「そろそろ左派は…」の中で松尾氏らは、ヒトラーやトランプのような極右が政権をとらないよう、左派がケインズ政策による「反緊縮」政策をとる必要があると説く。トランプはともかく、ヒトラーが政権を取れた、あるいは国民から一定の支持があったのは、世界恐慌期に緊縮政策をとらず、財政を拡大して雇用を増やしたから…逆にヒトラー以前の政権は、当時のセオリー通り緊縮政策をとった…ということを指摘もしている。
 ヒトラーの時代に「ケインズ政策」という言葉は当然ないわけだが、ヒトラーは一種の「ケインズ政策」をやっていたわけだ。当然、不況は「解消」した。ドイツにおいてはほぼ「完全雇用」が達成されたと言ってもよい。だが、資本主義・帝国主義の矛盾は解消されなかった。ヒトラーは東方への「生存権確保」を目指し、第二次世界大戦への引き金を引いた…他方、第二次世界大戦のもう一つの当事者、アメリカも「ニューディール政策」というケインズ政策をとり、不況は解消したが第二次世界大戦に参戦し、帝国主義間の矛盾解決を行っている。このようにケインズ 政策そのものは、帝国主義戦争を防ぐものではないのである。_0001_7  

 松尾氏らは、ヒトラーでなく、左派が「ケインズ政策」を採って政権を握っていれば、戦争は起きなかったと反論しそうであるが、資本主義・帝国主義の矛盾をそのままにして、争闘戦を続けていれば必ず戦争あるいはそれに近いクラッシュが起こる。歴史にIFはないのであるが、仮にドイツで「左派」(社会民主党なり共産党)が「ケインズ政策」をとって頑張っていたとしても、その先で革命起こして資本主義・帝国主義の矛盾を無くさない限り、どこかで右バネが働いて、ドイツは左の政権のまま、あるいは右派に政権を奪われて「戦争政策」を採ったであろう。

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デフレの原因は流動性志向、貨幣の物象化もろもろ

 松尾匡ら「そろそろ左派は…」の論考の続き…本書の終わりのほうは補論②新自由主義からケインズ、そしてマルクスへと題されている、そこでなぜデフレになるかという話がありまして。
_0001_6松尾 しかし、90年代頃からケインズの読み直しが進みました。そして、ケインズが不況の原因として挙げていることの核心は、価格や賃金の「下方硬直性」ではなく、「流動性選好」という概念にあるのだということが発見されたのです。
北田「流動性選好」というのは、人には実は「貨幣そのもの」を欲望してしまうような選考構造(経済主体が複数の選択肢の中からある商品やサービスを選び、それを欲求すること)があるということですね。何にでも交換できる貨幣というのは、ある意味で一番流動 性が高い商品ですけれど、人は「流動性そのもの」を求めてしまう性質がある。(p266)

で、これがマルクスのいうところの貨幣の「物象化」「物神崇拝」なんだそうな。要は神さまみたいな位置に貨幣がある、という図式なんですよね。だから、マルクスはお金を貯めること自体が自己目的化してしまうという話をしているわけです。(p275)
で、お金を貯めるために節約するだけでは物足りなくて、資本として投下し、G-W-G’のサイクルを回そうとするわけだ。さらに横着すると❗G-G’という利子生み資本サイクル…自らは何にも生産しない…を回そうとする。
お金で持っていると、それは資本としても使える、増殖する(物で持っていると絶対に増殖しない)だから人はお金で持ちたがる…ということもあるわけだ。
 また、デフレであれば「金融資産」を持っている人はお金の価値が上がるので、だまっていても資産が増える。あと一般人も、賃金や年金は物価よりも遅れて変動するため、インフレよりもデフレを望むのだ。90年代にバブルが崩壊して以降、正規労働者は非正規に置き換えられ、賃金は上がらず、むしろ切り下げられる…って時に、物価が下がってくれたのでどれだけ助かったか❗てのが、労働者民衆の実感だろう。で、昨今は円安の影響もあって、食料品など輸入に頼らなければならない生活必需品がジリジリと値上がりしている(なのに賃金や年金は上がらない)すご~く痛手になっている。
 また、いったんデフレが始まると「合成の誤謬」…個人個人が合理的な行動を行うことが、かえって社会全体で悪くなること…もあいまって、だれもお金を使わなくなる。だからデフレが続くのである。

おまけ…松尾氏は「共産党宣言」でも「フランスにおける内乱」でも、「革命政権は中央銀行を国有化して信用を国家の手に集中するのだ」と言うんですよ。結局その場合、政府が通貨を自由に発効できるようになるわけです。(p291)という…確かに革命政権が中央銀行を制圧すれば通貨は自由に発効できるだろう(「内乱」の時代は、銀行券は金とリンクしてたハズだから、自由にいくらでも出せるわけではない)が、通貨を自由に資本に回さない、G-W-G’、あるいはG-G’に通過を供給しないという目的もあるのだ。そして通貨を「流通手段としてのみ使える通貨」=「労働証書(あなたはこれだけ労働したので、社会からこれだけのものを引き出すことができるということを証明するもの)」にすみやかに移行させるためなのである。ケインズのいう、総需要を増やすためにお金を発効するだけのハナシではない。

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MMTよりアナキスト!

 「そろそろ左派は<経済>を語ろう」シリーズ…先日は「独自の通貨を持つ政府は、政府債務残高がどれだけ増加しても問題はない」理論根拠、MMTを紹介 したわけだが、ホントに左翼であれば「借金しても大丈夫」ではなく、「借金は踏み倒していいんだ!」というほうがより「かっこいい」だろう。ブレイディみかこ氏の発言を紹介する。
_0001_5  「松尾さんって日本だとなんか「異端」みたいに言われているのを時折ネットで目にしますが、欧州だと超「普通のレフト」です(笑)。緊縮は本当にヤバイという松尾さんが抱いている感覚が、欧州には地べたに転がってますからね。
 わたしはアナキスト系のお知り合いもけっこういるのですが、「債務を帳消しにしろ!」「借金なんて踏み倒せ!」っていうのは一種のアナキストでもあります。実際、欧州の反緊縮運動はアナキストが引っ張って来たという側面もあります。アナキストっていうのは別に貯金とかなくてもぜんぜんいい人たちだから、みんな「財政黒字とか、国が人から集めたお金を貯金してどうすんだよ」とか言ってるし(笑)。(p125-6)」
 で、民進党代表(2017年当時)の蓮舫氏が「財政均衡を憲法に入れたい」などと述べたことを批判して、こう続ける…
「緊縮憲法とか提案している人たちもわかっているだろうから、別のアジェンダがあるんだろうなと思います。クルーグマンも書いていましたが、「借金を返す」というお題目が、「小さな政府」にして新自由主義を進めることのもっともらしいエクスキューズになるんです。だからアナキストは「借金なんか返すな!」とアジってるんです。そもそも借金を返すのが目的の国って何なんですか。それを「財政規律」だとか…アナキストは「規律」とかも大嫌いですからね(笑)。本当に、日本では左派がものすごくまじめで、「財政を健全化しないと」って言われると、そうか、それが正しい人の道だよな、と素直に思うから反緊縮運動が盛り上がらないのかなと。アナキストは、「道徳なんかぶっこわせ!」っていう人たちだけど、日本だと「道徳的に生きることが左派の道なんだ」って思われている。(p127ー8)」

 日本の左派が道徳的であるかはともかく、例えば自民党の「金権政治」や「政財官の癒着」…さらには「忖度政治」を批判するにあたって、彼らより「道徳的」にならないといけないという側面はあるだろう。だけど、「借金なんか踏み倒せ!」なんてアジは、なかなかしなかったなぁ~…おお、そうじゃ!80年代「国鉄分割・民営化」が臨調・中曽根行革という新自由主義政策のメインに掲げられたときは「国鉄は赤字でいいんだ!」と訴えていたと思うぞ。別に(ブルジョワ)国家が赤字で倒れてもいいんだ!と開き直っていた…そうか、そうゆう「開き直り」を許さないのも「国鉄分割・民営化」攻撃の目的であったんだなぁ~。
 で、次の章(補論1 来るべきレフト3・0に向けて)の中で、ブレイディ氏らの対談は、イギリス・ブレア政権の「ニュー・レイバー」下でのアナキストの状況にも触れられる。曰く、「アナキストの「自律」志向がブレア流の「第三の道」ではうまいこと市場原理を補完するものにされてしまった。(p144 松尾氏)」と…「国なんかいらない、仲間同士でやっていける」という主張は、「小さな政府」と意外と相性が悪くなかったのである。ひゃー…ブレイディ氏も続けて「そうなんです。わたしは、そこにはちょっとアンビヴァレントな気持ちを持っていて、「政府に頼らずに仲間をつくってやっていける人たちはいいけど、できない人も現実の世界にはいるよね」って思います。それに、勤めていた託児所が緊縮財政で潰れましたから、仲間同士でやっていくことの限界も体験しました。(p144₋145)」
 このブレイディ氏の体験は、安易に「生産協同組合」が成り立つことは難しいということも示しているのだが、もし「借金なんて踏み倒せ!」で外の経済が壊滅した場合は、これでやるしかない!というのも事実である。

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「アベノミクス」評価と「金融緩和」訳語問題

 「そろそろ左派は<経済>を語ろう」シリーズ…松尾匡氏らは、アベノミクスについてどう語っているのか?
 _0001_4 まずアベノミクスには「三本の矢」がある。「異次元的金融緩和(第一の矢)」「機動的財政出動(第二の矢)」そして「民間投資を喚起する成長戦略(第三の矢)」である。本書の主張はケインズ政策であり、「金融緩和と政府支出の組み合わせ」というのは、デフレ不況(需要不足)に対する普通にケインズ政策の枠組みと同じなので、なにも問題はないし、安倍首相の独創でも占有物でもない。また欧州ではかなりスタンダードな左派の経済政策でもあり、英労働党のコービンは「人民の量的緩和(People's Quantitative Easing)」と言っている。要するに第1の矢と第2の矢は「有効」なのだ。
 問題は「第三の矢」で、同じ政策のパッケージに入っている必要は全くない…「「第三の矢」は小泉構造改革を継承するネオリベ的な天井の成長を意図した規制緩和路線ですから、需要側に注目した(「第一の矢」「第二の矢」の)ケインズ主義的な枠組みとはまったく異なるものというか、むしろ景気回復の足を引っ張るような政策です。でも、「アベノミクス」という言葉で二つの政策を一緒くたにしてしまうと、そういう違いが何も見えなくなってしまいます。」(p168)すなわち「第三の矢」だけがネオリベ政策であり、松尾氏に言わせれば「アクセルとブレーキを同時に踏んでしまっている」のだそうな。だから効果がないのである。
 また「第二の矢」の財政出動についても、「人民の/人々の」という意識に欠けており「有権者の一番の関心は景気問題なので、そこに注力してきただけなんですよ。そうすると、政策が非常に中途半端なものになるんですね。たとえば、本来金融緩和とセットになっている「第二の矢」の財政出動のほうを見てみると、一応政権発足後1年ぐらいは積極的な財政出動をやっていたんですけど、そのあとは財政赤字の増大を恐れて引き締めにまわっています。いつも選挙前になると、テコ入れのために一時的に積極財政をとるのですが、それが終わるとまた引き締めるということを繰り返してきました。」(p173)と手厳しい。だから「野党は『アベノミクス』の良い部分(金融緩和と財政出動)は継続して、お金の循環のさせ方を変えます。という方向でいけばいい」(p175)のだそうな。そして、お金の回し方も変える「本来は、社会保障費を削減するのではなくて、景気対策として社会保障分野にも投資するのが、左派本流の経済政策です。本当に財政出動すべき分野はたくさんあります。たとえば、子育て支援がその最たるものでしょう。それで子どもが生まれたほうが、将来税金を納めてくれるんだから、財政的にもいいに決まっています。(中略)少子高齢化を心配するんだったら、低すぎる保育士さんの給料も上げなければいけませんし、保育所も増やす必要があるでしょう。介護についても切迫していますから、たくさんお金をかけて取り組むべきです。奨学金など借金を抱えて大変な学生さんもたくさんいますし、大学の学費を無償にするとか、給付型の奨学金を充実させることも必要な政策だと思います。」(p177~8)要するに、旧来型のハコモノ、インフラ系公共事業…それこそオリンピックやカジノ、万博に代表されるようなもの…を止めて、旧民主党政権が掲げたスローガン「コンクリートから人へ」を実践すること。これが「左派」がとるべき経済政策なのだ。
 ではなぜ「アベノミクス」総体がボロカスに言われるのか…「Monetary Easing」の訳語を「金融緩和」としているため、これが通貨量を増やす(緩和する)意味でなく、なにか「金融自由化」の一種の「ネオリベ」新自由主義政策のようなイメージでとらえられるからである。また「金融緩和」だけでマネーをジャブジャブ出しても、「財政出動」のやり方が間違っているから、全部「資本」のほうにいってしまい、需要は増えない。デフレのまんま、株価だけは上がる…ということになるからだ。

 もっとも訳語問題は、「経済成長」の語もそうであるが、定着してしまっているので今さら変えられない…ということもあるのだが。

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「脱成長」でやっぱり正しい!?

 ようやく「成長」には2つのタイプがある記事のつづき…おさらいしておこう。
「僕はこの二つの経済成長の関係を、桶の中に入った水に例えたりもしています。桶の中に水(労働者)が入っているとして、その水がめいっぱい入っている(完全雇用)とみなして桶のサイズそのものを拡大しようとするのが天井の成長を重視する経済政策で、これに対して桶に水がぜんぜんはいっていないから(不完全雇用)、景気対策をして桶の中に水をもっと注ごうとするのが短期の成長を重視する経済政策です。」(p41₋42)
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 これを受けて、ブレイディ氏がこう続けている…
 「その喩だと、デフレ不況下で「経済成長はもういらない」といのは、「桶に水がはいっていないから水を注ごう」という時に、「これ以上大きな桶はいらない」と言っているような感じになりますよね。そうすると、なんだかトンチンカンな会話になっちゃう。でも、そんな状況で「経済成長はもういらない」なんて言ったら、それこそスーサイダル(自滅的)だと思います。」(p42)

 まあ、言いたいことは分かるのだが、逆に松尾氏の喩は、左派が「脱経済成長」を言っていたのはある意味、正しかったことを証明している。
 そりゃそうだろう…桶に水が足りていない(需要不足)の時に、「サプライサイド」の経済成長を求めて桶をでっかくした場合、出来上がったデカい桶には、よりちょっぴりしか水が入っていないことになる。より悲惨になっちゃうのだよ。
 デフレ不況期に、高度経済成長期と同じようなインフラ整備や原発の増設、さらには「構造改革」なんぞをやれば、よけい供給能力が上がる…だが、その供給を満たす「需要」が増えなければ、よけい不況になるというわけだ。
 だからこの「失われた20年」の間に、サプライサイドの経済成長…一般論的な開発志向の、松尾氏のいう「長期の経済成長」をもとめないことは、正しいことだったのである。

 で、左派がホントに言ってきたことは何か…それは「脱成長」ではなく、「成長の質を変える」 ことである。抜き書きすると… 

 基本的には「社会のあり方を変えて、成長の質(中身)を変えよう」ということである…例えば原子力を使って電力を作るのでは無く、自然エネルギーを使おう…ということだ。(ただし私は別の意味で自然エネルギーには反対である…分かりやすい例示として挙げている)原子力をガンガン使うシステムで「成長」するモデルがこれまで評価されていた。その指標でみると、自然エネルギーを使った場合のモデルでは成長が「緩やかに」あるいは「減少」して見える。しかしそれでも社会は運営され得るのだということだ。(ただし「自然エネルギー」に関して、今の脱原発主流は「自然エネルギーのほうが雇用も増え、経済成長する」というロジックを使っている)
 さて、少子高齢化でかつ「移民」を導入せず人口が減少する社会モデルを考えるにあたって、「社会の組みなおし」が必要になる。なぜならこれまでの社会は人口が右肩上がりであることを前提に組まれていたからだ。社会を組みなおすにあたっては、当然「リストラ」される産業・部門も出て来る…住宅建設なんか、そのいい事例だ。新規の住宅はもうガンガン建つことはなく、これまであるものをリフォーム・リユースしてゆくことが求められる。あるいはぶっ壊して「更地」にする需要だってあるだろう。こういった産業の「組みなおし」の中で「成長の質」は変わる…それだけだ。組みなおしをやっている段階で、かなり資源や労働力を使うことになるので、成長はそれなりに起こる…実は「脱成長」もそうゆうことである。産業・経済構造を変える中で、成長は起こるから、「脱成長」をやる=「衰退」し、「平等に貧しくなる」ということではない。

 社会の「組みなおし」を行うにあたって、それなりの「需要」は出来る…従って「桶の水(雇用)」もそれなりに増えるのだ。

 もちろん、旧来型の「成長」を求めて、例えば新幹線やリニア、高速道路や架橋(「忖度道路」と呼ばれる下関北九州道路なんかもそう)をガンガン整備する方法でも、それなりに雇用は生む…桶の水は増えるだろう。だが、それは持続可能ではないですよ…と言って来たわけだ。
 もっとも、松尾氏らは著書で旧来型の「成長」は求めず、カネを使うところを変えよう❗と言っている。だから本質的なところでは、主張は変わらないですよ…ということが言いたいのである。

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