書籍・雑誌

「国体」の3段階変容

 昨日の続き…白井聡の「国体論 菊と星条旗」について

 白井氏は、社会学者・大澤真幸が「戦後の思想空間」(1998年)で戦前と戦後の平行性を考察し、戦前の天皇制が天皇と国民の関係性において「天皇の国民」「天皇なき国民」「国民の天皇」の三つの段階を経過していると紹介した上で、同様のサイクルを戦後史に当てはめることが可能であると想定している。

 明治期すなわち近代天皇制の形成期において欧米列強の侵略からの危機に対抗しつつも、対外侵略も続けてきた「坂の上の雲」を目指していた時代、日本の住人は「天皇の国民」として再定義された。昭和戦前期すなわち資本主義の危機がやってきてファシズム思想が台頭した時代は、受動的に支配・動員される「天皇の国民」を、理想国家実現のため能動的に活動する国民に転換しようとした(ただし、国策=戦争への国民の最大級の動員という形をとって破滅に向かう)「国民の天皇」の時代である。その中間の時代は、天皇制国家が「安定」していたと同時に、「坂の上の雲」に到達して藩閥政府による権威主義的支配がゆらぎ、社会の様々な領域で自由化が進み、資本主義も発展すると同時に労働運動、社会運動が台頭してきた_000005 「大正デモクラシー」の時代であるが、この時代は「天皇なき国民」の時代であると位置づけられる。「天皇の国民」「天皇なき国民」「国民の天皇」の時代はそれぞれ「戦前の国体」の「形成期」「相対的安定期」「崩壊期」と位置付けられる。
 「戦後の国体」は天皇の位置にアメリカが位置付けられる。占領期から安保条約締結、60年安保を経てベトナム反戦、全共闘運動に至る時代が、対米従属の形成を確立のための「アメリカの日本」(形成期)時代。ニクソンショックあたりから、アメリカの没落が始まり日米貿易摩擦が激化した70~80年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ日本人のナショナリズムを最大限に満足させた時代が、「アメリカなき日本」の対米従属体制の「相対的安定期」とする。そして90年代以降、冷戦が終結し、日本が対米従属を国家の基本方針とする必然性が消滅したにもかかわらず、それが自己目的化した「日本のアメリカ」の時代となる。「戦前の国体」になぞらえれば現代は「戦後の国体」の「崩壊期」と位置付けられる…バブルが崩壊し、「失われた20年(30年になりつつある)」時代…わけだ。

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「永続敗戦」体制は「戦後の国体」

 

24日に講演集会がある こともあって、「国体論 菊と星条旗」(集英社新書 2018年4月)を読んだ。「敗戦」を受け入れられず、ひたすらアメリカに「従属」する戦後日本の体制を「永続敗戦論」で説明した白井氏が、その体制を「国体」概念を使って読み解こうとしたもので、白井氏は「現代日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が『国体』である」(p4)としている。

_000005  「国体」とは戦前の「天皇を頂点とした政体・体制」が不可侵であり、絶対であるという日本でしか通用しないイデオロギーである。「国体」は敗戦によって表向きは「解体」されたハズだ。だが白井氏は「「『国体』が戦前日本と戦後日本を貫通する『何か』を指し示しうる概念であるのは、戦前と戦後を分かつ1945年の敗戦に伴ってもたらされた社会改革によって、『国体』は表面的には廃絶されたにもかかわらず、実は再編されたかたちで生き残った」(p4)とする。天皇の上に「アメリカ」が頂点に立っている「永続敗戦」体制…それについて疑問に思うことも、否定することもできない体制が「戦後の国体」であるとしている。
 なるほど、敗戦時に日本が連合国に要求した唯一の条件は「国体護持」である。すなわち、天皇を頂点とした絶対不可侵の体制を変更しないことだ。占領政策を円滑に進めるため、マッカーサー達占領軍、そして米国中枢は最終的にこれを認めた。「天皇の軍隊」を解体し、統治大権を放棄する代わりに「象徴天皇制」として政治には一切かかわらず権威のみ保持する形をとることで、「国体」はフルモデルチェンジをして生き延びたのである。  
占領期にアメリカは天皇制を利用することで占領政策を円滑に進め、民主主義を導入することに成功したわけだが、この過程で「天皇を理解し敬意をもったアメリカ」(p127)という神話(マッカーサーと天皇の会見等)が生まれ、「この観念に。今日奇怪と評するほかならないものとなり果てた対米従属の特殊性の原点がある」「対米従属的な国家は世界中に無数に存在するが、『アメリカは我が国を愛してくれているから従属するのだ(だからこれは従属ではない)』などという観念を抱きながら従属している国・国民など、ただのひとつもあるまい。まさにここに『我が国体の万邦無比たる所以』がある。この観念によって、現に従属しているという事実が正当化されるだけでなく、その状態が永久化される。」(p127~128)と白井氏は「永続敗戦」体制の成り立ちを説いている。「国体の本義(1937年 文部省編)」において「大日本帝国は万世一系の家長とその赤子が睦みあって構成される『永遠の家族』とされ」(p252)たことで、支配であることが否認されたのが「国体」概念であるから、被支配・従属関係が否認される「永続敗戦」体制もまた、「国体」なのであろう。
_000006  なお白井氏は「われわれが何によって支配されているか意識せず、支配されていることを否認し続けるならば、永久に知恵は始まらない。今日、日本人の政治意識・社会意識が総じてますます幼稚化していること(=知的劣化)の根源は、ここにあるだろう。」「戦前のデモクラシーの限界が明治憲法レジームによって規定された天皇制であったとすれば、戦後のデモクラシーもまたその後継者によって限界を画されている。いずれの時代にあっても『国体』が国民の政治的主体化を阻害するのである。」(p130)と説いている。また白井氏はアメリカの歴史家のジョン・ダワーが、このような極めて特殊な外見的民主主義体制の成り立ちを「天皇制民主主義」と呼んでいることを紹介し、その上で成立している現在日本の平和主義は「天皇制平和主義」であるとしている。
 なお「対米従属」日米安保体制は、軍隊を解体したうえで、「国体への脅威」である「共産主義」(実態はソ連を中心とするスターリン主義だが)から「国体」を守り抜くための体制であり、その中でマッカーサーはある意味「勤王の士」あるいは「征夷大将軍」であったと白井氏は説く。天皇制とそれを守る暴力装置、軍隊との関係について白井氏はあまり展開していないが、古代律令制の時期と戦前の「天皇の軍隊」があった時期を除き、天皇は独自の暴力装置・軍を持たず、一番強いヤツに征夷大将軍などの「お墨付き」を与え、それに依拠することで自らを守って来た歴史的経緯がある。戦後一番強いヤツは、「天皇の軍隊」を打ち負かしたアメリカ軍というわけだ。このへんはこのブログでも過去に展開している。

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野中広務は沖縄差別を止揚できたか?

 90年代に官房長官を務め、自民党の幹事長でもあった大物保守政治家、野中広務氏が亡くなった。京都の被差別部落出身でもあり、政治家引退後、辛淑玉氏との対談本「差別と日本人」(角川書店 2009年)で、差別問題に保守政治家としてかかわってきたことが書かれている。
S_0001 また、昨今の安倍政治の憲法軽視・デタラメ政治が酷すぎるせいか、この人も憲法・9条を擁護する「リベラル」政治家であると考えられている。
 たとえばこんな感じ…毎日新聞WEB
野中広務さん死去:剛腕、平和追及…党派越えたたえる声

 野中広務元官房長官の訃報が伝わった26日、与野党から悼む声が相次いだ。野中氏が政争で見せた「剛腕」と、「平和」を追求し「弱者」に寄り添った政治姿勢は党派を超えて後進に影響を与えた。(以下略)
 ま、人様の訃報を聞いて、悪くコメントするヤツはほとんどいないのはおいといて…彼は少なくとも「沖縄」には寄り添えていないと考える。
 政治は、結果責任である。野中氏は「沖縄駐留軍用地特別措置法」を改悪し、知事の代理署名なしに沖縄の反戦地主の土地を米軍基地に使用できるようにした張本人である。いくら委員会の最後に「この法律が、沖縄を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないように…国会の審議が大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります。」と言った(議事録からは削除)としてもである。沖縄差別法を、政治的に認めたことは消えない。
 また97年に辺野古への基地建設を問う住民投票が行われた際、彼は名護市にいた…もちろん、「移設」を梃子入れするため、基地建設「容認」や「条件付き容認」が住民投票で「勝利」するよう、いろいろ工作をしていたのである。官房長官としての仕事だ。また、住民投票後の名護市長選挙・沖縄県知事選挙において「自公協力」を体制を作り(後に「本土」に波及する)、その後10年の「辺野古容認と引き換えの、沖縄振興」路線をつくった人でもある。

 要するに「札束で沖縄の人の頬をひっぱたく」体制を維持・発展させた人なのだ…このような人物が、後になっていくら「物わかりのいい」事を言っても、私ゃ信用はしない。

 なお全国政治で言うと「国旗・国歌法」をつくった人でもある…なんとなく「国旗・国歌」とされていた「日の丸・君が代」を、国旗・国歌であると法的根拠づけをしたものだ。成立時に付帯決議として「濫用」したり「強制」したりしてはイケナイとされたにもかかわらず、教員や公務員の思想・信条をしばり、入学式・卒業式等の周年行事での強制がまかり通るようになった。

 野中氏を「反差別」、ましては「リベラル」で括るようなあり方については、非常に違和感を感じる。

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ナチスの「手口」と緊急事態条項…「歯止め」なき自民党改憲草案

 さて、日本で考えられている「緊急事態条項」であるが、2012年の自民党改憲草案でみてみよう。
 改憲草案の第九章に「緊急事態」が設けられ、第九十八条(緊急事態の宣言)と、第九十九条(緊急事態の宣言の効果)が記述されている。
 第九十八条では、内閣総理大臣が閣議をへて、緊急事態を宣言できるとしており、それは国会の事前もしくは事後の承認が必要とされているものの、基本、行政府の長が自分で決められるようになっている。
 また百日を超えて緊急事態宣言を続ける場合は、事前に国会承認が必要であるが、百日というのは他国の事例と比べ、長い。
 第九十九条において、憲法十四条(法の下の平等)、第十八条(奴隷的拘束及び苦役の禁止)、第十九条(思想および良心の自由)、第二十一条(表現の自由)は「最大限に尊重する」と書かれているものの、これは「制限してはならない」という意味ではないので、これらは制限されるということだ。フランス第五共和国憲法でも、緊急事態において基本権を制限できる可能性については触れられていない。また、ボン(ドイツ)基本法では七十九条第三項に、第一条(「人間の尊厳」「人権」)および第二十条(民主制、連邦制、選挙制、法の支配、抵抗権…)の憲法の根本的な原則を変えてはならないとある。緊急事態時でも、基本権は守られる歯止めがあるわけだ。
 
S_0001_2  緊急事態を詳細に分類してそれぞれに規定を与えるわけでもなく、また内閣総理大臣の死亡や内閣総辞職の時の効力規定もない。国会集会の規定もなされていない…二院制での「ねじれ国会」を政治の停滞、議会の機能不全とするような国で、この状況を内閣総理大臣が「特に必要がある」と緊急事態を発する可能性もある。こんな中で、法律と同等の効力を持つ政令を、内閣がフリーハンドで出すことができるのだ。また、政令では「国民投票」の投票者を制限することも出来るので、緊急事態宣言時に、平時ではありえない制限を設けた上で「憲法改正発議」を行えば、簡単に憲法を変えることも可能だ。「主権独裁」が現れてくるのである。

 そもそも緊急事態条項は必要がない…大規模な災害時にあってはすでに「災害対策基本法」があるし、現憲法にも非常時の国会については、第五十四条二項に参議院の緊急集会の規定がある。憲法に選挙の期日が書かれており、それが災害等で選挙が行えない場合でも、その選挙が無効になったりするわけでは必ずしもない。
 それでもあえて「緊急事態条項」を入れるなら、ドイツのように要件を細かく規定し、犯すことのできない基本権を憲法に定めておくか、フランスのように裁判所(憲法院)によって歯止めをかけるかである。ただ裁判所によって「歯止め」をかけようとする場合、日本においては「高度に政治的な問題については、裁判所は司法審査権を行使しない」という、「統治行為論」を始末しておかないといけない。内閣が発した緊急事態宣言についての審査が、高度に政治的でないハズはないからだ。「統治行為論」を憲法条文で否定しておく必要がある…ということだ。

 本書ではドイツにある一連の憲法原理を強く求める姿勢が「戦う民主主義」と評価されている(もちろんこの中には、「抵抗権」もあればネオナチや共産党を禁止している「基本権停止宣言」も含まれている)が、このような政治的風土は、ナチスの犯罪の歴史についての深い反省と洞察が背景にあるのだそうな。歴史にも憲法にも向き合うことは、非常に「しんどい」ことなのであるが、それをちゃんとやってきたということだ。
 しかるに日本において、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「(たいしたこと)なかった」とする歴史認識がまかりとおっている…こんな国に「緊急事態条項」を設ければ、ロクなことにならないのだ…そう最後にまとめておこう…

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ナチスの「手口」と緊急事態条項…「歯止め」事例

 緊急事態条項は先にも書いた通り、危機に際して権力を行政府に集中させて「対応」し、危機が去ればまた権力が分立した「立憲主義」の態勢に戻るもの(シュミットの分類でいう「委任独裁」を一時的に与えるもの)として規定される。そこで「立憲主義」体制から緊急時に移行するにあたっての厳格な規定や、立法府のかかわりなどが「歯止め」として作られないといけないわけだ。
 ワイマール憲法においても、緊急事態権限の内容を詳細に規定する法律が予定されていたのだが、それらは未完であった。ゆえに制度の破れ目から緊急時に「主権独裁」が現れ、立憲主義体制を破壊し、ナチス独裁に向かったのである。

 だから現ドイツ基本法(ボン基本法)において、緊急事態条項には十分な歯止めが存在する。
 1949年に制定された「ボン基本法」では、草案の段階では緊急事態条項が存在していた。だが濫用への不安と、ドイツを「占領」していた西側諸国が、有事における全権を確保しておきたいという理由から、削除されたのである。
 東西冷戦下で「再軍備」も進む中、緊急事態条項を求める軍や警察関係者の声がたかまり、その導入については1958年頃から議論が進められてきた。緊急事態条項が盛り込まれたのは1968年の第17次基本法改定時である。
 緊急事態は、対外的緊急事態(外部からの武力攻撃)と、対内的緊急事態(州でクーデターが起きた場合と、災害時)に分けられ、対外的緊急事態の認定は、連邦議会が行うということになっている。急ぐときは「合同委員会(連邦議会議員32名と連邦参議院議員16名の常設の委員会…法律の制定や首相の選定も出来る)」が行う。連邦議会は連邦参議院の同意を得て、合同委員会が発した法律を廃止することは可能である。また、合同委員会が定めた法律や命令は、緊急事態終了後、遅くとも6か月または続く会計年度終了後に効力を失うとされている。
 国民の基本権の制限については、信書・郵便・電報の秘密の制限、職業・職場等の選択の自由制限、財産権の一部が公的収用に際しての補償が平時と異なる、拘置所の留置期限が少し伸びるといったことが行われるが、権力側のさじ加減でなんでも停止・制限できるという規定はない。
 災害等の対内的緊急事態については、警察力を含めた連邦政府と州は、通常の範囲を超えて連携せよと書いてある程度であり、移転の自由や住居不可侵が一部制約をうけるものの、国民の基本権を制限するものではない。
 
 ドイツではこのようになっているが、比較としてフランスやアメリカも見てみよう…フランスでは、第五共和国憲法第16条が緊急事態条項で、大統領の権限が非常に強いものである。ただ共和国の制度や国の独立、領土の保全、国際協定の履行が重大かつ切迫して脅かされており、憲法上の正常な運営が妨げられている場合にのみ発動が可能であるとされている。
 また、2008年に憲法院(憲法裁判所みたいなもの)の審査を求める第6項が追加された。30日以上の緊急事態権力が行使された後、国会議員議長、元老院議長、60名の国会議員もしくは60名の元老院議員は、憲法院に審査を申し立てることができるのである。
 別途、戒厳令の規定が憲法36条にあり、戒厳令は大臣会議が布告するが、12日を経過したものの延長は国会のみが可能である。このように、憲法院、立法府による「しばり」が存在する。
 アメリカには憲法で緊急事態を想定している条文はごくわずかで、第一篇第九節第二項に連邦立法権の制限として、人身保護令状の特権は…停止されてはならない…とあるのと、第二篇第三節 大統領の義務として、非常の場合には両議院またはいずれかの一院の召集することが出来る…云々とあるだけである。

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ナチスの「手口」と緊急事態条項…「主権独裁」と憲法制定権力

 ナチスの「手口」と緊急事態条項から…  そもそもワイマール憲法の第48条「大統領緊急令」に、ワイマール憲法自体を無効にするような力が与えられていたのだろうか?
 当時のドイツ法学では「憲法優位の大原則」が確立しておらず、憲法と法律は同等であるとされていた。このような憲法の位置づけは、主権者であり、憲法制定者でもあった君主・皇帝と、国民代表の議会が相互に牽制する中で発展してきた、19世紀以来のドイツ立憲主義の特徴でもあったのだ。
 また「独裁」ということを考えるにあたって「委任独裁」と「主権独裁」と言う言葉をおさえておく。これらの言葉はドイツの法学者で、初期のナチス政権にも協力したカール・シュミットの著書「独裁」(1921年)の議論に出てくるものだ。
 「委任独裁」とは、危機的状況に対応するため、一時的にある人物・集団に権力の集中を図るもので、危機的状況がなくなれば最終的に元の「立憲主義」体制に戻るものである。  それに対し「主権独裁」というのは、既存の立憲的な政治制度を離れて、新たな政治制度をつくりあげることを目的とするものだ。いわゆる「革命政権」が憲法を制定する過程で現れるような「独裁」であり、シュミット的に言えば「憲法制定権力」が裸の形であわれわたものだそうな。  
 「憲法制定権力」と言う概念は、フランス革命時の「第三身分とは何か」(1789年)というパンフレットに初めて打ち出されたものである。憲法がない当時のフランスで、憲法を制定できるのは「第三身分」しかないというものである。ここで「憲法制定権力」はいったん憲法が制定されてしまえばその背後に姿を隠し、凍結されてしまうハズであるのだが、シュミットによれば「主権独裁」は、憲法典が存在するにもかかわらず、その背後にいる「憲法制定権力」が表舞台に姿を現して力を発揮するのだそうだ。  憲法典が自らを否定する「主権独裁」を明記するハズはない…「大統領緊急令」や「授権法」に示されている行政府の「独裁」は、「委任独裁」を想定しているにもかかわらず、憲法典にその旨きちんと書き込まれていないと、「主権独裁」の手段になり得るのである。

 ではヒトラーが政権を掌握した後のドイツは、「革命情況」であったのか?先にみたとおり、ヒトラー政権はドイツ国民から絶大な支持を得ていたわけではない。ただ議会が力を失い「大統領緊急令」が頻発される一方で、ナチスや共産党による街頭での行動、ぶつかり合いも起こっていた…世界恐慌によるドイツ帝国主義の危機は、「革命情況」であったとも言える。このような中、一方のナチス・ヒトラー側が「大統領緊急令」を発動する権限を持つことが出来た→これを使って憲法をすっ飛ばし、ナチスによる「国民革命」(ナチスイデオロギーを実践するための国家改造)を行った…と言える。

 なお蛇足であるが、ナチスが「主権独裁」を行使したからといって、ドイツが「無法地帯」になったわけではない。「主権独裁」が行使されている状況は、憲法制定権力がホッブズの言うところの「自然状態」にあるという…で、「万人の万人による闘争」となっていたのかというと、確かにナチスは共産党など反対する勢力に対し、憲法秩序も無視して国家暴力で襲い掛かっていたわけであるが、経済分野では通常通り法律が運用されていたのである。

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ナチスの「手口」と緊急事態条項…ナチス独裁の成立

ナチスの「手口」と緊急事態条項(長谷部恭男 石田勇治 集英社新書)を読んだ。憲法学者とドイツ近現代史専門家の対談形式本である。憲法改正に関して麻生太郎氏が「あの(ナチスの)手口、学んだらどうかね」(2013年7月29日)を批判したものである。
_0001_2 まず巷で思われているように、ナチスは決してドイツ国民から絶大な支持をえて政権についたわけではない。ヒトラーが首相になる前、1932年11月の国会議員選挙では、ナチスの議席は全議席の33.1%、連立を組む予定の国家人民党と合わせても4割ちょっとしか議員はいなかった。当時のワイマール共和国の選挙制度は、ほぼ完全な比例代表制であったから、議席数はそのまま国民の支持率を反映している。あたかもナチスが「国民の支持」を得て政権についたという「神話」は、実はナチスのプロパガンダの結果、出来上がったものなのだ。
 そのナチスが政権を握り、独裁権力を握る過程で重要な役割を果たしたのが、ワイマール憲法の第48条に規定された「大統領緊急措置権」である。これが自民党改憲草案の中にある「緊急事態条項」に相当するものだ。では「大統領緊急措置権」が、どのように使われていったのかを見てみよう。

 ワイマール共和国は直接選挙によって選ばれた大統領と、同じく選挙で選ばれた議員による国会が互いに牽制しながら政治を行う「二元代表制」もしくは「半大統領制」と言われるものであった。この体制は何も珍しいものではなく、現在でもフランス第五共和制を始め、韓国、台湾、ロシアと多くの国々で採用されている。
 ワイマール共和国での大統領の権限は①首相・閣僚の任命権(第53条)②国会の解散権(第25条)そして③非常時の緊急措置権(第48条)が規定されていた。ここで1929年の世界恐慌が起こり、ドイツ経済は大きな打撃を受ける。この時の首相、ブリューニングは1930年7月、増税とデフレを基調とする財政再建案を国会に提出するが、否決(当然「ケインズ政策」なるものは存在しなかった)…これをヒンデンブルク大統領が大統領緊急令として公布されることになる。もちろん国会は反発し、社会民主党は大統領令の廃止を動議として提出し可決されたが、それに対抗して国会が解散され、大統領令は若干の修正を経たうえで再度公布されるのである。
 この後9月の選挙では、ナチス党は18.3%、共産党も13.1%となる。で、ナチスも共産党も「ワイマール共和国を認めない」というイデオロギーに基づいて政治を行っているので、国会審議がたびたび止まるようになる。その結果、国会を通過する法案も激減した。1930年は98件もの法案が通過しているが、31年は34件、32年は5件となる。一方で大統領緊急令による「法律」は、30年には5件だったものが31年には44件、32年には66件にまで増えたのだ。このように大統領の権限が強くなっていったので、この時期の内閣を「大統領内閣」と呼ぶ。
 1932年6月、パーペンが首相に任命される。7月の国会議員選挙でナチスが37.3%と躍進、共産党も14.3%となる。ここまで来ると大統領緊急令も議会で否決される可能性ある。内閣不信任を恐れたパーペンは選挙後もなかなか議会を開かず、9月12日に召集された国会は冒頭に解散されてしまう。この際、パーペンらブルジョワジーの一部首脳の中に、ワイマール憲法を停止して「新憲法」を制定し、危機を乗り切ろうとする、事実上のクーデター計画もあったらしい。
 その後、11月に選挙が行われ、翌1月30日にヒトラーが首相に任命される…保守の目的は①議会制民主主義を終わらせ②共産主義勢力を粉砕し③ドイツ再軍備を進める…というもので、ヒトラーの政権構想とマッチしたのである。ただヒトラーはあまりにもデタラメ(「我が闘争」に書いてあることを読めば、デタラメさは良く分かる)な人間であることは分かっていたため、外からコントロールできると考えていたようだ。
 首相に就任したヒトラーの「道具」は、①大統領緊急令②親衛隊と突撃隊③大衆宣伝組織 である。②と③はナチス独特のものと考えられているが、大統領緊急令はワイマール憲法に基づくものである。で、2月27日「国会炎上事件」が起こる。これはナチスの自作自演であったのだが、当時は共産党の仕業であるとされた。ここでヒトラーは「国家と国民を防衛するための大統領緊急令」を出し、共産党の弾圧と地方政治(州レベルでナチスが弱いところがあった)への介入が進められたのである。
 ヒトラーは33年3月5日に選挙を設定しており、国会炎上事件を受けてナチスの得票率は43.9%になった(それでも4割強であることに注意)…共産党の弾圧を終えたヒトラーは、悪名高き「授権法」(全権委任法)を制定しようとする。これは政府に立法権を与え、それが憲法に違反していても良いとするものだ。実はワイマール共和国では、1923年に天文学的インフレが起こった際、経済分野に限った「授権法」が成立している。ただしこれは24年までの時限立法であった。「授権法」成立のためには、憲法改正と同じ国会議員の2/3以上が出席し、そのうちの2/3以上の賛成がなければならない…が、共産党議員の逮捕で母数を減らし、かつ議院運営規則を、議長が認めない理由で欠席する議員は出席扱いにするというふうに変更することで、ヒトラーは「授権法」を通したのである。この後ユダヤ人排撃や障害者抹殺などのナチスイデオロギーを実行する、ナチ法が次々と成立することになる。

 ナチス独裁が成立するまでに、様々な要因や条件が存在するわけであるが、ワイマール共和国末期に起きた「政治的混乱」を、大統領緊急令…緊急事態条項で乗り切っていこうとしたことにも、その原因があるということが分かるだろう(続く)

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糖質制限最終回答!

 糖尿病の新しい治療方法から始まって、効果的なダイエットとしても話題を集めた糖質制限…今や巷には「糖質ゼロ」をうたう商品もあふれている中、出ましたよ~
S_0001 炭水化物が人類を滅ぼす【最終回答編】植物VS.ヒトの全人類史 夏井睦 集英社新書(2017年10月)

夏井氏の前著は読んで目から鱗…と絶賛したのだが、今回はそれほど新しい事実が書かれているわけではない。まぁ、おさらいといったところ。

 網膜や赤血球、はては脳細胞まで「ブドウ糖」しか受け受け付けない細胞もあるが、人の体は「糖新生」で必要なブドウ糖を作ることができる。.
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ホルモンは通常、対になる働きをするものが数種類セットになっていて、「アクセル」と「ブレーキ」を踏んでいる。ところが血糖値を上げるホルモンはグルカゴン、コルチゾール、アドレナリン、甲状腺ホルモン、成長ホルモンの5種類あるが、血糖値を下げるホルモンはインスリン1種類のみ。高血糖に対してはアクセル5つにブレーキ1つなのである。またインスリンが血糖値に働く速度は遅い…ということは、もともと動物にとって高血糖状態というのは想定されていない、自然状態で糖分をたらふく食べるというのはあり得ないことを示している。
 脂肪は肥満のもと…と言われるが、脂肪のみ摂取しても血中脂肪濃度が多ければ、鳩首されずに排出されてします。過剰なブドウ糖がインスリンによって脂肪細胞となるから問題なのだ。その証拠に、炭水化物+脂肪で、美味いものが多い…チャーハン、焼きそば、焼うどん、背油たっぷりラーメン、バターたっぷりトースト、フライドポテト、じゃがバター、サータアンタギ―…

ということである(^^)/

後は著者による「思考実験(考察)」…なぜ脳内物質、ドパーミン(糖質をとっても発生し、気持ちよくなる…すなわち糖質は「嗜好品」であり、薬物のような「常習性」があるわけだ)が働くようになったか?人類が増えたのは「食糧生産」をするようになったからか?農耕を植物からみると?穀物を採るようになってヒトの体はどう変化したのか?等々…

 糖質に頼らない将来の食糧として著者は「昆虫食」も提案されている。サバンナで二足歩行を始めた初期人類の食糧は昆虫であった。狩猟を始めたのは氷河期が来て人類が極端に少なくなった時に「集住」を始めてから…昆虫を食べていた時代は、周辺を歩き回るだけで簡単に食糧が採れた。牛や豚などの家畜も今は「穀物」を食べているが、健康に育てようとすると人間と食べる物がかぶる…昆虫なら人と食べる物がかぶらないので、これを養殖すればよい…のだとhappy01

ちなみに私は「糖質制限食」を実践するか???いやぁ~実家で母親と暮らしていて、母親が「ゴハン大好き」人間であるのと、やはり「うまいもん」が食べたいので…なるべく糖質は避けようという「努力義務」にしておこうvirgo

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ポピュリズムについて考える(後篇)

 

 ポピュリズムは「左派的」「分配重視的」なものとして始まったが、現在では「新自由主義批判的」なものとして捉えられている。特に「東西冷戦」が終結したヨーロッパにおいては、既存の政治勢力が、左派勢力のみならず「反共」としての保守勢力もその存在意義を問われている。左右の既存政党は「新自由主義」や「立憲主義」に規定されて主張の差が少なくなり、また社会構造の変化からそれらを支えている労働組合、農民団体などに帰属するメンバーが少なくなっているからだ。ところで「新自由主義批判的」に躍進しているポピュリズム政党のほとんどが、フランス国民戦線のようにもともと「極右」として誕生した政党が、民主主義的な価値を一定程度認めるよう変化したものか、民主主義的価値観を容認してきた保守政党から「イスラムは民主主義的価値観と相いれない」として「移民排斥」主張を掲げ、先進的な社会福祉は自国民だけに限るといった「福祉排外主義」を主張する右派政党がほとんどである。これはなぜか?簡単なことで、左派・左翼の主張というのは「分配」だけではなく、「権利の行使のために自ら主体的に参加し、行動する」ことを掲げる。また左派・リベラルが主張する「多文化共生」というのは、外国人の異なる文化や習俗を学び、理解した上で解決策を模索するという、ある意味大変めんどうくさく、手間ヒマがかかるものだ…だから「外国人は出ていけ!」と叫ぶことのほうがラクなのである。S_0001_3



 日本における橋下や小池のポピュリズムは、「新自由主義批判的」な主張のカケラすらなく、それどころか新自由主義的な政策を「改革」として掲げ、ひたすら敵を設定して叩き「立憲主義」を破壊しているのが現状だ。また「分配の公平さ」を求めようにも、真の収奪者たる独占資本・金融資本がアンタッチャブルになっているから、「既得権益保持者」として労組や弱者団体を叩くことが中心となる。また、日本における小泉改革は、政権政党がポピュリズム的な突破を行ったと捉えることができる。トランプ現象は既存政党にトランプというポピュリストが浸透していったものと考えられる。

 

 人民主権や選挙、多数決といった「民主主義」の言葉に依って立つポピュリズムを、「民主主義の敵」として叩くことには限界がある。議会制民主主義、代行主義に立つ限り、ポピュリズムは避けて通れない面があるのだ。だからポピュリズムに対抗するには、民主主義の質を問うもの、単に選挙の一票だけのものではない、実際の統治に「自らが主体的に参加し、行動する」民主主義のシステムをつくり、「収奪者から収奪する」社会をつくろうとする粘り強い取り組みが求められるのである。

 

参考文献…「ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か」水島治郎 中公新書201612

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ポピュリズムについて考える(前篇)

 アメリカのトランプ大統領、フランス国民戦線マリーヌ・ルペン、東京小池都知事「都民ファースト」そして大阪橋下「維新」など、「既存政治を批判する」右派潮流の躍進が著しい。こういった政治党派や政治家達は「ポピュリズム」「ポピュリスト」としてくくられることが多いが、そもそもポピュリズムとは何だろうか?

 「ポピュリズム」は「大衆迎合主義」と一般的に訳されている。一見すると「大衆」に「迎合」してくれるので、民主主義的で、私たちの利益をかなえてくれそうだ。19紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカに「アメリカ人民党」(PeoPle Party)という政党があり、ポピュリスト党(PopulistParty)と呼ばれていた。これが「ポピュリズム」の始まりとされている。
 アメリカ人民党は資本主義社会が発展する南北戦争後のアメリカ社会において、社会的に不満を高める労働者・農民層の支持を取り付けた。累進課税、鉄道や電信電話事業のS_0001_2


公有化、企業による農地所有の制限、労働規制の強化など、当時としては「先進的」な主張を掲げ、連邦議会や州議会で議員を獲得している。
 またラテンアメリカでは1930年代以降、大地主や鉱山主などの寡頭支配に対抗し、中間層や農民など多様な支持層を背景にポピュリズムが台頭、躍進した。アルゼンチンではイタリア・ファシズムに感化されたファン・ペロンという軍人が、賃上げ奨励、労働者保護立法、年金・医療・休暇施設の福祉充実といった労働福祉政策や産業政策を掲げて大統領に当選している。ペロンの政策は「ペロニズム」と呼ばれ、ラテンアメリカのポピュリズムの典型とされている。このようにポピュリズムは「左派的」「分配重視的」なものとして始まっているのである。
 
 ポピュリズムの特徴としては、主張の中心に「人民」を置くこと、「人民の意思」を体現する代表として自らを表す…その手段として「民主主義」における選挙や多数決原理、さらには住民投票などの「直接民主主義」的手法を最大限活用する。また既存政治、政治家や「エリート」批判、タブー破りを行い「敵を設定してそれを叩く」ことも特徴である。これは既存政治・政党の掲げる主張に不満を持ち、ともすれば政治から距離を置く人々の心をとらえ、政治に参加させるという意義も持つ。ただし、ポピュリズム政党が目指す人民の政治参加は、あくまでも「選挙での投票行為」のみを目標としており、具体的に人民・民衆が「統治に参加する」ということは想定していない。徹底的に「代行主義」なのだ。また政策を実現させるに当たり、民衆の「大衆運動」に必ずしも依拠しない…ラテンアメリカのポピュリズムはそれでも、政治家がバルコニーから呼びかけ、それに民衆が喝さいを送るという構図があるが…民衆の不満をすくいとり、メディア(現代ではインターネットも)を駆使して民衆に呼びかける手法は似ていても、「大衆運動」や「集会」(さらには疑似革命としての実力行使)を重視するファシズム運動とは異なる。  
 また「民主主義」社会は、選挙で体現される「人民主権」だけでなく、「法治主義」「立憲主義」という側面も持っている。要するに選挙や多数決原理だけでは、少数派や多様な価値観を尊重することが難しい、「選挙で選ばれた政治家」も、無茶してはいけませんよという歯止めである。しかしポピュリズムは「人民主権」を重視する一方、法治主義や立憲主義はしばしば「既存政治」や「エリートの既得権」として批判の対象とされる。トランプや橋下のようなポピュリスト政治家が行政権力を取ると、しばしば無茶をして暴走するのはこのためである。

参考文献:ポピュリズムとは何か?民主主義の敵か、改革の希望か 水島治郎 中公新書2016年12月

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