経済・政治・国際

「日韓請求権協定で、完全かつ最終的に解決済み」では絶対ない!

 韓国大法院が10月31日に、元「徴用工」が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟の上告審において、個人の請求権を認めた控訴審判決を支持し、1人あたり1億ウォン(約1000万円)を支払うよう判決を出した。これについて安倍首相・河野外相を始め、右派からリベラル系のマスコミまで「日韓請求権協定で解決済み」「韓国は国際法を守れ!」など非難を続けている。このような状況になんとしても抗議し、日帝の植民地支配に対する責任を追及し、オトシマエをつけなければならない。
 法律的にいっても、「日韓請求権協定」においては、請求権の「外交保護権の放棄」が行われたのであって、個人が裁判に訴えて請求権を行使することは妨げられていない。政府、外務省もそのように答弁してきた歴史的経緯がある。また、このことは「日韓」だけではなく、一連の戦後処理において締結されたサンフランシスコ平和条約や、日ソ共同宣言等においても同じで、個人がアメリカやソ連(ロシア)を訴えることは妨げていないのである。こうしたことは単なる「学説」とかでもなく、国会で外務省が明確に答弁していることだ。
シベリア抑留者関する質問に対する答弁書
1991年8月27日の参院予算委員会における柳井俊二・外務省条約局長の答弁(リテラ記事)
 「その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます」

 だが日本政府はこういった答弁の存在を隠し、2000年代に入ると戦後補償問題は条約の請求権放棄条項で解決済みとの主張をするようになった。(参考資料 )その「オウム返し」を今回も繰り返している。マスコミも過去の答弁を探したりすることもせず、日本政府の主張をそのまま垂れ流し、韓国に対する敵意、排外主義を煽っている…全く持って許しがたいangry

 その上で、韓国大法院の判決は、「違法な植民地支配」を弾劾し、それに対する「慰謝料」として1億ウォンを支払うよう命じている…単なる「未払い賃金」の賠償ではない。植民地支配が、韓国司法に弾劾されたということだ。日本の労働者・民衆はこのことを重く受け止めなければならない。
 日韓基本条約-日韓請求権協定は、日帝の植民地支配を謝罪し、償うものでは決してない。日本の植民地支配についての賠償は一切行っていないし、行うつもりもないというものだsign03レイバーネットの記事
 百万歩譲って、一旦締結した日韓条約を破棄・無効化はできない、よって日本政府や日本企業が「法的責任」を負うことは不可能だということを認めるとしても、では「道義的責任」についてはどうかsign02安部首相を始め、日本政府中枢は日帝の朝鮮半島における植民地支配すら認めず、「良いことをやった」と開き直る輩、主張が蔓延している。「徴用工」に対しても、「合法だった」(そりゃ、法律や政令に基づけばなんでも「合法」だ)、「賃金を払っていた」(低賃金で過酷な労働条件の下でこき使っていたんですけれど)、さらにはそのことを後世につたえようとすると「捏造だsign03」とバッシングされる有様だ。

 提訴された企業は、「徴用工」に対して謝罪と補償を行えsign03日本政府の開き直りを許さず、徴用工問題について責任ある解決策をとらせようsign03ネトウヨからリベラルマスコミによる韓国敵視・排外主義の嵐に抗し、植民地支配に対する認識を確立させようsign03

 歴史修正・排外主義を煽り、東アジアの平和と安定に何も与しない安倍政権を打倒しようvirgo

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外国人を分断して、より厳しい管理になる!

 今の臨時国会では、外国人在留資格を大幅に見直し、新たな在留資格を作って外国人労働者の受け入れを拡大する「入管法改正」が大きな課題として上げられている。少子高齢化が進み、いわゆる「人手不足」産業も出て来る中で、外国人労働者に頼らないと日本社会が成り立っていかない…ところまで来たのだ。
 安倍首相は「移民政策ではない」、「人手不足の深刻な業種に限り、即戦力となる人材を期限をつけて受け入れるもの」と衆議院本会議で答弁している。入管法改正の概要は毎日新聞の入管法改正 受け入れ対象は人手不足深刻14分野
 改正案の柱は、一定の知識・経験を要する業務に就く「特定技能1号」(最長5年)▽熟練した技能が必要な業務に就く「特定技能2号」(在留期間の更新可能)--という二つの在留資格の新設。
 とあり、人出不足が深刻な14分野とは
 介護▽ビルクリーニング▽素形材産業▽産業機械製造▽電気・電子機器関連産業▽建設業▽造船・舶用工業▽自動車整備業▽航空業▽宿泊業▽農業▽漁業▽飲食料品製造業▽外食業
 なんだそうな。

 上記の人手不足産業では「技術実習生」「研修生」あるいは「語学留学生のアルバイト」という形をとって、外国人労働者を働かせているのが実情だ。「実習生」「留学生アルバイト」では、制度の趣旨にそった運用をちゃんとやっている所がある一方、正規の労働者でないところから、低賃金・無権利労働の温床となっているケースも多く、外国人労働者の人権を守る上でも問題となっていた。また、これまで日本は、外国人労働者について、高度な専門知識を有する人材に限り、労働者としての滞在を認めているものの、それ以外の「単純労働」については認めていなかった。新しい在留資格を作るということは、とりもなおさず外国人の「単純労働」を認めるということで、外国人政策を大きく転換するものだ。安倍首相が「移民政策ではない」と言っても、実質「移民」によって労働力不足を補おうとするものである。
 入管法改正により、外国人労働者が合法的に日本にやってくる…日本の労働力人口が減少するにつれ、否が応でも外国人労働者が増えることになるのだが、それに対し法務省は、これまで内局であった入出国管理局を再編・格上げして、外局の「入出国管理庁」にする方針である。法務省設置法などの改正も、今回の臨時国会で行われる予定だ。
 これによって、「違法な外国人入国者」への取り締まりが、より厳しく行われることになる…なんだ、アタリマエのことではsign02と思うなかれ…外国人労働者も含め、外国人を「日本社会に役立つか」そうでないかで「分断」し、違法・不法就労(なんら「犯罪」をおかしていなくても、なんらかの理由で滞在が違法・不法になっただけであっても)には容赦なく取締り、国外追放を行う体制を構築したいということなのだ。
 今年の秋、フジテレビで「タイキョの瞬間」という番組が放送された。外国人の強制退去を担う入国警備を密着取材したものだが、「不法滞在」状態になった外国人の事情や、入管収容施設における虐待、人権侵害などの状況を全く無視した、「入管PR番組」として多くの批判があった。記事リンクこちら このような番組が放送されることも、外国人労働者の増加を見越した上で、外国人に対する管理・抑圧をすすめていくという法務省、さらには日本社会のあり方の現れだろう。

 外国人労働者、新しい入国資格の導入については、これまでの「実習生」や「語学留学生のアルバイト」といったその場しのぎの、本音とタテマエが乖離した制度を運用するより、きちんと労働者=人としての権利を認め、運用していくことが大切である。同時に「人手不足産業」の賃金や労働条件、働き甲斐といった所も大いに改善していく必要がある。少子高齢化で、労働力が減っていくことは今更止めようがない…だが、後者をそのままに、外国人労働者を導入しても、結局「人の嫌がる仕事」を外国人にやってもらうという、差別の構造は変わらないからだ。左翼であれば、こうゆうこともきちんと考えないとイケナイvirgo

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明治維新をdisろう…その7 維新後は「長州レジーム」?

 おわらせるつもりで、あと1回だけ…ブログ「資本主義の終わり論2」8・8講演会に参加して の中に、次のような記述がある。

 講師は 明治維新で作られた国家体制を「長州レジーム」と呼んでいます。下関戦争で敗北するやそれまで唱えてきた攘夷を捨て開国に転向したように 覇権国には屈服・従属し それを覆い隠すためにも、民衆に対しては強権的に振舞い、官僚の思惑通りに民衆を操作しようとする体制です。この間の安倍の森友・加計問題や自衛隊日報問題での対応(平気でウソをつき、黒を白と言いくるめる手法)や官僚の安倍に対する忖度を見れば 第二次大戦の敗北で民主主義になったはずなのに 「長州レジーム」がいまも続いていると思いました。

 維新後の国家体制を「長州レジーム」とするのは、なるほど面白い視点ではある。だが、その2で示したように、長州は最初は「開国」で動いていたし、 その5 に示した通り、明治政府の「侵略思想」は吉田松陰のオリジナルではない。だから「長州レジーム」という呼び方は正確ではないだろう。
 「武力倒幕」は、薩摩の軍事力無くしては始まらず、薩摩の主導権の下で行われたとみるのが正しい。リンク先にもあるよう、「大政奉還」で江戸幕府がなくなっても、その後の政局で徳川を追い落とすため、西郷が徳川を挑発して「手下を使って浮浪者をかき集め、江戸市中において強盗・辻斬り・放火・強姦などの無差別テロをやったそうです。」…いわゆる「薩摩御用盗」というヤツ…しかしこの話、歴史が好きな人にとって80年代には常識化していたゾ、手塚治虫が幕末を描いた漫画「陽だまりの樹」にもそのような描写がちゃんとある…
 薩摩の軍事力で、日本列島を制圧し、ついでに「薩摩閥」で軍や政府をかためた…「男尊女卑」が激しい薩摩の「武士道」的なイデオロギーが、日本全国に広まった…このへんはいろいろ検証してみる必要があるのだが、維新後の体制はむしろ「薩摩レジーム」と呼んだほうが正確ではなかろうか?

 最後に、その「薩摩レジーム」を作った西郷隆盛について述べてみよう。

 体制変革、もしくは権力掌握のため、武力(ゲバルト)を行使するのが「正道」であると、あの時期に最もリアルに考え、かつ実行し、出来たのが西郷なのだろう。彼が理想とする社会のあり方、「革命思想」の内容については良く分からないが、「武力行使」の有用性について最も理解していた。そのため、「薩摩御用盗」のような汚い手段を使ってでも、「武力倒幕路線」を貫いたのだと思う。その辺が、なんら武力、ゲバルトの裏付けがない「公儀政体論」者との大きな違いである。
 ただ、彼の力をもっても、「武士階級」の完全解体までは至らなかった…その落し前をつけたのが、10年後の西南戦争である。西郷は桐野利秋ら薩摩の不平士族に「担がれた」形ではあるが、西南戦争という武力行使を行い、敗北することで、自らも所属する武士階級を完全解体したのである。

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明治維新をdisろう…その6「公儀政体論」は成り立ったか?

 そろそろこのシリーズも一応の「まとめ」みたいなことをしておかなければならない。その1 のところで、「、関氏が持ち上げる赤松氏が構想した政体、議会制民主主義が、なんの暴力も、テロリズムもなしに幕末に成立するわけないでしょ…という意趣返し」である。

 幕末において、欧米流の議会制度を取り入れて政治をしようという考え方を「公議政体論」と呼ぶ。提唱する人によって温度差があるのだが、徳川将軍家を元首とした上でその下に諸侯会議を置くというものから、公家・諸侯による上院と、庶民も含めた下院を組織しよう(赤松のそれは下院を普通選挙で選ぼうという画期的なものだ)というものまである。いずれにしても「諸侯」すなわち大名が「議会」の構成員として参加することが想定されている。

 諸侯による会議で物事を決めようとする事例が、幕末で2回存在した。ひとつは1893年(文久3年)の年末から数ヶ月行われた「参与会議」であり、もうひとつは1867年5月の「四候会議」である。「参与会議」は薩摩と会津・徳川が組んで行われた8月18日の政変で長州勢力を京都から駆逐した後、長州の処分と横浜の鎖港(攘夷の実行)をどうするか?という点について、薩摩藩主の父島津久光、越前藩前藩主松平慶永、宇和島藩前藩主伊達宗城、土佐藩前藩主山内豊信、徳川慶喜一橋徳川家当主・将軍後見職、松平容保会津藩主・京都守護職の6名が「朝廷参与」として任命され発足した。「四候会議」は第二次長州征伐が幕府側の敗北に終わり、また14代将軍家茂の死後、すったもんだのあげく徳川慶喜が15代将軍にやっと就任した後に、長州の処分(幕府との戦争に勝利したとはいえ、まだ「朝敵」扱いのまま)と兵庫開港についてどうするか?という点について、島津久光、松平慶永、伊達宗城、山内豊重(容堂)らで話し合ったもので、正式な機関ではないが、徳川幕府に対する諮問機関的なものとして発足した。
 いづれも長続きしていない…「参与会議」は横浜鎖港をめぐって島津久光と一ツ橋慶喜が激しく対立し、三か月ほどで崩壊した。「四候会議」は徳川慶喜も関与することになるのだが、やっぱり久光と慶喜の対立により一か月で破綻してしまう。「公議政体論」の前段となる「諸侯会議」の事例が、2回失敗しているのだ。
 失敗の理由としては様々あるだろうが、いずれにしても「会議」の参加者の身分が「諸侯」すなわち大名家の代表ということであれば、それぞれの「お家の事情」を反映させざるを得ない。島津久光なら島津家の、一ツ橋(徳川)慶喜なら、徳川家の都合が優先される。封建諸侯が領地や民衆支配のあり方などをそのままに「国の大事を決めますよ~」と会議に参加しても、実りの多いものにはならない。
 薩長による「武力倒幕」構想が具体化する中、徳川慶喜は「大政奉還」で幕府権力を朝廷に返上する。幕府を畳んでしまえば「討幕」されることはない、朝廷には政権担当能力はないので、いずれ政権は徳川に帰って来る。政権が「宙ぶらりん」であっても「公議政体論」による「諸侯会議」でヘゲモニーは握れるハズ…という徳川家にとって乾坤一擲の手である。徳川の領地400万石はそのままだし、幕府も軍制改革を行い、独自の「幕府陸軍」を持っていた。加えて榎本武明が率いる、開陽丸を持つ海軍もある…
 「大政奉還」後の、薩長による鳥羽伏見の戦いからはじまる戊辰戦争にはなんら「大義」なぞないのであるが、薩長がクーデターも起こさず、「公儀政体論」で政権運営をしたところで、別の形の徳川独裁が続いたであろう。ただ、「公儀政体論」を導入することで、諸侯とその家臣クラス、さらには下級武士や豪農・豪商階級が政治参加する道は開ける。その中でいずれ「徳川独裁」や、封建的な領地や民衆支配方法に対する不平不満が広がり、なんらかの形で「武力による解決」→「革命」に至る可能性は高かったのではないだろうかsign02
 薩長の武力倒幕を批判(批難)し、公儀政体論を重要視する人の中には、武力倒幕を批判するあまり「武力」を使うことも否定したがる人もいるだろう。だが「公儀政体論」をそのまま適用すれば、「公論」でもって日本が近代化していくというものでもない。いずれ何ら彼形で、「武力革命」を行うことになったであろうと思うが、どうかvirgo

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明治維新をdisろう…その5、吉田松陰思想編

 さて、吉田松陰の思想についてみてみよう。

 「勤王の志士」なんて、天皇がエライ!としか考えてない、民衆のことなんか考えていないんじゃ~!!!という「偏見」というか、時代制約と「武士階級」にいたことの限界性を考えれば、しょーがないなぁ~という点は前提としながら、「じゃぁ、吉田松陰はどうなの?」というところの考察だ。
 ネタ本は「FOR BIGINNERS 吉田松陰」である(80年代に松陰評価の立場で書かれたものだから、その後の研究、その他による別の評価もあるだろう…ということを念頭においてね。)

 1851年12月、江戸に遊学にでていた21歳の松陰は宮部鼎蔵(後の肥後勤皇党の代表的人物で、1864年の池田谷事件で負傷、自刃)と東北を視察する旅に出た。(長州藩はこの旅の”許可”をしていなかったため、松陰はこの時「脱藩」したことになる。)
 「ふたりは白河、会津、新潟、そして佐渡へ渡った。初めて踏んだ東北の地で、松陰は「その山水は、吟人墨客の観に適すといえども、その農桑の業においては困苦もまた如何ぞや」、と農民と農民のおかれた過酷な農事状況に目を向け、佐渡では囚徒や無頼の徒が働く金山の坑内に「衣を脱ぎ一短弊衣を着、縄を以って帯となし」という鉱夫と変わらない姿で地底深く入り、その現場をみた印象を「……おおむね四十人ばかり昼夜更番す。強壮にして力あるものと雖も十年に至れば羸弱(体が弱る)用に適せず。気息奄々あるいは死に至る、誠に憐れむべきなり」と怒り、涙で記している。
 当時の武士で見学のために坑内に入ったのは彼だけだろうし、劣悪な環境と過酷な支配と賃金の安さを指摘した武士も彼だけだろう。」(p48~49)
 「士たる者は三民(農工商)の業なくして三民の上に立ち、任君(君主)の下におり、君意を奉じて民のために災害渦乱を防ぎ、財政相たすけるをもって職とせり。然るに今の士たる者、民の膏血をしぼり、君の俸禄を盗み、この理を思わざるは実に天下の賊民と言うべし。」(p51)

_0001  てなことが書かれている…少なくとも、政治は民衆のために行うもので、当時の政治はそうなってない
sign03と考えていたことは事実だろう。その「理想」のための「思想」として、「天皇を中心とした政治」という…幕藩体制下ではある意味「革命的」だった…尊王思想ということだ。
 彼の「攘夷思想」は以下のようなものだったそうな。
「鎖国はもとより苟偸(一時のがれ)の計にして末世の弊政(悪政)なり」と姑息固陋な攘夷主義者を指弾し、「……万国を航海つかまつり、知見を開き、富国強兵の大策相立ち候よう仕りたき事に御座候」(『続愚論』)という開明主義者でさえある。ただ阿片戦争などの事実から松陰は西欧諸国を無法な侵略者とみていたのだが、それがペリーの恫喝外交によってその正体を確認した。これに屈して開国することは民族の自立、自決、自由を失う亡国の道だと彼は考えていた。
 その渦中にあって戦おうとしない者は「その罪、逆賊より百等よりも重きなり」というのが松陰の攘夷論である。(p75)
 なぁ~んだ、「開国」にもちゃんと意識を向けていたわけだ…なるほど、彼の弟子たちが攘夷はムリだと悟れば、開国にすぐさま舵を切れるのも良く分かる。
 さらには、期限をきっているもの、非戦・軍縮も提案している。ペリーと条約を結ぶ前は「攘夷戦争」を声高に叫んでいたのだが、
「西洋夷と兵を交うるが如きは十年の外に非ざれば決して事なし」(『獄舎問答』)と、10年に年限を区切ったにしろ戦争反対というふうに180度変貌。そして軍備についても
「余の策する所は、武備の冗費を省き膏沢(恩恵)を民に下さんとあり、四窮無告(恵まれない人に)の者は王制の先にする所。西洋夷さえ貧院、病院、幼院、聾唖院などを設け、匹夫匹婦(平凡な男女)もその所を得ざる者なきが如し、いわんや吾が神国の御宝(農民)にし犬馬土芥の如くして可なんや……」(同上)。

と、時代の潮流に逆らって縮小論を展開、その金を人民にまわせと主張(p93)
 全然民衆のことを考えなかった天皇主義者…というわけではない。松陰を「テロリストの親玉」などとくさして、維新をdisたつもりになっても、具体的にみるとそうとは言えない…というわけだ。
 アジア侵略思想について…松陰を語る、批判する上で必ずでてくるのが、彼の思想が後のアジア侵略に結びついた、という指摘である。(この視点は、先の引用本にはまったく触れられていない)具体的には「幽囚録」にある次の記述である。
 今急に武備を修め、艦ほぼ具わり砲ほぼ足らば、すなわち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じてカムサッカ・オロッコを奪ひ、琉球を諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂栄の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし

 たしかに、後の近代日本が歩むアジア侵略のススメ!みたいなことを書いている。
 実は、薩摩の島津斉彬も同じようなことを書いている…「大陸出撃策」というものだ。ただ、これを紹介しているのが、林房雄の「大東亜戦争肯定論」であり、ネットでは島津斉彬自体がどのように書いているのか?ということがイマイチよく分からない。内容的には、日本の諸侯を三手にわけて、「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州諸藩は安南、咬留巴(カルパ)、爪哇(ジャワ)、印度「に進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹(シベリア)、満州を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南支那海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる」というものだ。日本の大名を三手に分けて侵攻しようとしている分、松陰のそれよりも具体的であるし、「英仏の東漸をくいとめる」とは、一種の「積極的攘夷論」でもあろう。
 同時代の吉田松陰と島津斉彬が似たような構想を持っていた…ということは、別に誰か「元ネタ」を考えた人間がいるか、似たような構想が思い浮かぶぐらい、当時の思想的背景があったとみるべきだ。「攘夷論」「開国論」を問わず、当時の人々がどのような「対外政策」案を持っていたのか?もう少しいろいろ調べてみる必要がある。
 開国論者で「尊王攘夷ナンセンス!」と考えていた「幕府側」の人、福沢諭吉は維新後に「脱亜論」を著すなど、「アジア侵略思想」を裏打ちする思想家になるのだが、諭吉が幕末時に松陰の「幽囚録」や斉彬の「大陸出撃策」を読んだとすると、それについて、どう考えたかsign02なんてすごく知りたいテーマだ。

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明治維新をdisろう…その4、吉田松陰生き方編

 明治維新を「批判」する言説の中で、「勤王の志士というのは、テロリストじゃないかsign03」というのがある。テロリストが、明治新政府をつくった←テロはダメでしょ←明治新政府ってアカンやん…という論理構成なのだが。いや、テロ、暴力一般を全否定して、時の政権を打倒し、体制を変革することは不可能でしょsign01

 逆に右側、体制側から維新を「評価」する側も、そこに至るまでどれだけ凄まじい暴力のやり取りがあったかということを抜きにしている。「維新」なんて政党名をつけているヤツらが典型的だ。坂本龍馬たんは… 幕府権力からみれば「過激派」であり、常に体制側(江戸幕府)から命を狙われる「覚悟」をもって活動していたハズだ。現代の「維新」なんて、体制側には絶対暴力もふるわないクセに、公務員や弱者に「改革」と称してキバを向いて来るから、たまったものではない。

それはともかく、その「テロリスト」の親玉、思想的指導者が、長州の吉田松陰ということになるらしい。この人に触れずして、明治維新を語ってもしょうがないので、吉田松陰について触れてみる。
_0001 元ネタは、こちら…FOR BIGINNERS吉田松陰(文/三浦実 イラスト/貝原浩 1982年第一版)当然、本書は松陰を肯定的に紹介している。

 本書の最初のほうに「それにしても松陰ほど評価が別れ、それでいながら左翼にも右翼にも信奉者もつ人物は日本史のなかでは稀有といっていいだろう。」「しかし松陰がユニークな存在として歴史にあるのは先見性によってではない。彼の生きざまが幕末に活躍した志士の誰よりも、世界の革命家の誰よりも『政治家』的資質に欠けた革命家だったという特異性によってでもある」(p20)とある。
 良く知られているように、松陰は外国事情を知るべく、アメリカに密航しようとした。ペリーが二回目に来た時(1854年)、アメリカ船に弟子とともに乗り込み、アメリカに連れていって欲しいと頼み込んだのだ…このへんの行動力はスゴイ…で、断られるのだが、翌日、下田奉行所に「自首」しちゃうのである。もうこのへんで訳が分からんsign03当面の「外国事情を知る」…そのためには、何度でも「密航」を試みるか、別の合法的な?手段を探すか、どちらにしても「自分を大切にして下さい」としか言いようがない。この密出国事件のおかげで囚われの人となり、長州に送還、「野山獄」に隔離同然押し込められることになる。 
 徳富蘇峰の「吉田松陰」の中で、蘇峰は「彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり、彼の一代は失敗の一代なり。」と記している。本書でも「やることなすこと失敗続き」(p130)と紹介されている。野山獄から出されて松下村塾を主催してから、彼の思想は過激になり、早々と「幕閣の暗殺」→「討幕」を目指し、構想するのだが、空理空論、地に足がついていない。「理論と情熱が先行して現実認識が甘すぎるのだ」(p131)で、老中襲撃の武器を周布正之助(藩の要人である)に援助して欲しいと願い出る。そんなモノ、かなえられるハズもない。1858年の暮れには再び「野山獄」に押し込められることになる。獄中でも倒幕計画をたて、松下村塾の弟子たちにその実行を迫るが反対される。「僕とは所見が違うなり、その分かれる所は僕は忠義をするつもり、諸友は功業を為すつもり」と、松陰は弟子たちと決別する。
 時代は「安政の大獄」の真っただ中である。1869年4月、幕府は吉田松陰の償還を命じた。容疑は梁川星厳や梅田雲浜といった、攘夷を唱える国学者との関係である。7月に幕府の評定所において、梅田雲浜との関係や、幕府を誹謗した落とし文について聞かれた。松陰は梅田と謀議をしたこともないし、落とし文なども関係なかった。このまま黙っていれば何事もなかったハズなのだが、彼は幕府の役人に対し、自分のやってきた計画について問われもしないのに語りだした…老中暗殺計画や倒幕計画を、打倒対象である幕府の役人にしゃべっちゃったのである。もちろんこれらの「計画」は松陰の頭の中でほぼ止まっているようなもので、何ら具体的な形、「未遂」ですらなっていないのだが、こりゃぁ幕府も捨ててはおけない…そのまま牢に留め置かれ、12月に処刑されることになる。
 「安政の大獄」とは幕府に歯向かう人たちを弾圧したものと捉えられているが、より詳しくみれば将軍継嗣問題…病弱で子どものいない13代家定の後に、一橋慶喜をたてるか、紀州の徳川慶福(後の家茂)をたてるかで争いがあり、一橋擁立グループが敗北…その後も「一橋派」がいろいろ朝廷を通じて工作等をするものだから、それに対抗して井伊直弼が「大弾圧」をしたものである。松陰は心情的には「一橋派」に近かったかも知れないが、べつに一橋慶喜擁立運動をしたわけではない。梅田雲浜とも謀議しておらず、「落とし文」とも関係がないならば、ほぼ幕府からは”おとがめなし”だったハズ。まったくAFOなことで命を落としているのだが、別な見方をすれば、非常に(BAKAがつくほど)正直な人間であったと言えよう。どっかの(彼を尊敬すると自称している)首相とは大違いじゃないかsign03
こういう「失敗だらけだが、正直な」吉田松陰ってのも魅力だろうな。なお、幕府が松陰を刑死させたことが、最終的に彼の弟子たちを「討幕」に向かわせたとも言える。もし松陰がちょっとまともになって、幕府から殺されなかったら、歴史は違っていたかも知れない。

なお松陰の思想についての検討は別途行う。

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明治維新をdisろう…その3、植民地化の危機はあったか?

 

その2 で長州の周布正之助や木戸孝允らが、はじめは「開国」で動いており、横浜貿易への参入を試みたり、「航海遠路策」を引っ提げて登場したり…というようなことを書いた。その長州がなぜ「尊王攘夷」の急先鋒になったかsign02
 単純に「孝明天皇が、攘夷の意向だった」からとしか、言いようがない。

 その2で書いたように、幕府が大名や朝廷などから意見を聞いて、対外政策等を進めようとした。大名・武家は「開国やむなし」となるのだが、京都にこもって実態経済を運営していない、朝廷・公家は違った。「異国をいれるとは何事じゃ、打ち払えsign03」というわけ。少し後の話になるが、1863年、前年に薩摩が起こした「生麦事件」の賠償支払いが決まった時、孝明天皇は「震怒」し、自筆の勅書を幕府に発する。そこには「皇祖神に対したてまつり、申し訳これなく、」「たとえ皇国、一端、黒土になりそうろうとも、開港交易は決して好まず」と書かれていたそうな。いやぁ~皇祖神に申し訳ないから、たとえ国土が”黒土(焼野原)”になってもいいんで攘夷をしろsign03と言ってるわけだ。

 当時の”常識”として、天皇、朝廷を「ないがしろ」にすることは許されない…という意識があたりまえのようにあり、天皇の意向を「忖度」するほどエライsign03ということになる。加えて長州は1858年に「朝廷に忠節、幕府に信義、祖宗に孝道」という綱領を決めている。そうなると天皇の意向をくんで「攘夷」したほうがエエんじゃね?そうすれば京都政局における地位も確保できるし…ということで、1862年7月、京都三条河原町の藩邸における御前会議(藩主の前で行う会議)で、「破約攘夷」攘夷決行を藩是と決定したのである。

 ただ藩是を「攘夷決行」にできるのは、単に「天皇の意向」だけでは無理で、それなりに「世論」の後押しも必要だ…で、この時代は、列強によるアジア侵略が進められていた時代でもあり、幕府も含め、武士階級の有力な人たちは1840年の「アヘン戦争」について情報を得ていたし、同時代には「アロー戦争(1856年)」から天津条約、インドにおいては「インド大反乱(セポイの乱 1857年)」からムガール帝国の滅亡…ということが起こっている。欧米列強の「開国要求」が、そのまま「植民地化」に向かうのではないか?と危機感を覚えた人も多くいたであろう。そういうことも背景に「攘夷論」というのは広がってゆく。
 明治維新を「評価」する考え方として、この欧米列強からの「植民地化」圧力が、「攘夷論」を生み、そのエネルギーが「討幕」から中央集権的な近代国家成立へと導いたとする。実際、「攘夷」を行って「植民地化」に抵抗、対抗するためには、軍備を近代化せねばならず、長州もふくめ多くの藩が「軍制改革」を行って「西洋銃陣」を取り入れようとした…だが「西洋銃陣」は、同じ銃を持った均質な兵士の人数をそろえることが基本であり、身分、階級の複雑な武士階級をそのままにした上で導入してもうまくいかない。そうゆう「封建的身分制度」をぶち壊し、粉砕する必要があった…その原動力として「尊王攘夷」運動が果たした役割は大きいだろう。

_0001  だが、幕末期の「植民地化の危機」について、後付けになるのではあるが、列強は日本を植民地化する意図も能力も無かった…というのがホントのところらしい。岩波新書の「幕末・維新」によれば、「生麦事件」後の外国人居留地で起きた「即時報復」論に対しても、「しかし、イギリス代理公使ニール(オールコック公使は帰国中)は、『日本と開戦することに等しい」と拒否し、海軍キーパー提督にいたっては、問題に関与することも断った(『一外交官の見た明治維新』)。イギリス外交部は日本に対して慎重であったし、香港を本部にする、極東のイギリス海軍は外交部以上に慎重であった。」(p113)そうな。この後、倍書金支払いをイギリス海軍の力で勝ち取るよう、本国外務省から訓令が来ても「しかし、海軍のキューパー提督は、慎重であった。日本の三港の安全を同時に保証する戦力はイギリス海軍には「とうていない」(キューパー)のである。こうして、日本現地のイギリス側の本音は、日本との戦争はなんとしても避けるというものであった。」(p114)そうな。

 さらに書けば、1861年にロシア軍艦が対馬の芋浦崎に来航し、勝手に兵舎を建設したあげく、対馬藩に永久租借を要求する事件があった。これについて
「ロシア軍艦の行動は、箱館のロシア領事も知らなかった海軍独走によるもので、明白な条約違反以外のなにものでもなかった。事件が「植民地化の危機」論争で必ず引用されるのは、日本に圧倒的な影響をもっていたイギリス公使オールコックが、「もし、露艦が、同島(対馬)から退去を拒む場合は、英国自身、これを占領すべきである」と言明し、イギリスが「日本占領」の意図を示したし、戦前の文部省維新史料編纂会編『維新史』で説明されてきたからである。
 実は、イギリス東アジア艦隊司令官ホープは、オールコックの言明に賛成しなかった。司令長官は、日本の開港場が中立港として利用可能であれば、経費も防衛費も要らないのであり、「日本の領域のどんな一部の一時占領でさえ」得策ではない、という見解であった。イギリス海軍は、中国の開港場を占領したために、経費と防衛費負担に苦しんでもいた。
 オールコックの対馬占領意見も、ロシアが退去しないのであればというロシアへの「対抗処置」であり、また、その目的は「それ(対馬)は、中国の港とわれわれの巨大な貿易の大きな保護手段となるでしょう。そしていつでも、北京の宮廷でのいかなる裏切り行為に対しても絶えざる威嚇となるでしょう」というように、日本での権益獲得のためではなく、巨大な中国権益保護のためなのである。それをも軍事作戦を統括する海軍当局が認めなったわけである。」(p117~118)

 また時代が「倒幕」段階になった時も、イギリスは局外中立を守っていたし、幕府側に加担していたとされるフランスも、実際のところベトナムへの侵略と、欧州で台頭するプロシア(ドイツ)への対応に重点を置かざるを得なかったという実情であったそうな。

 だから、結果的に「尊王攘夷運動」というのは、外国勢力に対する「過剰反応」であったともいえる。だが、当時の人たちはそんな細かな事情はまず分からないし、知ることもできなかった。あまり「後付けの理屈」をもって、当時の運動や理念が間違っていたということは、やってはいかんだろう。そうゆう意味で、明治維新「批判」ではなく、「disる」で止めている…ということもあるのだ。

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明治維新をdisろう…その2、幕府はなぜ衰亡したのか?

 

その1 の続き企画…幕末の対外政策、条約締結などの中身を見ると、江戸幕府は決して「無能」ではなく、有能な官吏によって政権運営がなされていた。ということを書いた。ではなぜ国内が混乱したあげく、衰亡し、打倒されてしまったのか?
 衰亡の理由としては、江戸時代における産業のそれなりの発展により、封建的な支配体制がゆきづまったから…と答えると元も子もない。ただ、幕末、開国時において特殊な条件が存在した。
 もともと「鎖国(今はこのように学校では習わないらしい)」体制は、幕府の一存で決めたことなのだから、「開国」も幕府の一存で決めればよいことだった。だが、幕府は開国するにあたり、諸大名やはては朝廷にまで意見を求めて決めようとした。ここに、有力な外様大名や朝廷、公家なんかが政治に参加するようになり、収拾がつかなくなったsign02というのが、「幕末・維新」史のキモなんだろう。ではなぜ幕府は、諸大名の意見を聞こうとしたのか?
_0001 岩波新書「幕末・維新(シリーズ日本近現代史)」によれば、天保改革で幕府権力を回復…文字通り、幕府が専制的に(「鎖国」を決めた時と同じように)支配できる体制を回復すること…に失敗したからだそうな。
 「十九世紀に入るころ、江戸日本では、商品経済が発展し、国内市場が掲載されはじめていた。それまでの江戸、大坂、京都の三都を中心とする遠隔地間の市場から、城下町など無数の地方都市を核とする、きめ細かい網の目のような市場へと経済構造が進化していた。
 大名も、村役人や在方の大商人などを組織して産物交易を展開する。大坂を通らないで江戸に「直き積み」(直送)した姫路藩の木綿専売がよく知られた事例である。(中略)
 さかのぼると、阿部正弘が老中首座に就く前に、幕府の天保改革が失敗していた。天保改革の雄藩に対する政策として、江戸と大坂の大名領や旗本領を幕府直轄とする上知令と西国諸藩専売の取締令があった。大名や旗本を他へ移して、あるいは、大名の産物政策を禁止するなどの犠牲によって、幕府の支配と防衛の強化を行おうとしたものである。薩摩藩の密貿易は、新潟港などで幕府に弾圧された。しかし、大名は、すでに地域経済を成熟させており。改革は、大名の反抗が一因となって失敗した。その後に登場した阿部老中が、大名との協調路線、特に薩摩藩など雄藩と連合する政治をすすめたのは必然だった。こうして、雄藩は、ふたたび力強く台頭する。」(p51~52)

 やっぱり、産業の発展が、封建的な支配体制をゆるがし、「幕府の即決」なんて乱暴なことは出来なくなっていたということだねhappy01
 なお「開国」にあたって意見をきいたところ、強硬打ち払いから積極通商まで、様々な意見がでたが、国内での産物交易が進展していたこともあり、通商を求める開国論の大名が圧倒的に増えたのだそうな。最初に積極通商の意見に変わったのは島津斉彬の薩摩藩であり、「最後まで打ち払い策を上伸した大名は少数で、徳川家門の尾張藩、水戸藩、そして鳥取藩、川越藩の四藩だといわれている」(p52)…「攘夷思想」水戸学の本家、水戸藩はともかく、「攘夷」なんかしたかった藩は非常に少なかったことが分かる。
 「尊王攘夷」のもう一つの”チャンピオン”長州藩はどうか?開国を決める時はあたりさわりのない回答しかしていないらしい。その後、1861年に「航海遠略策」…幕府と朝廷に海外貿易進出を進める…を引っ提げて政局に登場することになる。長州藩の周布正之助、高杉晋作そして木戸孝允らは、のちに長州の「尊王攘夷運動」を支えるのだが、この時ぐらいまでは横浜貿易への参加を試みるなど、「開国」で動いていたようだ。

ますます「尊王攘夷」運動ってナゾだなぁ~coldsweats01
なお幕府は権威低下に対し、この後も何度か「権威回復」を試みようとする。その大きなものが井伊直弼の「安政の大獄」であろう…しかし、本人が暗殺されて失敗。また、より後年には幕府権力回復をめざす徳川(一橋)慶喜と、薩摩藩との「政局争い」になる…それがつもりつもって、薩摩による「武力倒幕」に行き着いた…というのが、幕末・維新史のキモなんだろうなvirgo

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明治維新をdisろう!…その1

 「未来253」号に「明治維新150年キャンペーンのうそ 先進的な憲法構想を抹殺」という記事がある。8月8日に「戦争あかん!ロックアクションが主催する講演会 」の内容を紹介するもので、明治維新は反革命!と断罪している。具体的には、幕末期の欧米列強の「外圧」に抗し、「無能な封建支配」を続けていた江戸幕府を打倒し、「近代化」への道を歩み始めた「明治維新」…というのはウソであるsign03ということだ。

 講演は拓殖大学教授の関良基氏によるもの…関氏は幕末の信州上田藩士、赤松小三郎に着目し、「赤松小三郎ともう一つの明治維新―テロに葬られた立憲主義の夢」(作品社 2016年)を著している…で、そのレジメも手に入れたから、おおよそ講演の内容も把握した。そこで、このレジメや関氏の主張も踏まえながら、明治維新をdisってみよう…というのをやってみる。
 ここで、なぜ明治維新「批判」ではなく、disるだけなのかsign02ということであるが、数多くの明治維新批判のメインストリーム…「明治維新」が「近代化」と引き換えに、天皇中心の政治体制を作り、北海道、琉球、台湾、朝鮮などへの侵略を進めて行った政体をつくったことを批判することは簡単だが、それを急ぐあまり「全否定」もできないでしょ…というもの、さらに言えば、関氏が持ち上げる赤松氏が構想した政体、議会制民主主義が、なんの暴力も、テロリズムもなしに幕末に成立するわけないでしょ…という意趣返しでもある。
 ただ、先に「無能な封建支配」を続けていた江戸幕府…と書いた。これを打倒したことはスバラシイ!あるいは最低必要だったのでは?という話がある。だが、少なくとも幕末の対外政策において、江戸幕府は決して「無能」ではなく、むしろまっとうであった。これは関氏のレジメにもあるし、その元ネタである「幕末・維新(シリーズ日本近現代史①)」(井上勝生 岩波新書2006年)を読んでも明らかである。

 幕末にペリーがやってきて、開国…その後、アメリカと日米修好通商条約を結び、同様な条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ぶことになる。この条約が「不平等条約」で、日本の独立を脅かすトンでもないものだった、幕府は「無能」だったので、このような条約を押し付けられたのだ…というのがこれまでの通説だ。
 ところが、幕末に外交交渉を行った役人たちの能力は非常に高く、ペリーに対しても言うべきことはちゃんと言っている。日米修好通商条約は、関税率が20%と高く(よく「関税自主権がない」と言われているが、一定の「協定関税」で固定されていたということである)、アヘンは貿易の禁制品目に指定されるなど、決して日本が一方的に不利なものでもなかった。「治外法権(領事裁判権)」も、外国人は居留地とその周辺にしか住めない等の制約とバーター的なものであったと解釈できる。外国人は居留地外での商売は認められないから、これは日本の産業を「保護」することにもつながっている。
 この「安政条約」は、後に長州が「攘夷」を叫び、下関で四か国艦隊と戦闘することで改悪され、関税率が5%と清国やインド並に引き下げられたのだそうな。こっちが「不平等条約」の始まりらしい。

 とにかく、開国で貿易が開始された。岩波新書「幕末・維新(シリーズ日本近現代史)」によれば「1859(安政6)年6月、横浜と長崎、箱館の3港で自由貿易が始まった。日本の輸出超過、つまり貿易黒字で始まる。はじめて丸1年を経た翌年も、輸出471万ドル、輸入166万ドルとやはり輸出が多かった。七年後の65(慶応元)年には、輸出1849万ドル、輸入1514万ドルで、一転、輸入が急増した。輸入はその後も増え、維新直前の67年には、輸入2167万ドル、一方、輸出は1212万ドルとやや停滞するが、その後は次第に増加の傾向をたどる。このように、67年から日本の輸入がやや超過に転じたが、貿易はおおむね順調に急転した。とくに貿易黒字に転じた欧米側にとって、予想を上回る順調な貿易であった。」(p109)とある。なお関氏によれば、1865年に貿易収支が逆転したのは、その前に改定された「不平等条約」がきっかけだとしている。
 日本が輸出したのは生糸とお茶であり、輸入は木綿製品だ…生糸の輸出によって、それを売り込む商人に資本が蓄積した一方、木綿の栽培は縮小、消滅に向かう。ただし綿織物産業は明治維新後、輸入綿糸によって勃興した所も出てきた。また国際水準に比べ著しく低い金銀交換比率により、当初は金が国外流出したが、幕府が改鋳を行ったため金貨rの流出は止まった…ただし物価は高騰した…開港による経済の混乱は、実際のところそれほどでもなく、「従来のように貿易の開始を、在来産業が壊滅させられ、社会に『不安と混乱』が巻き起こったとみるのは一面的に過ぎる。貿易初期について見ても、生糸売り込み商人の盛んな活動に代表されるように、貿易への参加が広範にみられ、それが日本の独立の真に広大な基盤になった。」(p113)とのことである。

わざわざ「尊王攘夷」なんぞ叫ばなくてもよかったsign02ということだろう。

考えるあるみさんのブログ…更新

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さらなる海外派兵を進める自衛隊弾劾!

 自衛隊がさらなる海外派兵を進めていることが報道されている。Y!ニュースより、まずは時事通信
陸自、多国籍軍へ派遣=初の「国際連携活動」―政府検討
 政府がエジプトとイスラエルの国境地帯での平和維持を監視する「シナイ半島多国籍軍・監視団(MFO)」に陸上自衛隊の派遣を検討していることが17日、分かった。
 安全保障関連法の施行で可能となった「国際連携平和安全活動」を初適用し、国連が統括しない多国籍軍に派遣する形だ。現地の安全が確認されれば、陸自隊員を司令部要員として派遣する。
 MFOは1979年にエジプトとイスラエルが平和条約を結んだのを受け、82年から展開。米国を中心にコロンビア、フィジーなど12カ国、約1200人の軍人が参加している。日本政府は88年以降、財政支援を行っている。
 国際連携平和安全活動は、安保法に含まれた改正国連平和維持活動(PKO)協力法に規定が新設された。国連が統括していなくても国際機関の要請があれば、人道復興支援や安全確保などの活動への自衛隊参加が可能。紛争当事者間の停戦合意などPKO参加5原則が準用される。MFO参加によって、自衛隊の活動範囲がさらに広がる。 


 記事中にもあるように、2015年の安保関連法で新設された規定による、海外派兵の拡大である。MFOに対してこれまで財政支援をしてきた、あるいは「国連PKO」に近いものだからエエんだと見過ごすようではイケナイ…これまで「国連」の枠組みという歯止めがあったのを、とっ外した形になるからだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、海外派兵の枠組みが外され、のっぴきならないところに行きつくかもしれない。自衛隊の多国籍軍への合流を阻止しようsign03
 
続いて、海自の話題…産経新聞より
海自、南シナ海で潜水艦訓練異例の公表、中国を牽制
 防衛省は17日、海上自衛隊の潜水艦を南シナ海に派遣し、護衛艦部隊とともに対潜水艦を想定した訓練を13日に実施したと発表した。実任務に就く潜水艦の南シナ海での訓練が公表されたのは初めて。同海域で一方的な軍事拠点化を強行する中国を牽制(けんせい)する狙いがある。
 派遣したのは海自呉基地(広島県)を母港とする潜水艦「くろしお」。13日までに東南アジア周辺海域で長期訓練中の護衛艦「かが」「いなづま」「すずつき」の3隻と合流し、護衛艦や艦載ヘリコプターがソナーで潜水艦を探索する一方、潜水艦は探知されないように護衛艦に接近する実戦的な訓練を行った。訓練海域はフィリピン西側の公海上で、中国が南シナ海に引いた独自の境界線「九段線」の内側という。
 くろしおは17日、南シナ海に面するベトナム中部の軍事要衝カムラン湾の国際港に寄港した。海自潜水艦の入港は初めてで、南シナ海で中国との領有権問題を抱えるベトナムとの連携を示す狙いもありそうだ。
 海自が秘匿性の高い潜水艦の行動を公表するのは異例。あえて対外的に明らかにすることで、日本の存在感と運用能力の高さを示し、南シナ海での権益を主張する中国を強く牽制したい考えだ。
 安倍晋三首相は10月下旬に訪中を予定しており、日中関係は改善しつつある。しかし、政府は法の支配を重視する立場から覇権主義的な行動には厳しい姿勢で臨む方針で、自衛隊幹部は「南シナ海は日本にとっても重要な海上交通路だ。今後も日本なりの方法で関与していく」と語る。
 南シナ海では、中国がスプラトリー(中国名・南沙)諸島の人工島に滑走路やレーダーを建設したほか、パラセル(同・西沙)諸島に地対艦ミサイルを配備し、軍事拠点化を進めている。これに対し米海軍は人工島から12カイリ(約22キロ)内の海域を通過する「航行の自由」作戦を断続的に実行。米空軍もB52H戦略爆撃機を南シナ海上空で飛行させ、中国に圧力をかけている。
 首相は17日夜のテレビ朝日番組で、海自潜水艦の南シナ海での訓練について「実は15年前から行っている。昨年も一昨年も行っている」と明らかにした。「自衛隊の練度を向上させるものであり、特定の国を想定したものではない」とも述べた。

 こちらは15年も前から南中国海で潜水艦訓練を行っていたというもの。公表は報道にもあるよう、対中国への牽制というのが明らかである。だが注意しないとイケナイのが、15年前(2003年)は、まだ中国は同海域での人工島建設に着手しておらず、訓練は「日本のシーレーンを守る」という名目で行われていたものだ。
 「シーレーン防衛」の名の下、遠く離れた南中国海、ベトナムやフィリンピンにも近いところで、隠密の軍事訓練を行っていたというのである。専守防衛もへってくれもない、帝国主義海軍としての海上自衛隊を弾劾せよsign03

 自民党総裁選挙で3選を果たし、安倍晋三が「自衛隊を憲法に明記する」など、改憲を推し進めようとしている。9条1項、2項をそのままにしても、後にできた条文が前条文を抑え、公式に日本は「自衛隊」という軍隊を堂々と持つことになる。また自衛隊が内閣、国会(衆議院・参議院)、会計検査院とともに、憲法で規定された組織となることから、自衛隊が「聖域化」し、安保法制で集団的自衛権も認められた中、ドンドン海外に派兵されたり、日本からウンと離れた所で「敵国」(日帝・米帝を問わない)への挑発行為を繰り返したりということへの歯止めも失うだろう。

 さらなる海外派兵を企てる自衛隊・防衛相を弾劾するとともに、安倍改憲を許さない闘いを構築してゆこうvirgo

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